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2013年4月

2013年4月30日 (火)

「鳩間節」に込められた思い

鳩間島といえば、「鳩間節」が名高い。沖縄本島では、古典舞踊曲として知られる。八重山民謡の原曲は、ゆっくりしたテンポだが、本島の舞踊では、早弾きの軽快な曲である。島の景観の美しさ、稲粟の豊作の喜びを歌っている。「鳩間ユンタ」を役人が改作したのが「鳩間節」だとのことだ。

「♪鳩間中森走り登り くばの下に走り登り」(鳩間島の中岡に走り登り くば林の下に走り登り)と歌い出す。

最初にこの曲を知ったとき、歌詞の中でよく分からなかったのは、次のくだりだ。

「♪稲穂積みつけ面白や 粟穂積みつけさて見事(稲の穂を満載した舟 粟の穂を満載した舟は 見事な眺めだ)」

「♪前の渡よ見渡せば 往く舟来る舟面白や(前方の海を見ると 新開拓地を往来する舟は 面白い眺めである」

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「なぜ舟に米や粟を積み上げるのか?」と不思議だった。水田のほとんどない鳩間島の島民は、人頭税で米貢を強制され、命がけで海を渡り、西表島の未開地を開拓した。田小屋に泊まり込み、田植えをし、夏には稲粟を取り入れ、舟に積み帰ってきたという。 だから、稲や粟を舟に満載して鳩間島に帰るのは、ごくありふれた光景だった。

でも、それだけではない、深い意味が込められた曲である。曲の背景に、西表島の住民との確執がある。

「この民謡は島の生産の歓びを謡いつつ、その反面には(西表島の)上原と舟浦両村民の無慈悲に対する敵愾心を謡って留飲がさがったという歌である」。八重山の民俗、民謡に詳しい喜舎場永珣著『八重山民謡誌』は、こう表現している。
 喜舎場氏によると、次のようないきさつがある。

鳩間島はサンゴ礁の島で、田畑などは皆無であるが、人頭税はやはり米貢を強制された。これは蔵元政庁からの厳命で、上原と舟浦地方の荒蕪地を開拓して稲作に従事し、以て米貢の義務を果たしていた。

命がけで海を渡ってくる鳩間人は、2、3日も田小屋に宿泊して男女協力して田植えをおえ、また夏の猛暑を冒かしては、稲粟の取り入れに海を渡って行って舟に満載して帰る。

舟浦、上原両村の人民は、村の近くに陸路にある田圃であるがため、サボって2、3回耕起する結果、稲作はいつも中作以下であった。
 これは、上原、舟浦の土地を鳩間人に耕作させたために、「田の神の祟りである」から、直ちに返還せよと迫ったのである。蔵元首脳部へ訴えた。

鳩間人が適地を発見して稲作のできる時期まで待てと英断が下った。

島ぐるみ全体協力を結集し、ジャングルを伐採した上、開拓した。これが対岸の新開地である。

私が通うサークルで使う「鳩間節」の歌詞は、4番までしかない。でも、もともとの歌の歌詞には、次のような内容(和訳)が歌われているという。

「♪舟浦人の面当てに 上原人に聞かすために 精根を打ち込んで開拓して見せよう」

「♪上原人が鳩間に来た時は 樫実の殻で神酒を飲ましてやれ」

「♪舟浦人がやってきたら 蛤(ハマグリ)の殻で酒を与えてやれ」

西表島の舟浦、上原の住民への強い対抗心、住民を見返してやろうという鳩間島の住民の心情が込められている。

西表島の住民も、鳩間島の住民のお互いに、貧困のうちに重税で苦しめられていたことでは、同じ境遇である。

 そんな住民が相互に対立しあわなければならないのは、悲しいことである。そこには人頭税による圧迫がある。重税のもとでは、自分たちの税の完納ができるかどうかだけが死活問題である。他所の島、村の人たちのことを思いやる余裕など生まれえないのだろう。
 「鳩間節」にも、人頭税時代の八重山に生まれ生きた庶民の歴史が刻まれている。

 

2013年4月29日 (月)

鳩間島の名前の由来

鳩間島の名前の由来について、興味がある。大城公男著『八重山 鳩間島民俗誌』(写真)から紹介したい。 
 かつて鳩間島に多数生息していたことに由来するという。鳩は穀物を主に食べる。島で鳩が急速に増えたのは、人が住みつき畑をつくるようになってから。人頭税時代には、鳩間島から西表島の北岸一帯に出かけて稲作をしていた。鳩も稲を目指して海を渡っていたそうだ。
 首里王府の八重山統治が進み、役人が島にやってきたとき、鳩の多い島という印象をもったのが島名の由来と推測している。ただ、鳩は現在、島にいない。それは島の人口が激減し、畑も田も作らなくなったからだという。 たしかに、鳩は自然のなかにいる野鳥というよりは、人の住む周辺にたくさんいる鳥だ。人が少なくなり、鳩がいなくなったとは、なんか寂しい感じがある。  鳩間島の名前の由来は、確証されているわけではない。でも、鳩が多いことに由来するなら、鳩間島の古くからの固有の名前というより、島外の人がつけた名前の印象が強い。

