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2013年3月28日 (木)

島添大里城跡を再訪、その4

南山王と大里城跡をめぐる関係について、『大里村史通史編』の記述からも紹介する。

 三山時代に大里の歴史を大きく変革せしめたのが、八重瀬按司、南山の王位を簒奪した稀代の侵略者汪英紫(オウエイジ)その人であったのである。汪英紫は二代承察度(英紫の甥)の柔懦(ジウズ、気が弱く意気地がない)につっこみ、宗家の実権を握って、王位を詐称し、貿易を強化しながら着々と東大里城攻略に勢力を伸ばして来たのである。やがて大里城は八重瀬城主、汪英紫の手中に陥ったのであった。……Img_1801


 八重瀬按司は大里城主におさまり、島添大里按司下之世主と最高の美称をとなえ、島尻全体を睥睨(ヘイゲイ)したが、中山のみは手が届かず苦慮した。そこでその防衛の一翼を担うため長男汪応祖(オウオウソ)を豊見城城に派遣した。たまたま1387年(応永4年)父島添大里按司汪英紫が病死したので、豊見城城主汪応祖は迎えられて大里城主の座につくのである。しかしこれも束の間で、応永10年(1403)南山王承察度が薧じ嗣子がなかったので、宗家危うしとみて、応祖は弟に大里城を継がせ、南山に帰って山南国主となるのである。

 汪応祖が南山王に迎えられて南山に去って後、孤立無援になった屋富祖王子は父や兄のような政治的な手腕がなかったので、新興の大勢力佐敷按司尚巴志とつねに小ぜり合いが続いた。…

                       

 

 智謀に欠けた大里按司は施す術を失ない、佐敷勢を防ぐ力なくついに大里城外で討死、巴志のために城を奪われ、南山系大里は三代にして滅んだのである。時は応永10年(1403)のことである。佐敷按司尚巴志は直ちに、大里城に入り、東西4間切(いまの町村に当たる。大里、佐敷、知念、玉城)を統治して軍備を拡張し、経済をたて直し(与那原を中心に南方、中国への貿易を行う)て南山を威圧するに至った。ところが大里城から南山王の居城までには南山配備の居城が多く、一気に南山と決戦に入るには多くの障碍と危険を伴なうことを知っている尚巴志は、むしろ前衛防備のうとい中山に注目した。


Img_1809



 …尚巴志は遂に中山進出の計略をたて応永12年(1405)大軍(佐敷、大里、知念、玉城の軍)を率いて、中山の首都、浦添に進撃を開始し、一拠に武寧の王城を急襲した。……

中山を亡ぼした巴志は父苗代大親(尚思紹)を中山王の位に即がせ、首里城を整備して、これを中山の居城たらしめた。(このとき大里城の二の丸、三の丸の石垣を手渡しで首里まで運搬させた)。大里城主にはその弟美里按司を封じて東西間切を統治させた。 

 

 『大里村史』によれば、汪英紫は八重瀬按司であり、「南山の王位を簒奪した稀代の侵略者」と見なしているのが面白い。そして、東の大里グスク攻略に手を伸ばし、城主となってから「島添大里按司下之世主」と称した。英紫が亡くなってからも、島添大里グスクは汪応祖があとを継ぎ、汪応祖が南山王となって移ったあとは、応祖の弟の屋富祖があとを継いだ。屋富祖が城主のさい、尚巴志に攻略され「南山系大里は三代にして滅んだ」という。

尚巴志は、佐敷から身を起こし、東の大里グスクを攻略しながら、なぜ南山王の居城を攻めずに、中山王を攻めたのか。その疑問について「大里城から南山王の居城までには南山配備の居城が多く、一気に南山と決戦に入るには多くの障碍と危険を伴なう」、「むしろ前衛防備のうとい中山に注目した」と説明している。
 
 島添大里城跡に立って、見渡してみると、首里は眼前に見えていて、案外近い。王城とされる西の大里グスクのある糸満方面は、逆に遠く感じる。しかも、南山配備の居城が多いとあれば、障碍と危険が多いこともうなずける。眺めていると、600年余り昔の尚巴志の戦略と判断がなんとなくわかる気がする。

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