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2013年3月 5日 (火)

宮古島史の不思議、その3

この間の時代をどう位置付ける

仲宗根將二氏は「島うちはもはやかつての群雄割拠時代ではなく、どちらかが最高の支配者として君臨していたのではなかろうか。それとも海の向こうに大国があることを知った大小の諸豪族は、それぞれの領分を守って、あえて他を押しのけることをしなかったのだろうか」とのべている(『宮古風土記』)。
 
 もはや争いの時代でないのは、確かだ。「どちらかが最高の支配者」だったのかどうか、識者によって見解が分かれる。

与那覇勢頭も、宮古の主長に任じられたけれど、あくまで宮古で争乱の時代に終止符を打ち、平和のうちに安定した社会を願っての中山朝貢だったことから、目黒盛との共存の道をとったのではないだろう。002

       中山王に朝貢した与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑

川満信一著『宮古歴史物語』は、目黒盛豊見親と与那覇勢頭豊見親は、「ただ頭、島主といってもそれぞれのやや広い領地を分け合って治めていた、というだけのことで、宮古島全域に統一の中央集権的制度や権力が成立したと考えるのは、後世の歴史家や系図持ちたちの過剰なロマンにすぎない」と断じている。

川満氏は、豊見親と称される目黒盛や、主長と任じられる与那覇勢頭がいても、宮古島はまだ統一の中央集権的な権力が成立していない。豊見親は制度的な位ではなかった。互いに「やや広い領地を分け合って治めていた」と見ている。

 『沖縄戦国時代の謎』の著者、比嘉朝進氏は、与那覇勢頭は「目黒盛一族と協調して政治に当たった。島民は与那覇勢頭豊見親とよんで敬意を表した。勢頭は船頭の意味であろうか。与那覇が交易を担当し、目黒盛が農業と内政を担っていたと思われる」とのべている。
 
 比嘉氏は、与那覇勢頭と目黒盛は、たんに領地を分け合って併存したとだけでなく、互いに宮古島で支配的地位に立つ者として「協調して政治に当たった」と見る。

 ただ、目黒盛は「農業と内政」、与那覇勢頭は「交易」を担当したというが、果たしてそのような確然とされた「分業」に至っていたのか。根拠は示していない。

いずれにしても、与那覇勢頭豊見親の登場によって、宮古の勢力は二分されたかたちになったが、15世紀なかばに目黒盛豊見親の玄孫(ヤシャゴ)にあたる玄雅(ゲンガ)が与那覇勢頭系の大立大殿に養育されたことによって両派合一の道が開かれた。長じるにしたがって非凡な才能を発揮していった玄雅は、やがて実権を握って仲宗根豊見親と尊称されるようになり、1474年に尚円王から宮古の首長に任じられて統一政権が確立した(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)

 

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