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島に人が住む以前には、他の名前があったのではないだろうか? 先ごろ亡くなった外間守善氏は「行き果ての『果て』を語根にした『果ての島』が語源であろうと考えている」「ハテあるいはハティに『鳩』の漢字を当てるようになってから、ハトと読み、発音するようになったものであろう」との見解を示していたという(『八重山 鳩間島民俗誌』)。

 これも根拠ははっきりしない。それに、鳩間島に「果ての島」のイメージがあったのだろうか。少し疑問がある。最果ての島と言えば、波照間島や与那国島があるからだ。

 でも、役人が来るようになってつけられた名前とすれば、もともとは別の名前があったのではないか、というのは同感である。


2013年4月28日 (日)

「屈辱の日」式典に抗議うずまく

 サンフランシスコ講和条約の締結から61年を迎えた28日、政府が式典を開くことに抗議する「『屈辱の日』沖縄大会」が宜野湾市の宜野湾海浜公園で開かれた。今回は残念ながら参加できなかったが、テレビでもライブで中継された。屋外劇場の会場をあふれる一万人が参加した。

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 講和条約によって、沖縄・奄美は日本から切り離され、「政治的質草」(「琉球新報」社説)としてアメリカ統治下に差し出された。参加者から「親(日本に)捨てられた苦しみ悲しみをわかっていただきたい」(RBC)などの声が上がった。Img_2226 だから県民は、こんな「屈辱の日」を祝う式典に強い憤りをもっている。琉球朝日放送の世論調査(1000人余)でも、政府式典を「評価しない」が69・9%と7割を占めた。
 サ条約と同時に結ばれた安保条約、日米地位協定のもとで、日本各地にアメリカの基地が置かれ、米軍の特権が保障された現状で「日本の主権は回復していない」「」日本は本当に独立主権国家なのか」という声が県民から上がった。

Img_2228 しかも「屈辱は過去のことではない。米軍基地の74%が沖縄に集中するもとで、屈辱はいまも続いている」と指摘されている。だから県民は、こんな「屈辱の日」を祝う式典に強い憤りをもっている。琉球朝日放送の世論調査(1000人余)でも、政府式典を「評価しない」が69・9%と7割を占めた。

 大会では、喜納昌春県議会議長らが、アメリカいいなりで日本は主権国家といえるはずがない、と政府を批判した。Img_2229

 大会決議では、政府式典は「沖縄県民の心を踏みにじり、再び、沖縄を切り捨てるものであり、到底許されない」とつよく抗議している。
 

 安倍首相は、式典で沖縄の辛苦に思いを寄せると口先ではのべているが、式典自体が県民を踏みつけにするもの。それに、オスプレイ配備に加え、辺野古への新基地建設をごり押しする政府の姿勢は、県民の不信と怒りをいっそう増幅させるばかりである。

 写真は、RBC、QABの画面から使わせてもらった。

2013年4月26日 (金)

盗んだ神を祀った御獄があった

 隣の島から神を盗んで村の御獄(ウタキ)とした。こんな驚くような話にであった。大城公男著『八重山 鳩間島民俗誌』を読んだときである。

鳩間島のヒナイ御獄という拝所がそれである。『琉球国由来記』に友利御獄とともにその名がのっている古い御獄だという。
 
 琉球王府時代のことだ。鳩間島の住民が、西表島の御獄から盗んだという伝承があるそうだ。なぜ、神を盗まなければならないのか、神を盗むとはどういうことだろうか。伝承は、次のような内容である。

海向かいの(西表島)ヒナイ村は雨がよく降り、作物がよく実った。鳩間島の人々はそれをヒナイ村の人々の拝む神のお陰だと考えた。そこで鳩間島の人々は、ヒナイ村の人々に彼らの拝む神を勧請(カンジョウ)させてほしいとと頼んだ。ところがヒナイ村の人々は、一言の下にその要望を拒否した。それでも鳩間島の人々は諦め切れず、一計を案じた。神を盗みだすことを計画したのである。

通事家と加治工(カジク)家の男たちが選ばれた。二人はヒナイ村の海岸に舟を着け、こっそりと御獄に近づいた。ところが、ヒナイ村の人々に見つかってあっさり追い返されてしまった。次に二人は夕方舟を出し、……夜陰に乗じてヒナイ村の御獄から香炉の灰を盗み出した。それから男たちは大急ぎで舟をこいで返し、島に着くと海岸近くの木の陰にその灰を置いた。そこがこの御獄の最初の拝所となった。

大城氏は、この神を盗んでたてたヒナイ御獄をつくったのは、他の島からの移住者だったと見る。

移住者はすでに村を守護する神を祀っていたが、それは祖先神であった。信頼する神以外に、雨の神・豊穣の神を必要とするようになっていた。新村の人々は、彼らの消費する量をはるかに超える生産高を求められていた。人頭税である。この政策が彼らの上に重くのしかかり、他に救いの神を求めたのである。こうして第二の御獄、ヒナイ御獄は建てられたそうだ。

