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2013年3月16日 (土)

首里・崎山町を歩く、その3

                           

 

 首里城の裏門に行こうと歩いて行くと、裏手になるところに、工事車両が出入りするゲートがあった。普段はこんな裏手には来ない。せっかくだから覗いてみると、守衛さんが立っていた。ここから先は、工事関係者しか入れない。Img_1730

首里城は、政治、外交を行う庁舎の部分、神聖な場所と崇められた「京の内」、さらに、国王とその家族、そこに仕える多くの女性が暮らす「御内原」(オウチバラ)があった。正殿をはじめ「表」の世界に対して、女性がすべてを取り仕切った御内原は「奥」の世界である。男子禁制だった。
 
 御内原は、いくつもの建物、門などが整備されている最中だ。だから、このゲートから工事関係の車両が出入りする。工事カ所の名称には「黄金御殿(クガニウドゥン)」などの文字が見えた。黄金御殿は、国王と王妃の居間や寝室があるという。完成するまでに何年かかるだろうか。 
 
 Photo
   ここから、少し東に回ると継世門がある。首里城の東側に位置する裏門である。内郭から張り出した外郭の門である。この門を入り、石段を登っていくと、内郭の美福門がある。そこを入れば、御内原である。
 
写真は、首里城復元完成予想図(首里城公園管理センターリーフレットから)。右下に張り出した外郭に見えている門が継世門である。
 

Img_1733

 継世門(上)は、主には日常の通用として使われたそうだ。だが、門の名称にかかわる重要な役割があった。それは、国王が死去すると世継ぎの王子がこの門から城内に入り、「世誇殿」(ヨホコリデン)で王位継承の儀礼が行われたことから、この名称となったという。別名「すえつぎ御門(ウジョウ)」と呼ばれた。

 知人のTさんによると、首里城から与那原方面に出るときは、表の守礼門の方からではなく、裏手の継世門から出て、崎山を通り下りて行ったという。

Img_1736


Img_1734

 門の両側に2基の石碑が建っている。碑文には、猛威をふるっていた倭寇(ワコウ)に備え、1544年に建てられたという趣旨の事が書かれているという。1998年に復元された。

 

さらに、この門は城外の赤田村に向かって開いていることから「赤田御門」(アカタウジョウ)とも呼ばれていた。

そういえば、民謡の「唐船ドーイ」の中に次の歌詞がある。

♪赤田門(ジョウ)ぬうすく 枝持ちぬ美(チュ)らさ
  城(グシク)
美童(ミヤラビ)ぬ 身持ちの清らさ

(赤田門のアコウは枝ぶりが美しい 首里城の若い女性の身持ちの清らかさよ) 

この門を見るまで、この曲に歌われた情景がよくわからなかったが、この門がたくさんの女性がいてすべて女性が仕切っていた御内原に通じる門で、赤田御門と呼ばれていたことを知ると、歌の意味がよくわかる。

Img_1738

 

継世門のそばに、「寒水川」という井泉があった。鉄格子でふさがれている。説明するものは何もない。首里城の北側には、寒水川樋川(スンガーヒージャー)という立派な井泉がある。名前は同じなので何か関係があるのだろうか。「大東亜戦争記念」「昭和17年改修」の文字が刻まれている。戦時中、コンクリート造りになったのだろう。その上には、石碑が折れたような台座がある。ここにも沖縄戦の名残がある。

Img_1737

継世門のそばでは、もう夕暮れ時なのに、子どもたちがサッカーをして遊んでいた。子どもにとっては、史跡のそばであろうと、芝生のいい遊び場なのだろう。

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