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2013年3月27日 (水)

島添大里城跡を再訪、その3

東西二つの「大里グスク」の関係は?

 三山時代の東の島添大里城跡を見る際、西の島尻大里城跡(糸満市)との関係、南山王の居城との関係はどうみればよいのか、という問題がある。 

そこで、与並岳生著『新琉球王統史2 察度王 南山と北山』から紹介する。

 南山というとき、今ひとつよく分からないのが、東西二つの「大里グスク」の力関係です。
 
 南山王の居城は、西の島尻大里グスクでしたが、一時期は、東の島添大里グスクが西の島尻をしのぎ、南山王の居城であったとも言われているのです。…

 (島添大里グスクの)現在に残る城跡の面積規模はかなりなもので、尚巴志王は首里城を築くとき、ここの城壁の石を運ばせたというほど、城壁も切り石の立派なものだったでしょう。

                         

 

 そこが、事実上の南山の拠点だった時期は、汪英紫(オウエイジ、八重瀬按司)が「下の世の主」として、南山王をしのぐ勢いで、君臨していた時代だったでしょう。

 実際、明国への進貢(貿易)は、基本的に冊封された王だけがおこなえるものでした。しかし王英紫は「山南王叔」の肩書で、王とは別口に、独自進貢をおこなうのです。…

しかも、汪英紫の進貢回数は、南山王承察度(ショウサット)を上回るのです。どっちが王だか、分からないほどの権勢ぶりです。

Img_1803

 島添大里グスクに入って権勢をふるった汪英紫は、島尻大里グスクにいる「甥」の南山王を抑えつけながら、豊見城に二男の王応祖(オウオウソ)を、八重瀬グスクにたぶん長男の達勃期(タブチ)を配して、挟み打ちの形で監視体制を取ったと思われます。…二重、三重に南山グスクを抑え込んだ汪英紫は南山の実権を掌握し、南山王を圧迫したのです。
 
(与並氏は、南山王・承察度は、汪英紫の“謀殺”を恐れて朝鮮に逃げたと見る)

 承察度が逃げた後の南山王城=島尻大里グスクは…伝承では、汪英紫が亡くなると、豊見城にあった汪応祖が東の島添大里グスクに入って父を継いだというのです。その後、南山王が亡くなり、子がなかったので、甥に当たる汪応祖が島添から登って王位を継ぎ、島添には汪応祖の弟の屋富祖が入ったことになっています。Img_1806


 与並氏によると、汪英紫が島添大里グスクにいた当時は、南山の実権を握り、権勢をふるい、西の島尻を上回る事実上の南山の拠点だったという。

やはり、東の島添の現地を見て、西の島尻を上回る勢力の存在を感じるのは、それなりの根拠があるようだ。なお、汪英紫の読み方「オウエイジ」は、八重瀬の音読み「エージ」からきていて、八重瀬按司と考えられている。

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