1701年から1703年にかけて黒島から鳩間島に百姓の移住が行われた。2回に分けて、合わせて150人を超える人が移住した。移住によって鳩間島の人口はいっきに4倍か5倍になったという。


 
 

鳩間島から、米をつくるため西表島の北岸に海を渡って通っていた。

重い人頭税を完納するためには、豊作、豊穣は切なる願いである。「雨の神・豊穣の神」をなんとしても必要としたのだろう。神を盗むという破天荒な行為の背景にも、人頭税による先島の百姓たちへの過酷な徴税があったのだ。

この本の著者は、鳩間島に生まれ、教育者として県立首里高校校長を定年退職したあと、東北大大学院前期博士課程を修了。すでに島外に出た住民からも聞き取りして本書をまとめたという。労作である。とくに、村の成り立ち・変遷と御獄の由来や神役の継承など祭祀の形態と組織を詳細に記述されている。

2013年4月22日 (月)

コンサートのハシゴという新体験

 クラシックコンサートを二つハシゴするという新体験をした。こんなのは、生まれて初めてだ。それもいずれも、無料のコンサートである。

 一つは、「デュオ・レゾナンス~デビュー・コンサート」。県立芸術大学準教授で岡田光樹さんのバイオリンと、同大学院非常勤講師の小沢麻由子さんのピアノによるアンサンブル。Img_2153
 「レゾナンス」とは、共鳴、共振、同意という意味を持つそうだ。演目は、モーツアルト、グリーク、ブラームスのいずれも「ピアノとバイオリンのためのソナタ」の3曲。

 ピアノとバイオリンのためのソナタといえば、ポピュラーな組み合わせだ。しかし、作曲家がピアノとバイオリンを対等な立場として位置付けている作品があるにもかかわらず、あたかも、「(ピアノ伴奏つき)バイオリンソナタ」といった位置づけと思われていることが多いのでははないだろうか。

 この2人のデュオは、二つの楽器が対等に共演し、それぞれの個性が際立ち、対話し融合するという音楽的対話を目指している。

 演奏を聴くと、その趣旨が見事に生きている。二人の個性が互いに対話し、交流し、作曲家のもつ深い音楽世界を表現していて、心地よくひたれる演奏会だった。

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 会場となった芸大の奏楽堂ホールは、こんな演奏会にふさわしい規模のホールで、響きもよい。1,2か月に一度は、こんなコンサートを無料で提供しているという。これから、もっと聴きにきたいと思った。

 

 夕方6時前に終わったあと、夜は7時から南城市佐敷のシュガーホールで、沖縄の音楽家+サファリーオーケストラメンバーによる「2013春 コラボレーション友好コンサート」があり、すぐに佐敷に向かった。こちらは、アルテ・ファクトリーに来ていた女性が、「ぜひおいで下さい」と言って招待券をくれたのだ。Img_2163

 サファリーオーケストラは、東京で活動する社会人オーケストラ。サファリーとは、スワヒリ語で探検・探求という意味。どうも、「サファリー」と言われると、アフリカの狩猟・探検旅行のイメージが先にきて、音楽のイメージが浮かばないのは私だけだろうか。

 沖縄出身のビオラ奏者が「沖縄に来てください」と言い出したことから、沖縄の音楽家とコラボによるコンサートが実現したという。Img_2164

 プログラムは多彩で、ヴィヴァルディの「四季」より「春」、大バッハの次男のC.P.Eバッハの「フルート協奏曲」、モーツアルトの「交響曲第27番」、幸松肇の「弦楽のためのシンフォニエッタ」、チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」という5曲。盛り沢山だ。
 指揮は、2年前N響を退職したバイオリニストで、指揮もとる前澤均さん。
 「春」では、土屋杏子さんがバイオリン、協奏曲では、疋田奈津子さんがフルートを独奏した。
 
 管楽器はフルートとホルンが加わるだけだが、総勢30人余りの演奏は、弦楽の響きに厚みがあり、迫力ある演奏でとても楽しめた。なかでも、チャイコフスキーと「弦楽セレナーデ」はよく知られた名曲だけに、魂をゆすぶられるような感動を覚えた。

 プログラムが多かったので、指揮の前澤さんもお疲れの様子。アンコールはなかったが、大満足だった。Img_2156

 メンバー一人ひとりの紹介がされていた。これもとてもユニークな紹介があった。たとえば、沖縄の与那嶺理香さんは、なんと住所が世界遺産の中城城跡となっている。島ニンジンやキャベツをたくさん作っているとか。チェロで西原町在住の城間恵さんは、「家のすぐ近くに幸地城跡があり、そこからの眺めが最高!」。音楽家の紹介で、グスク(城)が登場するのがいかにも沖縄的である。

 東京のフルート奏者の疋田さんは、都内プロオーケストラにエキストラ出演するほどの腕前で、しかも一見モデルのような容姿。ところが、週末は世田谷の焼トン屋「忠や」で額に汗して働いているという。
 みんな働いたり、学んだりしながら大好きな音楽活動を続けていることがよくわかる。沖縄に演奏に来るのにも、旅費も持ち出しで来てくれたのではないだろう。感謝、感謝である。

