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2013年5月

2013年5月31日 (金)

冨祖崎区フラワー園を見る

 南城市佐敷の冨祖崎できれいな花が咲き乱れているとラジオで流れていたので、訪ねてみた。「フラワー園」と名付けられている。
 場所は、与那原方面から国道331号線を進むと、佐敷小学校を過ぎて二つ目の信号を左折して少し行けば右側の畑が看板がある。

 ここは、県緑化推進委員会の2012年度「緑の募金公募事業」として整備されたという。300坪の畑のなかに花々が植えられている。

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 目につくのは、ヒマワリ。沖縄は梅雨のシーズンだが、この1週間は、梅雨の中休み。夏のような日照りが続いている。太陽に向かって咲く大輪のヒマワリが鮮やかだ。


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 女性の背丈より高い。ちなみに、頭に着用している覆面は、強烈な紫外線から肌を守る沖縄の必須アイテムである。

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 ヒマワリの葉っぱには、なぜかカタツムリが止まっていた。たくさんいた。
ヒマワリの横は、コスモス畑だ。でも、もう暑すぎるのか、花はほとんど終わっていた。

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 とくに沖縄らしい花というわけではない。全体に、もう盛りを過ぎた感じだった。

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 こちらの花の方が色鮮やかできれい。これは、フラワー園の近くの畑で咲いていた。





2013年5月30日 (木)

F15墜落原因も不明のまま訓練再開

 米空軍嘉手納基地所属のF15戦闘機が、低落したばかりなのに、30日は朝から那覇市上空を戦闘機が飛び交い、やけにうるさい。自衛隊機は、那覇市上空は飛ばないというので、米軍機であることは確か。なんども空を見上げた。

 F15墜落で、県内では不安と怒りが高まり、県も「墜落の原因が究明され、公表されるまでの飛行中止」を求めていた。29日は、さすがに飛行はしなかった。でも、今朝は戦闘機らしい騒音がひどすぎる。まさか、と思ったが、報道によってやはりF15が訓練を再開したとのこと。あまりにも、県民を愚弄している。嘉手納町の當山町長らも「言語道断」と憤りをあらわにしていた。

 しかも、訓練再開からわずか3時間後には、F15が嘉手納基地に緊急着陸し、消防車など出動したそうだ。なにか異常があったのだろう。

F15は沖縄配備後だけで9回、10機も墜落している。せめて、事故原因が究明され、公表されるまでは飛行中止をというのは、当たり前の最低限の要求ではないか。

それさえも、一顧だにしないこの米軍の横暴はなんだろう。それに、防衛省、外務省も、県民のささやかな願いさえ、アメリカに伝えようともしない。この卑屈さ。あきれるほどだ。

 沖縄県民の米軍と日本政府への不信はつのるばかりだ。

2013年5月29日 (水)

米F15戦闘機、墜落の恐怖

 米空軍嘉手納基地所属のF15戦闘機が28日午前8時43分、沖縄本島北部の国頭村安田(アダ)の東南約59キロ沖合の海上に墜落した。F15は、1979年の嘉手納配備以来、9回目10機が墜落している。実に3・7年に1度の割合で墜落していることになるという。

 現場が海上だったからよかったというわけにはいかない。いつ陸上に落ちるかわからない。1959年の旧石川市の宮森小学校にジェット機が墜落し、児童ら18人の尊い命が奪われた惨事を思い起こさせる。
 59キロ離れているといっても、ジェット戦闘機の飛行なら、わずかの時間だ.。パイロットは、危険とわかればすぐ脱出する。今回もそうだ。それが、地上に墜落するとなっても、同じだ。学校だろうとなんら回避することなど念頭に置かない。

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                米空軍嘉手納基地

 県都の那覇市であっても、米軍は勝手に飛び回る。戦闘機でも、輸送機でも、オスプレイも那覇市上空を日常的に飛んでいる。戦闘機の爆音には、いつも悩まされる。

 その上、今回のような墜落である。これがいつ、嘉手納基地の周辺や那覇市をはじめ都市、住宅地にふりかかるのか、わからない。絶対安全などとは、だれも保障できない。

 28日には、米海兵隊キャンプ・シュワブ所属の米兵が、酒気帯び運転で逮捕された。Yナンバーの車両が宜野座村の国道で、当て逃げした事件が発生しており、この米兵が起こした可能性がある。米軍は基地外での飲酒や飲酒後の基地外への外出を禁止しているが、飲酒運転や飲酒した米兵による事故、事件は続発している。「禁止令」など、どこ吹く風である。

 空からは、戦闘機が墜落してくる。地上では、米兵による事件、事故が後を絶たない。県民の命と安全は、つねに恐怖にさらされているのが、戦後68年目の現実である。

 県は、F15の事故原因の究明まで飛行中止など求めている。それは当たり前だが、それくらいでは、事故の再発は防げない。

 オスプレイの墜落なども、いつ起きてもおかしくない。米軍基地があるかぎり、米軍機による墜落をはじめとする事故や米兵による事件は、根絶できない。県民の命と安全を最優先に考えるなら、米軍基地は閉鎖、撤去するしかないだろう。

