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2013年3月 2日 (土)

宮古島史の不思議、その1

宮古島に旅行した際、島の歴史を少しかじった。といっても、宮古島史については、まるで素人である。なかでも、宮古島が統一されるまでの争乱の時代、日本の戦国時代を思わせる激しい争い、戦乱があったことに驚かされた。同時に、宮古島に統一政権というべきものが確立していく過程には、いまだよくわからない、謎というか疑問がある。いくつか史書を読んでも胸におちないところもある。

それで少し「宮古島史の不思議」について、識者の見解を紹介しながら、考えてみたい。

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                  宮古島の砂山ビーチ       

「宮古島史の不思議」とは

宮古島は14世紀はじめには、各地に村落が形成された。村落を治めていた首長を天太(テンタ)とよび、村内でもっとも人徳のあるものが選ばれた。

 しかし、14世紀後半になると、武力によって村々を支配しようとする按司が各地にあらわれ、島全体が争乱状態におちいった。いわゆる群雄割拠の時代である。(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)。按司とは豪族のような存在である。

 14世紀の後半と推定されるころ、平良(ヒララ)の東方一帯に一千人の軍団をひきい、宮古全域で猛威をふるった佐多大人(サータオプンド)を首領とする与那覇原(ユナパバル)一党がいた。多くの村むらが踏み荒らされ廃墟と化した(仲宗根將二著『宮古風土記』)。
 
 与那覇原軍が宮古の八、九分どおり制覇した。このとき、立ちはだかったのが平良を拠点とする目黒盛(メグルムイ)だった。圧倒的優位をほこる与那覇原軍に追いつめられた目黒盛は、ここで援軍を得て奇跡的に大勢を盛り返し勝利をおさめた。首領の佐多大人は殺されたという。初めて宮古の統一をなしとげたのが目黒盛豊見親であった

 もはや目黒盛に敵対する者はなく、久しくつづいた兵乱闘争はおさまり、宮古は平和な世をむかえた。島の人びとは、目黒盛の勝ち戦に胸をなでおろし、正義と仁慈と島守護の力に期待を寄せ、口をそろえて「目黒盛豊見親(ミグルムイトゥユミヤ)」と呼んだ。これが「とぅゆみや」という尊称のはしりであるとつたえられている(『平良市史第一巻通史編1』)。

宮古島の歴史の不思議は、目黒盛が与那覇原の勢力を打ち破ったのに、敗北した与那覇原の一統である真佐久(マサク、後の与那覇勢頭豊見親=ユナパシドトゥユミヤ)が、その後、沖縄本島の中山王に朝貢し、「宮古の主長」に任じられたことである。しかもこの主長職は、敗者であるはずの与那覇勢頭の一族が受け継いだ。

                           

 二つ目の不思議は、目黒盛から5代目にあたる空広(スウラピル)が、勢力を二分していた与那覇勢頭系統の宮古主長のもとで養育され、執権となり、争乱なしに後に宮古の主長になったことである。つまり、宮古の支配者の地位をめぐり、およそ100年余の間に、逆転に次ぐ逆転が起きている。でも、争乱は目黒盛と与那覇原の決戦で区切りがつき、平和裏に政治的な大きな変動が起きている。この時代と政治支配をめぐる変転が、宮古島史をめぐる一つの大きな謎である。

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           仲宗根豊見親の墓

敗者がなぜ宮古主長になったのか

両者の決戦のあと、島中の人心は、目黒盛豊見親に結集し、目黒盛をあがめ、目黒盛の治政は深く根をおろしていた。

敗北した与那覇原の一統のなかに真佐久(マサク)という若者がいた。真佐久は「少年」だったとも「20歳」だったともいわれる。真佐久が首領の佐多大人の子どもか、子どもではないなど諸説がある。いずれにしても、目黒盛が島民にあがめられほどの支配者となっているのにくらべ、真佐久はまだ、未熟な若者であり、世代的にもかなれ離れている。
 
 「与那覇勢頭豊見親のにーり」という“神歌”によると、真佐久が20歳の若者として武勇に勝れていたこと、大きな戦争において瀕死の重傷を負ったこと、生死の境にあった身が一族の人びとの介抱によって蘇生したことをうたいあげ、与那覇原の一族であること、宮古島の統治者として東の空の星座を仰ぎ、にいら天太のお慈悲にすがって島建てを考え、大きな国への目じるしをならえと、としめくくっている(『平良市史通史編』)。

 真佐久は、本島の中山国が中国に派遣した進貢船が漂来してきたのをきっかけに、海の彼方に沖縄という島のあること、大明という強大な富国があり貢物を捧げていることを聞き、「我も礼をつくして彼の中山国に至り運命の開拓をしようと、よくよくその地理などを教わった」(『平良市史』)。
 
 そして、真佐久は本島に渡って、中山の察度王に朝貢した。最初は言葉が通じなかったが、3年後の1390年、中山から宮古の主長に任ぜられ、与那覇勢頭豊見親となった。

与那覇勢頭は宮古に帰島すると、ただちに八重山に渡って中山への入貢をうながし、同年、八重山を服属させた。

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