 

2013年4月19日 (金)

花のあと実がならない異変

 うりずんの季節といえば、木々の新緑が美しい。冬に咲くカンヒザクラは、真っ赤なサクランボを実らせる。ところが、今年は、なぜかサクランボをまったく見ない。

 例年だと花が散ったあと、3月にはどの木もサクランボを実らせていた。ただし、赤くて美味しそうな見かけとは異なり、種が大きいので食べるところはほとんどないのが、カンヒザクラである。Img_1151             八重岳のカンヒザクラ。こちらもサクランボはなっていないだろうか。

 散歩コースの漫湖公園の桜並木を見ても、葉っぱが茂るばかりで、どの木を見ても、サクランボはない。他の場所の桜をみても同じである。

 桜だけでなく、南米桜とも呼ばれるトックリキワタも、通常は4月には野球ボールより少し大きいほどの実をつける。それが、パクリと割れると中から、綿が出てくる不思議な花木である。018_2_21
           昨年までこんなに実を受けた公園の木も今年はまったく実がない
 それが、今年はさっぱり実がならない。トックリキワタ通りの異名がある並木も、いくらみても木の葉は茂るばかりで、実がない。

 考えられるのは、昨年の台風の影響である。沖縄本島を直撃する台風が何度もあったので、花木はさんざん痛めつけられた。塩枯れの被害を受けた。このため、カンヒザクラも、咲かない木が多かった。八重岳の桜も、漫湖公園の桜も、一部の木しか咲かなかった。

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      例年だと、トックリキワタの実が割れると綿が出てくる

 トックリキワタも同様である。例年だと、10月くらいから12月の末ころまでピンク色の華麗な花をつける。でも昨年は、咲いた木はわずか。花はきわめて少なかった。

 たぶん、花の咲かない木には、実もならないのだろう。それにしても、花を咲かせた木も少しはあるのに、それらを含めても、まったく実がならないのはなぜだろうか。

 いずれにしても、台風による異変はこんなところにも表れている。

2013年4月18日 (木)

久高悟wiht hu-miを聞く

 毎月、ライブに行っているウチナーフォーク歌手、ふーみが、同じフォーク系の歌手、久高悟と組んだ「久高悟wiht hu-mi」のライブを初めて聞いた。Img_2114

 といっても、これは読谷村にあるJAファーマーズマーケット「ゆんた市場」の開店2周年のイベントに出演したからだ。

 この日は、土砂降り。野外のステージのブルーシートの天井には雨水がたまる。楽器が濡れないように気を使うことこの上なし。

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 ふーみ得意の南こうせつナンバー「うちのお父さん」から始まり、「22才の別れ」など歌ったが、今回は、久高さんがリードボーカルで、ふーみがハモル。久高さんが先輩なので、少し気を使っているかも。Img_2113

 久高さんは、なんといっても大好きな小田和正のヒット曲を披露した。さらには、森山直太郎の「さくら(独唱)」なども歌った。Img_2115
 久高さんは初めて聞いたが、のびやかな高音がとても魅力的。小田和正に勝るとも劣らない。「さくら」も、森山直太郎が裏声を歌うところも裏声を使わず歌いこなす。

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 イベントなので、1時間の短いライブだけれど、二人の魅力が味わえた。Img_2121
 雨なので、聴衆は少ない。でも、ライブは熱かった。

 そういえば「ゆんた市場」は、オープンの時も、1周年も毎回参加した。この二人のライブは、雨が多いと聞くが、来年は、晴天のもとでまた出演してほしい。その前に。5月に二人のライブがうるま市石川であるので、出かけたい。



2013年4月16日 (火)

天明越後柿崎一揆

 江戸中期の天明3年(1783)、越後柿崎で一揆があった。この一揆を描いた小説『起たんかね、おまんたー天明越後柿崎一揆』を読んで初めて知った。
 著者は、元新聞記者の玄間太郎氏。新潟出身である。

 打ち続く天災、凶作、飢餓、越後柿崎の百姓たちは、困窮のどん底にあえぐ。天明3年も天候不順で大凶作だった。だが、お上は容赦なく年貢を取り立てた。さらに地主や造り酒屋が米を買い占め、売り惜しみ、米価は6,7倍に跳ね上がった。食う物もなく、くずやうど、わらびの根を掘り、木の葉まで食べた。餓死、一家心中、そして田畑を捨てて欠落、逃散。諸国で一揆が頻発した。Img_2125

 越後の柿崎でも、7人衆が行動へ。「起たんかね、おまんた(あなたたちの意味)」。命がけで起ち上がる百姓たち。
 「年貢を半分に減免、夫食米の拝借、米の買い占めを止める、飢餓による窮民救済」の4項目を掲げる。500人の百姓が庄屋、造り酒屋、組頭らの打ちこわしに向かう。

