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2013年3月 7日 (木)

宮古島史の不思議、その5

稲村賢敷(イナムラケンプ)著『宮古島庶民史』は、次のような記述をしている。

                           

 

 目黒盛対与那覇原戦争の当時、彼は齢既に五十前後に達していたものと思われる。…(目黒盛)豊見親は持久戦と奇兵戦法によって敵を悩まし、最後は農民兵の来援によって勝利を得たということになる。その武力において与那覇原軍にまさって居たというよりも、智謀と徳の力によって最後の勝利を得たというべきである。

与那覇原軍に勝った後の目黒盛豊見親の政治は、長い間の戦乱時代の後をうけて、農業・牧畜を奨励して民力を休養せしめると共に、御獄を修理建造して神祗崇拝の心を起し、人心を安堵せしめることにあったのである。…

ともかく、この戦争は目黒盛一家と与那覇原一族との間における興亡を決する戦いであっただけに、犠牲は与那覇原だけに限らず、勝った方の目黒盛側でもその子弟および股肱(ココウ)の家臣で戦に殉じた者は沢山あったことと思われるのである。…

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  上写真は目黒盛と与那覇原軍との戦闘で目黒盛の飼い犬が飛び出して助けた伝説のある「ニブス川 平和の犬川」の碑

目黒盛豊見親の死後、一子真角与那盤殿(マツヌユナバントゥヌ)が継いでよく父の意志を守り、仁政を以て治めた。この頃、与那覇原の後継者与那覇勢頭豊見親は与那浜に遁走した一族と共に敗戦後の勢力恢復に努力していたが、背後における根間地、および長間田等の肥沃なる荘園地によって次第に富強となり、船を艤して中山朝貢の途を開いたのであった。これは宮古と沖縄本島間の初めての朝貢関係であって、中山王察度も大いにこれを喜び、彼を宮古主長の職に任命したのであった。…
 
 与那覇勢頭豊見親は宮古主長になったけれども、彼もまた平和主義で聡明寛大な人であったから、与那覇原一族と目黒盛家の間には少しも武力抗争は起らず、島民は平和を享受することができた。…

すなわち、(与那覇勢頭)豊見親の中山朝貢の目的は、大国に通じてその統治を受けることによって島内の秩序を維持し、平和を致すことにあったことは明らかである。他の西南諸島の中山入貢が、主として交易上の利を得たいという経済上の理由に存したのとは異なり、彼はその前半生における深刻なる体験から生れた平和思想にもとづいて、人民を戦禍の苦しみから救済しようという政治的意義が主となっていることは明らかである。…
 
 この中山朝貢という新体験にもとづいて島民を指導啓発し、従来小孤島内のことにのみ心を捉われて互いに勢力を争い、攻戦殺伐をこととした愚を悟り、より広大なる世界に眼を転じて通商交易の面にその雄志を伸ばそうとするに至る、島内の人心転換をはかる大きな効果があったのである。…005_2          那覇市にある与那覇勢頭逗留旧跡碑

宮古主長としての彼は、暫くの間は与那浜を中心として民力を休養すると共に、通商交易の利を収めて一族の富強をはかったことであろうと思うが、いつまでも僻隅地の与那浜で全島の政治をみるわけにはいかなかったろうから、再び平良附近に移って祖先の故地を恢復したものと考えねばならない。…
 
 しかし平良付近に帰還した与那覇原一族は、海外通商の利益を知り、より広大な世界に生きる道を知っていたから、固陋(コロウ)なる報復思想や殺伐なる習俗はこれを忘れて目黒盛系統の人々とも円満に協力して島内の平和を維持したことと思われる。これについては、泰川大殿の第三子大里(ウプダテ)大殿が宮古主長となって権勢並ぶ者なかった天順年間の頃、当時七歳の少年であった空広(ソラピイ、目黒盛豊見親の五世孫に当り、後年仲宗根豊見親と称す)の才能非凡なるを見込んで、これを吾が家に引き取って吾が子同様に養育し、17,8歳頃にもなると家権の全部を彼に季せたという美談が残っている。…

彼が大里大殿の恩顧を受けたと称する七歳の時は、天順の末か成化の初め頃で、大里大殿は50歳前後で宮古主長として権勢盛んなりし頃のことである。この伝説によっても知られるように、目黒盛一族と与那覇勢頭一族間には昔日のような争闘確執の空気は全然なく、むしろ親和協力して島内の政治に当ったことが明らかに窺われるのである。…

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                 与那覇勢頭逗留旧跡碑のそばには「白川宮」がある

大里大殿は天順年間(1460年頃)の初期宮古主長に任ぜられ(白川氏家譜)、しばしば中山にも朝貢して島民の信望も篤く仁政を施した。やがて齢七十を越えて中山への御奉公も思うようにならないので、成化年間の末頃には上表して致仕し、自分の後継者として子能知伝盛(ノチデモリ)大親恵照と忠導氏玄雅の二人を交替朝貢せしめたい旨を乞うて許された(白川氏家譜)という。…

大里大殿の死後恵照は父の家統を継いで宮古主長となったけれど、中山朝貢の帰途逆風に遭うて久米島に漂着し、間もなく病没したので久米島東獄に葬った(白川氏家譜)。かくして島内の政権は自から忠導氏玄雅に集まり、やがて中山の命を受けて宮古主長に任ぜられたので、目黒盛豊見親の死後、久しく白川氏に帰していた宮古主長職は忠導氏の手に移るようになった。

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