島添大里城跡を再訪、その1
南城市の旧大里村にある大里城跡を数年ぶりに再訪した。城跡の東隣にパークゴルフ場がオープンしている。城跡のある一帯の、整備が進められている。
大里城跡は、この付近では最も高い、標高150㍍の琉球石灰岩の丘陵台地に築城されている。字西原の北端になる。城跡の北側から西側は急峻な崖状である。その崖を背に堅固な城壁と天然の地形を巧みに利用したグスクである。
この城壁は別称「島添大里グスク」とも呼ばれ、当主であった南山王(?)・島添大里按司(シマシーウフサトアジ)によって築城されたと王府史書「中山世鑑」の中に記されている。
「島添」とは「島々を支配する」という意味で、このグスクを造った島添大里按司は、大里、佐敷、知念、玉城地域(今の南城市の全域)を支配下に置くほどの勢力を誇り、中国の明王朝とも盛んに貿易を行ったと言われている(ネット「南城なび」)
城の規模は東西に長く延び、北側の最奥部の本丸跡を取り巻く形で南側、東側に広く連郭式の城壁が連なり、石積みは野面積みが大半である。上写真は正殿跡。
1991年の村内遺跡分布調査の際、試掘した結果、本丸跡から褐袖陶器、中国青磁、グスク土器、青銅製の飾り金具、丸玉、鉄釘などが出土し14世紀から16世紀の資料となっている。
城壁はかなれ崩れているが、城郭の中がとても広い空間がある。とても立派なグスクだったと思われる。一番高いところは、いまは展望台になっている。眺望が素晴らしい。首里城方面は正面に見え、さらに中城グスク、勝連グスクまで遠望できる。軍事戦略上はとても重要な高地だろうと実感する。
復元想像図を見ると、往時の大里グスクが南山でも、最大規模を誇るグスクだったのではないかと、想像される。南山王の居城は、糸満市にある島尻大里城跡か、島添大里城跡か、議論があり、現在では島尻大里城跡という説が有力だと聞く。ただ、現場を見ると素人目には、この旧大里村のグスクが南山王の居城にふさわしいと思えてくる。
実際に、琉球を統一した英雄・尚巴志が最初に攻略したのがこの城であり、さらに中山王を攻め、三山統一のきっかけともなった。とても歴史的に重要なところである。
ただし、復元図で見ると、城壁は長く、高く立派なのに、残っている石垣と積み石の総量が少ない気がする。残っている石も総じて小さい。それには理由がありそうだ。つまり、尚巴志が、中山国の居城として首里城を整備するときに、大里城の二の丸、三の丸の城壁の石を首里まで運んだという伝承があるそうだ。城壁の石は貴重な資材だから、集めるのにも苦労する。護佐丸が、座喜味城を築城する時に、山田城(恩納村)から石を運んだと言われる。年代はこちらが古い。築城の際は、同様のことが行われたのだろう。
グスクの正殿のあったあたりに、三つ拝所があった。何も説明するものがないので、どういう拝所か分からない。ただ、『大里村史通史編』を見ると、大里城跡のある字西原には、城にかかわる拝所として、「お嶽(御獄)」では「城内島添アザナノ御イベ」や「殿」(拝殿)として、「大里城之殿」が記されている。写真の拝所は、それらに該当するのだろうか。いまのところ、資料がないので分からない。
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