 弾圧で7人は投獄され、打ち首、遠島、鞭打ち、過料銭などの刑に処せられた。百姓は叫ぶ。「たたかいはこれからだ!諸国で一揆が続いている。おらたちもその大海の一粒になるのだ」「今に民百姓の新しい世の中が必ずくる」。
 それから100年余のあと、江戸幕府は倒れる。Img_2126

 江戸期、越後を含め全国で3200余りの百姓一揆、騒動があったという。
 柿崎一揆の史料は極めて少ないそうだ。この本は、一揆の様相と起ち上がる百姓の群像を生き生きと描きだした労作である。発行は「本の泉社」。
 本書を贈っていただいた玄間氏に感謝。

  沖縄でも、18世紀は、とくに八重山や宮古など先島で大津波や疫病、凶作が相次ぎ、甚大な被害を受けた。天明飢餓では、3700人余が餓死した。
 ただし「沖縄では百姓一揆がなかった」といわれる。でもそれには、異議がある。百姓、庶民の圧政に対する抵抗とたたかいは、無数にあった。拙文「沖縄民衆の抵抗の歩み」を2012年5月に、このブログにもアップしてあるので、興味のある方は読んでいただきたい。

2013年4月14日 (日)

アルテで「無情の月」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーの4月のテーマは「幻」。このテーマはちょっと難しい。エントリーした人たちも、あまりテーマにとらわれない人が多かった。というか、当日のプログラムでも「未定」の人がかなりいた。

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 迷った末選んだ曲は「無情の月」。この曲は、思いあった二人が引き裂かれ、彼ははるか遠くにいる。悲恋の曲。
 「♪千里の道も陸路であれば行こうと思えば行ける。でも海を隔てた船路は、一里であっても自由にならない」と歌い出す。

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 「♪彼のことをひたすら思いを貫いている。そのことを伝えたいけれど、彼はいまや玉と散っていて、伝えることもできない、ただ袖に涙するばかりだ」と歌う。 思いをよせる彼がすでに「玉と散っている」、つまり幻となっているということで、この曲にした。

 「玉と散る」というのは、戦死を意味するだろう。私的には、戦争を愛する人を失った「戦世(イクサユ)」の悲劇を歌った島唄だと理解している。

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 三線は、きわめて単純で間違いようがないくらい。でも、いざ演奏に入ると、日ごろまったく間違わないカ所で間違う。それに、聞かせどころの高音部分で、これが出切らない。苦しそう。これも、日ごろは楽々と出ている音域なのに。というわけで、なんとか歌いきったものの、声も三線も、見苦しい感じだった。

 まあ、こういう曲のあることを知ってほしい、という願望は達せられた。三線仲間のTさんが「いい曲ですね」と声をかけてくれたので、工工四(楽譜)をコピーして渡した。

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 ツレは、ピアノ独奏で「虹の彼方に」を演奏した。ピアノを習い始めて1年がたった。演奏が進むに従い、歌い出す人やオカリナで合わせて演奏してくれるなど、おおうけだった。わずか1年なのに、演奏がしっかり流れもよく、メリハリもついて音楽になっている。練習のときには、見られないミスがあったけれど、これだけ弾けるのは、日ごろの練習のたまものだろう。

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 日頃はあまりないフラメンコ・ギターの演奏もあり、盛り上がったファクトリーだった。すばらしい音楽仲間たちである。

2013年4月12日 (金)

500年余続く、尚巴志一統の「隠れ御清明」

 

 沖縄はいま、「清明祭」(シーミー)の季節である。中国から伝わった先祖供養の行事だ。お墓の前に、家族、親戚一同が集まり、お供えをして、先祖を祀り、土地の神様に感謝する。

通常は4月ににぎやかに行われるが、ところが秋に密かに行われる清明祭があるという。琉球を統一した尚巴志(ショウハシ)が開いた王統の一族が、先祖を供養する「隠れ御清明(カクリウシーミー)」である。これは「週刊レキオ」が2011年10月11日付けで報じていた。

 このブログで、第一尚氏のお墓が県内各地に分散してあることを紹介した。第7代の尚徳王のさい、金丸(尚円王)のクーデターで王位を追われて、尚徳の長男や王妃も殺害され、尚巴志はじめ国王を葬る天山陵も焼き打ちされるので、遺骨を密かに持ち出したことも紹介した。

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                                   尚徳王御陵跡

 そんな関係から、尚巴志と第一尚氏について関心が強い。それで、「隠れ御清明」について、この記事から紹介する。

なぜ、密かに「隠れ御清明」として行われているのか。それは、「王統が変わった際『第一尚氏狩り』のような、前王統の血縁を排除せよというおふれが出され、清明祭で集まっている一門が狙われました。そのため、時期をずらしてひっそりと清明祭をし、御先祖様の前で一族の結束を固め、供養してきたといわれています」と門中代表の宮城春子さん(このとき75歳)はのべている。
 
 王統が変わったあと「当時は名前を変えたり、読谷や国頭に逃げたり、血筋を隠さないと命がなかったので必死だったんです。この風潮は明治時代になるまで続いたようです」(宮城さん)。だから文献にも残されていないそうだ。

