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2013年3月 8日 (金)

宮古島史の不思議、その6

稲村氏の見解は、以下の点で興味深い。

1、与那覇勢頭豊見親は宮古主長になったけれども、平和主義で与那覇原一族との間には武力抗争は起らず、島民は平和を享受できたこと。

2、目黒盛豊見親の死後、あとを継いだ子ども真角与那盤殿は、「よく父の意志を守り、仁政を以て治めた」とのべ、政治権力を行使していたことがわかる。

3、与那覇勢頭の中山朝貢は、「大国に通じてその統治を受けることによって島内の秩序を維持し、平和を致すことにあった」とのべ、交易によって利益を得ることより、「大国の統治を受け、島内の秩序維持」という政治的な目的が主であったこと。

4、大里大殿は、中山に宮古主長として任命され、しばしば中山に朝貢し「権勢並ぶ者なかった」こと。つまり、目黒盛一族は、もはや並び立つ権勢をもっていなかったことを意味する。

5、与那覇勢頭は「いつまでも僻隅地の与那浜で全島の政治をみるわけにはいかなかったろう」として、「全島の政治を見る」という支配的な立場にあったこと。

6、「平良附近に移って祖先の故地を恢復した」が、目黒盛一族と与那覇勢頭一族間は「争闘確執の空気は全然なく、むしろ親和協力して島内の政治に当った」と見られること。「祖先の故地を恢復」しようとすれば、本来は目黒盛一族と確執がおきて不思議ではない。だが、平和裏に移ったとすれば、そういう協調関係にあったことをがわかる。

7、目黒盛豊見親の死後、久しく白川氏に帰していた宮古主長職は忠導氏の手に移るようになったとする。ただ、目黒盛は実権を握っても、中山王から宮古主長職には任命されていない。
 
 稲村氏見解は、宮古の支配者の実権が、目黒盛の死後は、与那覇原一族に移っていたが、大里大殿とその子が亡くなって、再び目黒盛一族に移った見ている。宮古島のなかで二大勢力を形成していたが、政治権力が二分されていたのではなく、中山王の任命した宮古主長が全島を統治していたという解釈になる。

これらの点で『宮古史伝』とはかなれ異なる見解である。109


    仲宗根豊見親が八重山遠征での戦勝を記念して築いた漲水御獄の石垣の碑

 

おわりに

これらを見たうえで、勝手な推測と私見をのべる。

『宮古島記事次第』などを読むと、目黒盛一族は、子どもの真角与那盤殿の代は、「よく父の意志を守り、仁政を以て治めた」と記され、いまだ統治権をもっていたことがわかる。しかし、そのあとの代になると、子どもをめぐる話はあっても、政治を行った事績については記述がない。そればかりか空広は、かつては対立した与那覇原一族の、大里大殿のもとで養育されている。もはや目黒盛系統の権力を継ぐという状況ではない。すにで、承継するような権力がなかったのだろうか。
 
 それに対して、与那覇原一族は、三代目の大里大殿も宮古主長と任じられているように、主長職を継承していて、大いに権勢を誇っている。島の二分派が形成されたあと80年余り間、力関係は固定化していない。変動があったことがうかがえる。

14世紀半ばごろと見られる目黒盛が与那覇原軍を打ち破った時代から、与那覇勢頭の中山朝貢をへて、仲宗根豊見親の主長になる1474年までの間(『宮古史伝』は110年間とする)は、宮古史のうえで、一つの過渡期とみられる。群雄割拠の時代が終わり、島が統一され、さらに単一の政治支配が確立するに至る過程をなしている。

これは、日本史でいえば、戦国時代を制した豊臣秀吉から徳川家康に権力が移り、江戸幕府を開く過程、琉球史では三山時代から尚巴志が琉球を統一し、さらに尚円王が第二尚氏を打ち立てる過程に比定されるのではないだろうか。

与那覇勢頭が最初に宮古主長に任じられた時は、まだ目黒盛が支配の実権を握っていたとしても、与那覇原一族が中山朝貢を繰り返すなかで、王府の威光と宮古主長職の権威が比重を高めたのではないだろうか。王府の権威をもたない目黒盛一族の力は弱まっていったのではないか。大立大殿の時点では、二分派は対等な関係ではない。目黒盛の玄孫が与那覇勢頭一族のもとで養育されたということに、最も端的に表れている。
 
 ただし、重要なことは、両勢力の力関係がどうなったのかではない。互いに宮古島を統治するうえで協調し合う関係にあること。民衆の上に立ち、政治支配と経済的な搾取によって統治秩序を維持する支配的な勢力として、一つに収斂されていく過程にあったことを示しているのではないだろうか。

実際に、仲宗根豊見親が、中山から主長職に任じられたことによって、単一の政治支配が確立する。もはや、両勢力は、合一した政治的な支配勢力として形成されていった。

宮古の支配者の名称は「豊見親」の時代のあと、平良、下地の二頭職、さらには砂川を加えた三頭職へと変わっっていった。


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               東平安名崎の海岸


 与那覇勢頭系の「白川氏」、目黒盛系の「忠導氏」、仲宗根豊見親の第3子知利真良豊見親から出た「宮金氏」という氏族が、頭職をはじめ宮古の主要官職を占めていくことになった。

明治30年の旧慣廃止まで、宮古の頭職の110名のなかで、その3分の1に当たる35名は白川氏出身。忠導氏の家系からは支流をあわせて17人の頭職を出し、白川氏と並んで島内における二大名門とされる(『宮古島庶民史』)。

「宮古島史の不思議」といっても、素人の独りよがりにすぎない。ただ、いくつか宮古島の歴史に関する著書を読んでみたが、この宮古島が群雄割拠の時代から単一の政治支配が確立する宮古島史のキーポイントともいえる重要な時期の考察に限って言えば、宮古歴史の二大名著といわれる『宮古史伝』『宮古島庶民史』が、もっとも深く検討してまとまった記述をしていると思う。不満なのは、『平良市史通史編』や市町村合併後の近著『宮古島市史通史編』がいずれも、この時代について、立ち入った考察を避けていること。市史では、あまり立ち入った考察と見解は避けているのだろうか。まだまだ宮古島の歴史には、よくわからないことが多い。今後、宮古島史の研究の発展を期待したい。

 

(おわり      2013年3月5日       文責・沢村昭洋)

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