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2013年3月 3日 (日)

宮古島史の不思議、その2

なぜ、中山国へ朝貢したのか。

 なぜ、敗者であった与那覇勢頭が、中山国へ朝貢したのか。その動機として、「戦禍のもたらす苦しみから島の人びとを救い、もっと大きな統治力指導力に頼って治安を維持し生活の安定をはかろう、とする政治的意図がうかがわれる」、ただし「大国との交流によって交易上の利潤を得たいといったような経済上の狙いから、とは断じ難い」。『平良市史通史編』はこのようにのべている。

 与那覇勢頭の血統の事績をしるす『白川氏家譜』は、「大国たる中山に通じて平和を致さんとす」と記している。
 
 ただし、目黒盛の勝利によって宮古島には一応の平和が訪れ、安定に向かっていた。むしろ、同じ琉球列島の大国である中山王に朝貢し、その「大きな統治力」に頼って、宮古での権威と政治的な影響力を拡張しようというのが、基本的な動機ではないだろうか。交易による利益は当然、付随してくるものである。

 

宮古島出身で『新琉球王統史』の著者、与並岳生氏は、中山王に朝貢し「豊見親」の称号を与えられ、宮古に戻った与那覇勢頭も、宮古は目黒盛が支配していたので、「実際は宮古主長になったわけではなく、八重山に渡り、島の主長たちを説いて、ともに中山に入貢し、中山の支配力を背景に、勢力を広げることを図ったようです」とのべている(『新琉球王統史 察度王・南山と北山』)。中山朝貢は、中山の支配力を背景に、宮古で政治的影響力を広げることが狙いであるという見解である。

 

                           

 

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            那覇市にある与那覇勢頭豊見親逗留旧跡

宮古の支配者はだれだったのか

与那覇勢頭が中山王・察度に朝貢して「宮古の主長」に任じられたといっても、宮古にはすでに実力で支配者の地位を得た目黒盛がいた。かたや東方の大国中山の名による主長である。「両者の間に確執があったのかなかったのか、“旧記”は何一つふれていない。また伝承らしきものも伝わっていない」(『宮古風土記』)。

旧記の一つ『宮古島記事仕次』を読んでも、両者間でどのような対応があったのか、という記述そのものが見当たらない。ふれていなということは、宮古を揺るがすような確執、騒動らしきものはなかったことを意味するのではないか。宮古の支配的な地位をめぐり、二つの系統が併存することになる。ここで目黒盛と与那覇勢頭系統の系図を記しておく。

目黒盛豊見親―真角与那覇盤殿(マヅヌユナハバトゥヌ)―普佐盛(フサムリ)豊見親―真誉ヌ子(マユヌファ)豊見親―仲宗根豊見親=忠導氏。

与那覇勢頭豊見親―泰川大殿(タイカーウプトゥヌ)―大立大殿(ウプダティウプトゥヌ)―能知伝盛大親(ヌチデムリウプヤ)―下里与人(ユンチュ)=白川氏。131

注・史料によって「泰川大殿」は「代川大殿」、「大立大殿」は「大里大殿」を書く。写真は、大立大殿みゃーか(墓)の碑。下写真が実際の墓。

「与那覇勢頭の方は、子泰川大殿、その子大里大殿と実力者のつづいたことが記されているのに、目黒盛の方は相応しい事績が伝えられていない」(『宮古風土記』)。

 “旧記”は、目黒盛の子二代目与那覇、三代目普佐盛、四代目真誉ヌ子とつづくいずれも「殿」あるいは「豊見親」の尊称を付しながらも、いわゆる「主長」職についてはふれていない。

他方、与那覇勢頭の方は、真佐久の子泰川大殿については有徳の士で、壮年のころ病を得て隠遁、その後に生まれた三代目大里(大立)大殿についてはじめて「当世の主」と記している。




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 大立大殿は、子どものヌチデムリを宮古の主長に任じ、養育していた仲宗根(空広)を執権として両人を交互に朝貢させる旨を上申し、王府から承認された。大立大殿の没後、ヌチデムリは朝貢の帰りに逆風で久米島に漂着し病死した。そのため実権は仲宗根が握り、王府の命を受けて宮古首長となった。

これで見ると、与那覇勢頭(白川氏)の系統が主長職を受け継ぎ、大里大殿の子、能知伝盛のあとをうけて仲宗根豊見親が宮古の支配者になり、中山から「主長」に任じられ、名実ともに宮古を代表する実力者として歴史の表舞台に登場することになる。

かくして、白川氏が任じていた宮古主長職は忠導氏に移行した。 

与並氏は、少し見解が異なる。与那覇勢頭が察度から「宮古主長」に任じられても、「恐らく宮古の文字通りの『主長』にはなれなかったのです。目黒盛豊見親が亡くなると、その子らが後を継いで宮古を支配していきます。何代か経て、ようやく与那覇勢頭豊見親の一統が宮古の支配者となりますが、その一統というのは、与那覇勢頭豊見親の孫たちからでしょう」(『新琉球王統史 察度王・南山と北山』)とのべている。与並氏は、宮古で実権を持つ支配者は、目黒盛系統で受け継がれ、与那覇勢頭の一統が支配者となるのは、その孫、つまり大立大殿の代になってからだという立場である。

 

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