 尚巴志ゆかりの南城市佐敷の佐敷上城跡で「隠れ御清明」として、尚巴志長男系統の子孫の門中(ムンチュウ)によって行われている。門中とは男系の血縁組織である。もう500年以上続いているという。

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               第一尚氏王統の尚巴志ら3王の陵墓の碑

 「佐敷上城跡に月しろの宮が建てられて、歴代王の8つの位牌が祭られています。私が幼い頃は、隠れ御清明には県内各地に散った一門が集まり、ごちそうをささげ、ご先祖様に感謝して繁栄を祈り、ウサンデー(供物)をおいしく頂きました。踊りなどの舞台も設けられて、とてもにぎやかでしたよ」と宮城さんは話している。ただ、ここ10年ほどは集まりが悪くなっているという。

 いまでは、密かにというわけではない。でも、尚巴志と第一尚氏の流れを汲む人々が、いまでもこういう結びつきをもって、500年も「隠れ御清明」を続けているというの、すごいことだ。ここでも歴史が生きていることを感じさせる。

2013年4月10日 (水)

首里の西森御獄を見る

 首里の儀保交差点近くに、西森御獄(ニシムイウタキ)がある。交差点を北に入り、儀保交番を過ぎて、すぐ小高い丘の上にある。末吉公園の入り口の上側に、拝所入口の半壊した碑が立っている。 Img_1999

 そばに黄金豊饒神がある。奥は、ガマ(洞窟)のようで 金網で閉じられている。こちらは、五穀豊穣を祈願する拝所なのだろうか。Img_2009

 入口を上がると、すぐに石畳の参道が伸びている。 登っていくと、ガマ(洞窟)の前に何か祀ってある。さらに進むと、半円形に石を並べてあり、やはり拝所のようだ。Img_2001

 その先に、西森御獄が見えてきた。「岩石二体をイビとした、儀保町の鎮守である」(比嘉朝進著『沖縄の拝所300』)とのこと。 中央には3つの香炉がある。奥には大きな岩石が見える。Img_2003


 
 中央から左側にも、2つの香炉がある。木札が立ててあり、「儀保町土地地盤 守護の神、火の神」と記されている。

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 比嘉氏は、この御獄は「首里城からみると北方にあたるので、北森が妥当であろう」という。沖縄語では「北=ニシ」「西=イリ」と読むからそうかもしれない。でも、この御獄は、首里城から見ると、方角は北ではない。どちらかというと、太陽が沈む方角、つまり西の印象が強い。ただ、正確には西と北の中間、西北である。だから、読み方を別にすれば「西森御獄」でもよさそうだ。 

それに加え、「西」を「イリ」ではなく「ニシ」と読ませている例がかなれある。宜野湾市森の川にある同名の「西森御獄」もやはり「ニシムイウタキ」と読ませている。「西武門」を「ニシンジョー」と読むのも、「門」は「ジョー」と方言読みなのに「西」は「ニシ」のままだ。

 また、『琉球国由来記』や『球陽』には西森とあるそうだ。

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 儀保住民の初御願や盆のエイサーは御獄庭で行われる。

1659年、国頭王子正則(馬氏)は御獄の前に拝殿(フェーディン)を建てて弁財天を祭り、島津光久公の厄難消除を祈ったという。この拝殿は戦災で焼失したという(『沖縄の拝所300』から)。

2013年4月 8日 (月)

ヒージャーオーラセが見える大石公園

 那覇市識名の大石公園は、テッポウユリとともに、ヒージャー(ヤギ)がたくさんいるので楽しい。

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 朝から親子連れやお年寄りも見に来ている。ヤギは「大石公園ヒージャー愛好会」が大石公園で放し飼いにしている。ヒージャーのフンはユリの肥料にもなっているとか。愛好会専用の車もお目見えしていた。

Img_2024 この日の朝は、ヤギは野外にはほとんどいないで、檻の中にいた。ヤギたちは、草をもらったばかりなのか、わき目もふらずに夢中で草を食べていた。

 そのとき、子ヤギが急に頭を突き合わせだした。頭突きでたたかっている。ヤギをたたかわせるのを「ヒージャーオーラセ」という。闘牛ならぬ、闘ヤギである。

Img_2035 そのうち、ヤギは前足を高く上げて、頭を振り下ろして、強烈な頭突きをする。

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 ヤギはその風貌から、やさしい、おとなしいイメージがある。だが、ヒージャーオーラセは、とても激しい。だれも、けしかけたりしているのではない。自分たちで勝手にたたかっている。

 頭を見ると、角が生えかけ、芽のような小さな角が見える。頭がむずむずするのだろうか。オーラセを楽しんでいるのだろうか。なんか、子猫がじゃれてケンカしている感じに似ている。

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 ヤギ小屋の前では、馬も飼っていた。ポニーのような小さな馬である。前に来た時はいなかったはず。

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 ツレが頭をなでてあげると、うれしそうだ。なお、ツレの覆面姿は、強烈な紫外線をさけるための、沖縄では必須アイテムである。

2013年4月 7日 (日)

