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2013年3月29日 (金)

会津藩の悲劇

 沖縄と福島は、大震災以後、なにかと比較されることが多い。住民に迷惑な米軍基地や原発を押しつけられた構図が似ていると。ただし、かなれ違いもある。話は最初から横道に入った。
 
 NHK大河ドラマの「八重の桜」を見ていると、会津藩の歴史に関心が向く。

 幕末の動乱期、会津藩は京都守護職を任じられ、曲折を経て、江戸城は無血開城されたのに、藩は会津戦争でたくさんの犠牲者を出した。

 なぜ、東北の会津藩がそこまで犠牲を強いられたのか。会津藩がもともと、藩祖、保科正之が徳川2代将軍、秀忠の落胤で家康の孫だったことから起因する。会津松平家は、「大君(将軍)の義一心大切に忠勤を存ずべし」を15カ条の家訓(カキン)に掲げている。徳川将軍家に忠勤に励むことが第一義となる。
 
 筆頭家老の西郷頼母は、第9代藩主の松平容保(カタモリ)に対し、会津藩を守るため京都守護職には強く反対する。だが、頼母は家老職を免じられ、容保は守護職に就いた。会津藩の領民と藩士を守ることより、徳川家に尽くすことが優先された。
 戊辰戦争となり、将軍・徳川慶喜は新政府に恭順の意を示す。江戸城は無血で開城されたのに、会津藩は旧幕府側の中心となり、会津戦争に突き進む。
 
 鳥羽・伏見の戦いに敗れて会津に帰ってきた容保に対し、5年間閑居したあと復職した西郷頼母は、和議恭順謝罪すべき旨を進言した。しかし、主戦論を覆すことはできず、従軍したという。会津は、鶴ヶ城で一カ月籠城するが、最後は降伏の道を選ぶ。
 
 一方で、「官軍」の進攻を前にして、藩士の家族は悲惨な事態に追い込まれる。家老・頼母の妻、母、妹2人、娘5人ら9人は自害。さらに西郷家の一族、代々仕えてきた者合わせて21人が自害した。藩士の家族の悲劇は、限りなくあるという。

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         記事とは関係ない。昨日の17夜の月。

 16,17歳の武家の男子で組織する白虎隊が、飯盛山に落ち延びて、19人が自害したのも痛ましい犠牲である。けっして「殉国」といって美化してはならない。

 なにか68年前、米軍の進攻を前にして、日本軍によって住民が集団自決を強いられたことや、「ひめゆり女子学徒隊」など、沖縄戦の悲劇を想起する。

 会津では、「戦争に負けた」とは、太平洋戦争のことではなく、戊辰戦争で薩長に敗れたことを指すという。それだけ、後世に深い傷を残しているのだろう。

 藩士たちには、さらに過酷な運命が待ち受ける。会津藩は没収され、故郷を追われる。移封された地は、青森県の本島最北の下北半島とその南のあたりで、寒冷不毛の地。斗南藩を立ち上げ、17000人余が移住するが、当初は支給された政府の救助も打ち切られ、衣食困窮のどん底生活で、多くの藩士はこの地を去っていく…。

 余りに悲しい会津藩の歴史である。

徳川将軍家に忠勤を尽くすという「この家訓が200年後、結果的に会津を亡ぼす要因となる」。NHK大河ドラマ「八重の桜」の歴史解説でもこう指摘している。

 悲惨な結末は避けられない道ではなかった。少なくても、会津の藩と領民を守ることを第一に考えれば、悲劇を避ける別の道を歩むことができたのではないだろうか。後世の者から見れば、そう思えてならない。

 だだ、「歴史に“もし”は禁物」。歴史は変えられない。できるのは、そこからどのような教訓をくみとるのか、ということだけである。

 花村奨著『風雪会津藩物語』、ネットのNHK「八重の桜」の歴史解説、NPO法人青森県福祉サポート協会「斗南藩の歴史」を参考にした。

 

 

 

 

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