首里の弁ケ岳を訪ねる、その3
弁ケ岳は、沖縄戦では、第32軍の司令部のあった首里城に近い高地なので、激戦の地だった。68年前の4月1日、米軍は本島の読谷から北谷にかけての海岸から上陸した。
中部戦線で2か月近く激しい戦闘が続き、米軍は首里城に迫る。日本軍司令部は、1945年5月27日、首里城から南部へ撤退した。
米軍は全戦線にわたり攻撃を強化する。5月28日には「石嶺、辨ケ岳正面は米軍と接戦しながらも陣地を保持した」が、「辨ケ岳、石嶺高地、大名高地方面も三十日攻撃を受けわが残置部隊は奮戦したが、米軍は逐次滲透して来た」。防衛庁の『戦史』でも、このように記されている。
弁ケ嶽には、戦争の痕跡、戦跡がいくつかある。石門の前に、灯篭が二つあるが、銃弾の跡のような、小さな窪みがある。灯篭そのものも、なぜか欠けている。
石門の左横に、旧日本軍の洞窟陣地がある。コンクリート造りで、ポッカリと入口が開いている。中は深いのだろうか。何も囲いはない。コンクリート壁には、やはり銃弾の跡だろうか、いくつも痕跡が残されている。
石門の背後の山に登ってみた。
山頂には、三角点とともに拝所がある。これも何を祀っているのか分からない。
山頂からの眺めは抜群だ。西方を見ると、首里城が、真正面に見える。北方を見ると、中城方面から与勝半島の方まで、見渡せる。軍事的に要衝だったことがわかる。
以前、テレビで弁ケ岳の戦跡が紹介されていたのを見た記憶がある。何か説明するものがあればよいのに、と思ったことだった。
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