テッポウユリの香り漂う大石公園

 テッポウユリが咲きだしたと聞き、那覇市識名の大石公園に散歩がてら行ってみた。

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 「大石公園ゆり祭」の看板が出ている。昨年まではなかったはず。まだ少し早いのかと思ったが、もう8分咲きくらいだろうか、咲いている。

Img_2016 甘い香りが漂っている。一本の茎から6輪くらい白い花をつけている。今年は、咲くのがとても早い。例年だと、4月の中下旬くらいだから。今年は冬の間、わりあい暖かかったので、カンヒザクラも、デイゴも、テッポウユリもみんな早いのだろう。

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 前にも紹介したが、このユリは、沖永良部(オキエラブ)島和泊(ワドマリ)町の有志の方から贈られた花だという。沖永良部島は、戦前からテッポウユリを栽培して、アメリカにまで輸出していた。「百合や捨てぃるなよ 島ぬよ宝」「百合つくてぃ遊ば 砂糖つくてぃ暮らさ」と民謡「永良部百合の花」で歌われている。

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 沖縄でユリで有名なのは、伊江島だが、大石公園の方が咲くのが早いのかもしれない。

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 樹木のクワディーサー(和名・コバテイシ)は、もう新芽がいっせいにふきだしている。木の葉は大きくなるので、夏の木陰を作るのにはとてもよい。お墓によく植えられている。この木は、黄緑色の新緑の時期が一番、好きだ。

 

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 どこでも公園にはたくさんある木だ。面白いのは、沖縄の樹木では、珍しく紅葉して落葉する。紅葉して葉っぱが落ちているとき、そのそばで別の木は、新芽が出ていることだ。
 新緑も今年は少し、早いのかもしれない。沖縄は、「うりずん」の季節である。

 

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 今年から「第1回大石公園ゆり祭り」が始まる。4月13日の土曜日だ。

2013年4月 6日 (土)

まやかしの米軍施設返還計画

 「こんなまやかしには、県民は騙されないよ」。思わずそんな言葉が口に出た。日米両政府が嘉手納基地より南の米軍6施設・区域の返還・統合計画に合意したと大々的に報じられたからだ。

 まやかしの1。返還といっても、すべて県内移設が条件になっていること。
 まやかしの2。返還年次を明らかにしたといっても、「2022年度またはその後(普天間飛行場)」とか、多くが「25年度またはその後」などとされている。「以降」とか「またはその後」といえば、限りなく引き伸ばし可能である。期限がないのと同じだ。

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      写真は、移設先の一つ、読谷村にある米軍トリイステーション

 まやかしの3。負担軽減といっても、辺野古新基地建設など基地の拡充・強化となる。

 まやかしの4。那覇軍港はすでに40年前に返還が決められている。すでにほとんど使われず遊休化している。本来はもう返還されているべきもの。普天間飛行場にしても、1996年の合意で2003年返還予定だったもの。

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      嘉数高台から見る普天間飛行場

           

 まやかしの5。嘉手納より南は返還というけれど、那覇軍港は浦添埠頭へ移設であり、キャンプ・フォスターの最終的な返還はわずか23%で、大半は残ること。

 まやかしの6。米軍施設返還を米国の恩恵のように見せかけているが、もともと沖縄の米軍基地は国際法にも違反して、勝手に土地を奪って造ったものだ。あれこれ条件をつけることがおかしい。条件なしに返すべき土地である。

 これらを見ても、いくら年次を書いたとしても、実現性はない。むしろ基地の固定化につながる。

 なのに、なぜこんな返還・統合計画をいまはなばなしく発表するのか。そこには、あたかも嘉手納より南の基地が返るという装いで、県民・国民をごまかし、辺野古移設を進めたいというよこしまな意図がみえみえである。
 もう県民は、こんな「絵に描いた餅」を何回となく見せられている。こんなごまかしにのせられるほど、お人好しではない。

2013年4月 5日 (金)

平和の願いこめた「廃墟の鳩」

 GSバンド、ザ・タイガースのヒット曲に「廃墟の鳩」という曲がある。沖縄唯一のGSバンド「SSカンパニー」がこの頃、レパートリーに加えたので、聞くチャンスが増えた。

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 この曲は、1968年秋に発表された。山上路夫作詞、村井邦彦作曲・編曲。加橋かつみのソロをフィーチャーしている。当時は、ベトナム戦争が激しかった。平和のメッセージを込めたGSソングとして話題になった。

 といっても、GSがブームのころは、まともに聞いていなかった。それでも、GSグループはブレイクしてテレビによく出演していた。だから、いま聞くと、ほとんどの曲は聞きおぼえがある。
 ただ、「廃墟の鳩」はあまり記憶になかった。GSの曲は、当時、フォークソングに比べると、社会性のある曲は少なかった。その中では、「廃墟の鳩」は、稀なメッセージソングだったかもしれない。

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 当時、新曲キャンペーンで、タイガースのメンバーが全国各地に飛び立ったとき、「トッポ」こと加橋は、広島に行った。原爆ドーム付近を歩き回り、「日本最大の廃墟である原爆ドーム…」を見る。「戦争をしてはいけないという意識が、広島を暗くじめじめとした廃墟にではなく、明るい平和な町にしているのだ」と思ったそうだ(ネット「昭和の名盤・アナログ日記」)。

