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2013年3月 6日 (水)

宮古島史の不思議、その4

宮古島歴史の名著に見る

宮古島の過渡期といえるこの時期をどう見るのか、二つの宮古島史の名著を見てみたい。
 
慶世村恒任(キヨムラコウニン)著『宮古史伝』の記述は、なかなか興味がある。

 察度王から宮古島の主長に任じられた真佐久は、「目黒盛豊見親の施政内に割り込んで来て、一方の勢力を得た。島民はこれを与那覇勢頭豊見親と尊んだ」という。

 与那覇勢頭豊見親は中山に付庸して後は、毎年朝貢したが、それには一定の数量というものはなかった。宮古では、既に施かれた目黒盛豊見親の制度がそのまま存続していたのである。それで、「島内には自ら権勢上の二分派ができたがそれは決して表面には現れなかった。それは確然たるものでなくて、既に根ざした目黒盛の制度を遵奉しつつ一方では与那覇勢頭に帰趨する者もあったのである」

与那覇勢頭が中山に朝貢しても、それで実際については「宮古全島の中山服属とみることはできない。与那覇一族の中山付庸とみるのが妥当であろう」という。「この頃の統治権はやはり目黒盛一族にあったことは確かで、その一族の『島の主長』の職は実際に基づき、与那覇一族の『島の主長』は中山の命令に依るものであった。この二分派が合一したのは、目黒盛の玄孫仲宗根豊見親が与那覇勢頭の孫大立大殿から中山令による主長を受けついだ所に見出されるのである」とのべている。080
           仲宗根豊見親の墓の碑

 二分派が名実ともに一つとなる経過について、次のように記述している。

与那覇勢頭の孫、大立大殿は74歳の時、上奏してその職を嫡子能知伝盛大親恵照(ノチデモリオオヤケイショウ)に行わせ、玄雅(目黒盛の玄孫)を執権たらしめたが、恵照は中山朝貢の帰途久米島に於いて病死したので、彼は…中山に赴き、尚円王に謁し命を奏じて宮古島の主長になった。時に彼は18歳であった。島民はこれを仲宗根豊見親と尊称した。目黒盛豊見親が統一の業を成して島内の統治行われてより一百十年、与那覇勢頭豊見親が中山王察度の命によって主長となりてより八十五年、島内に於ける権勢上の二分派はここに於いて名実相添うて一に帰し、文物制度いよいよ整うようになった。 

 

『宮古史伝』は次の点で興味深い。

宮古島では、群雄割拠の時代を制した目黒盛の治政のもとで、さまざまな政治制度が打ち立てられていて、与那覇勢頭が主長に任じられ、目黒盛の施政下に割り込んで来ても、目黒盛の制度を排除して新たな制度を打ち立てるという関係ではなかった。
 
 中山服属といっても、まだ宮古島全体が服属したのではない。宮古は「二分派」ができあがっていた。統治権は、目黒盛一族にあり、島の主長として実際を握っていた。与那覇勢頭が任じられた「主長」は、あくまで中山の命令によるものと見ている。

                           

 

 ただし、目黒盛と与那覇勢頭とは、かなり世代が異なる。与那覇勢頭が中山に朝貢して帰島したとき、目黒盛一族は、支配者としての勢力を維持していたのだろうか?とくに、与那覇勢頭が主長となってから、仲宗根豊見親が主長になって二分派が名実ともに合一するまで「85年」の間に、宮古の統治の実権をめぐり、その力関係に変容があったのだはないだろうか。

 

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