沖縄民謡の巨星、登川誠仁逝く
沖縄民謡界の巨星、登川誠仁さんが、3月19日、肝不全で死去した。80歳だった。民謡界にたくさんの唄者はいるが、登川さんは、早弾きの名手。「美(チュ)ら弾き」と評された。私的には、むしろ情け歌などの味わいのある独特の歌い方がたまらなく好きだった。
なかでも「屋嘉節」は、他者の追随を許さない味があった。早弾きが上手なのに「ヒヤミカチ節」はなぜか、ゆっくりと弾いた。いまこの曲を弾く人は、だれもが早弾きの腕を競うように軽快に弾く。でも、なぜ登川さんは、ゆっくりなのか、不思議だった。
アルテ崎山の民謡仲間であるTさんによると、この曲の作曲者、山内盛彬さんが、登川さんに会ったとき「この曲は早弾きではない。ゆっくりと弾いてほしい」と注文をつけた。それ以来、登川さんは、ゆっくり弾くようになったそうだ。なるほど。疑問は解けた。
登川さん自身が「『ヒヤミカチ節』は何も早弾きを競い合うようなものではないのだ」と強調している(CD「howlinng wolf」)。この曲の弾き方に注文をつけるのは、もともとこの曲を沖縄中に広めたのが、照屋林助と登川誠仁だったからである(同CD)。
私が登川さんを知ったのは遅くて、沖縄に移住する前、映画「ナヴィの恋」を観てからだ。役者としても、抜群の存在感だった。演技でも、歌三線でも、そのキャラクターは独特で、余人をもって代えがたい。人間国宝は、沖縄では古典音楽・芸能しか指定されないが、民謡界でも、人間国宝に指定してほしいと願ったのは、登川誠仁だった。
沖縄戦の終わったとき、12歳くらいだった。登川一家は捕虜になり、石川(現うるま市)の収容所に入った。まだ年齢が若すぎて軍作業に雇用されない。でも稼ぐには基地の仕事しかないので、ハウスボーイの仕事を手に入れた。米軍の資材をかっぱらう「戦果アギャー」もやり、軍法会議にかけられたこともある。その後、沖縄芝居の地方見習いとなり、琉球民政府によって作られた「松劇団」に入り、珊瑚座を経て新生座に籍を置いたという(『登川誠仁自伝 オキナワをうたう』から)。
たくさんの民謡を作っているが、民謡仲間のHさんは「彼の作る歌は、恋唄はないんだよ」という。私が通う民謡サークルでも「豊節」「歌の泉」「新デンサー節」がある。たしかに恋唄はない。
訃報を伝えるテレビで、代表曲の一つに「戦後の嘆き」をあげている。登川さんの作詞作曲である。この曲には、由来がある。以前住んでいた家の裏に三味線屋があり、そこで酒を飲んで泣いている人がいた、彼は大和に行っていたが戻ってみると家族も亡くなっていたという。その話を聞いて作った。ただし、便所に入っている時、歌詞を思いつき、地面の上に書いて、後から紙に写したという。登川さんらしいエピソードだ(ネット「ryuQ」)。歌詞を紹介する。
♪見りば懐かしゃ 戦場になとて 世間御万人(シキンウマンチュー)ぬ 袖ゆ濡らち
戦 我ね うらみゆさ
(見れば懐かしい故郷が戦場になってしまった。世の中のみんなが涙で袖を濡らした
私は戦争を怨む)
♪大和から戻てぃ 沖縄着ち見りば 元姿ねらん かにん変わてぃ 戦我 怨みゆさ
(大和から戻って、沖縄についてみれば、もとの姿はなくなった。こんなに変わり果てた
戦争を私は怨む )
♪たるん怨みゆる くとぅやまたねさみ 戦はじめたる 人る怨む 戦我怨む
(私は誰も怨みはしない ただ戦争を始めた者だけを怨む。私は戦争を怨む)
強烈な戦争への怨みの歌である。誰も怨みはしない、こんな悲惨な戦争を始めた者を怨むというところに、登川誠仁の真骨頂が表れている。CD「howling wolf」にのっている歌詞は、ちょっと異なる。歌詞はいろいろあるのだろうか。
80歳と言えば、沖縄ではまだまだ活躍できる。まだ元気そうだった。もっともっと、自慢の歌三線を聞かせてほしかった。
写真は、RBC、NHKのテレビ画面から紹介させてもらった。
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