  たしかに廃墟といえば、原爆ドーム。ただ、歌詞を見ればより普遍的な平和への願いが込められているようだ。

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♪人はだれも悪いことを おぼえすぎたこの世界
 きずきあげた楽園(ユートピア)は こわれさった もろくも
 一羽の鳩がとんでいる 真白い鳩が
 生きることのよろこびを 今こそ知る人はみな
 汚れない世を この地上に
 再び創るために 人はめざめた
 ※生きることのよろこびを 今こそ知る人はみな (二回くり返し)

 沖縄戦で、全島が廃墟となった沖縄にもそのままあてはまる。SSカンパニーのリーダーでボーカルの「真ちゃん」(上写真)も、そんな思いを込めて歌っているようだ。

2013年4月 3日 (水)

首里の弁ケ岳を訪ねる、その3

弁ケ岳は、沖縄戦では、第32軍の司令部のあった首里城に近い高地なので、激戦の地だった。68年前の4月1日、米軍は本島の読谷から北谷にかけての海岸から上陸した。
 中部戦線で2か月近く激しい戦闘が続き、米軍は首里城に迫る。日本軍司令部は、1945年5月27日、首里城から南部へ撤退した。
 米軍は全戦線にわたり攻撃を強化する。5月28日には「石嶺、辨ケ岳正面は米軍と接戦しながらも陣地を保持した」が、「辨ケ岳、石嶺高地、大名高地方面も三十日攻撃を受けわが残置部隊は奮戦したが、米軍は逐次滲透して来た」。防衛庁の『戦史』でも、このように記されている。Img_1981

弁ケ嶽には、戦争の痕跡、戦跡がいくつかある。石門の前に、灯篭が二つあるが、銃弾の跡のような、小さな窪みがある。灯篭そのものも、なぜか欠けている。

Img_1987  石門の左横に、旧日本軍の洞窟陣地がある。コンクリート造りで、ポッカリと入口が開いている。中は深いのだろうか。何も囲いはない。コンクリート壁には、やはり銃弾の跡だろうか、いくつも痕跡が残されている。Img_1986

 石門の背後の山に登ってみた。                      

 

 山頂には、三角点とともに拝所がある。これも何を祀っているのか分からない。

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 山頂からの眺めは抜群だ。西方を見ると、首里城が、真正面に見える。北方を見ると、中城方面から与勝半島の方まで、見渡せる。軍事的に要衝だったことがわかる。

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以前、テレビで弁ケ岳の戦跡が紹介されていたのを見た記憶がある。何か説明するものがあればよいのに、と思ったことだった。

2013年4月 2日 (火)

首里の弁ケ岳を訪ねる、その2

                         

 

参詣道の東側の大嶽は、立派な石門がある。石門は、1519年に首里城歓会門(タンカイモン)前にある園比屋武御獄(ソノヒヤンウタキ)石門とともに築かれたといわれる。その構造や工法も似ているそうだ。この石門は、1938(昭和13)年、国宝に指定された。沖縄戦で破壊消失した。

Img_1893 現在のコンクリートづくりの門は、1954年にハワイの「うるま一心会」からの寄付金を得て、首里鳥掘町民の奉仕によってつくられたもの。また、かつては石門の前に、拝殿(フェーディン)と呼ばれる建物があったという。Img_1896_2


 ただ比嘉朝進氏は「石造門の拝殿で、神殿はなく、裏山がご神体である」と書いている(『沖縄の拝所300』)。同じ時期に築かれたという首里城の園比屋武御獄石門も、石門が拝殿にあたり、神殿は別にはないので、比嘉氏の指摘の通りかもしれない。

石門のそばには、小さな拝所があるが、何が祀られているのかわからない。

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井泉がある。説明するものは何もない。比嘉氏によると「大嶽の横の弁嶽ガーは東恵方の若水として献上された」という。

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2013年4月 1日 (月)

デイゴの開花早い

那覇市内でデイゴが開花した。いつもは、4月下旬に咲くのに、今年はスゴイ早さだ。

Img_1971 与儀公園近くのスーパーで買い物をしていると、なんとデイゴが咲いていたのでびっくり。今年は、冬の時期が例年より、寒い日があまりなく、暖かかった。そのためだろうか。

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 といっても、咲いている木はまだ少ない。でも、昨年は台風が本島を何回も直撃して、デイゴの木が傷められた。そのせいなのか、葉っぱがやたら多い。糸満に向かう県道7号線は、デイゴ並木が続いて「デイゴ通り」と勝手に命名しているが、葉っぱが生い茂り、「今年は花は咲きそうにないね」とツレと話していたところだった。

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 与儀公園で、花が咲いているデイゴの木は、葉っぱがあまりない。写真の木も、そのうち咲くだろうか。

Img_1975 花が咲き始めた蕾も、たくさんある。もう少したてば、もっともっと咲くだろう。

Img_1980 デイゴが咲いても、今年はもう台風は来ないでほしい。

   

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