2013年5月25日 (土)

感動的な「千の風になって」

 ウチナーフォーク歌手「ふーみ」のライブが糸満市「風は南から」であり、出かけた。ツレのお父さんが5月初めに亡くなったが、いつまでも悲しみに沈んでばかりはいられないので。

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 ふーみさんは、今回は相棒の良明さんが不在なので、「ミスター☆ジョークマン」の名前でのライブだ。前半は、三線を弾きながらの島唄が中心だった。一部の最後に、ツレがリクエストしていた「千の風になって」を三線、ギターもなしで歌ってくれた。

 ふーみさんも、ツレが父を亡くしたことを知っている。「♪わたしのお墓の前で 泣かないでください そこにわたしはいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹き渡っています」。とても心を込めて歌ってくれた。のびやかなテノールは、この歌をよく表現している。

 ツレはもう、歌い始めるとすぐにウルウルと涙する。終わると、号泣して、ふーみさんの胸に顔をうずめた。感動的な歌だった。素晴らしい歌を聴かせてくれたふーみさんに、感謝したい。

 終わった後で、ふーみさんいわく。「この千の風になっては,三線でも弾けるんですよ。だから、そのうち、三線で弾いて歌ってみたい」と語っていた。三線の音色にのった「千の風になって」もぜひ聴いてみたい。

  ライブ後半は、フォークから、洋楽ナンバーなどで楽しませてくれた。何を歌っても、上手い。オリジナルを超えるような歌唱だ。Img_2357

 ふーみさんは、もうすぐ50歳の誕生日を迎える。ライブでは、常連の人たちで、バースデイケーキを用意して、お祝いをした。
 ツレもきっと、癒されて、次第に元気を取り戻していくだろう。

2013年5月24日 (金)

玉三郎の組踊「聞得大君誕生」を観る

 坂東玉三郎が出演して話題となった新作組踊(クミウドゥイ)「聞得大君(チフイジン)誕生」がNHKで放送されたので観た。

 聞得大君とは、琉球王国の最高位の神職。通常は「キコエオオキミ」と読むが、組踊ではウチナーグチ(琉球語)読みとなっている。舞台は16世紀の尚真王代(第二尚氏)の琉球王朝である。

Img_2361 尚真王の妹、音智殿茂金(ウトゥチトゥヌムイガニ)が、首里の今帰仁(ナキジン)の屋敷で奉公していた伊敷里之子(イシチサトゥヌシ)と出会い恋に落ちる。そのころ今帰仁で、村落の祭祀をつかさどるノロ(神女)と民間の巫女であるユタの勢力争いが起きていた。尚真はこの争乱を鎮めて、王族の女性を頂点とする強大な宗教組織の確立を推し進めようとする。

 そこで、伊敷里之子が争乱を治めるため派遣される。心通わせる彼女と別れて出かけた里之子。だが争いの中で刺されて命を落とす。Img_2363

  尚真は、新たな国事として、村のノロ(神女)一人を選び村で神への祭祀を務めさせる。王府には、最高の神職として、聞得大君をおき、村々のノロをおさめるとともに、王府の神事を務めさせる。その役目は、王妃か王の姉妹しかいない。音智をその神職につかせる。聞得大君の誕生である。
 そんなストーリーである。玉三郎のために書かれたような内容だ。

 沖縄でも、公演のチケットは瞬く間に売り切れ、見に行きたいと思ってもいけなかった組踊ファンがたくさんいた。ただ、私的には、玉三郎にはあまり興味がない。

 この組踊を観て、個人的に興味があり、面白いと思った点がいくつかある。

 その一つは、まずバックで歌い演奏する地謡(ヂウテー)が、幕の後ろではなく、舞台に出てきて、よく見える位置で演奏したこと。「組踊は聴くもの」と言われるほどだから、当然だ。でも、国立劇場おきなわの組踊公演では、地謡は幕の後ろに隠れ、歌と演奏もベールを通してしか聴けないことが多い。今回は、よかった。

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 その2。尚真王は中央集権制を確立し、各地に割拠していた按司(アジ、豪族)の武装を解除し、武器を王府に集中管理した。その時代の模様が描かれていること。
 「地方の按司から武器を集めているが、まだそこここに武器が残っている」「今帰仁の武器はまだ半分しか納めてない。遅れている」などの会話が出てくる。

 若い男女の出会いもそんな場所だった。今帰仁の武器を納める旅の行列に出会って、驚いた馬がつまづき、音智が落ちる。武器運搬の手伝いをしていた伊敷里之子が彼女を助けて、二人の恋が始まった。Img_2367
 二人の出会いと別れ、彼氏の死去という悲劇まで、王府が地方から武器を集めた政策が、物語の重要な背景になっている。こういう組踊は初めて見た。

 その3。ノロとユタの争いが描かれていること。まだ、今帰仁に残っていた刀やヤリなどの武器を女性たちが持って争う。想像を絶する情景だった。ユタがノロに「山原で神女(ノロ)は役にたたん」とののしれば、ノロはユタにたいし「人をだますのが仕事」という具合に、激しく罵倒する。

 ノロは村の公的な神事を担い、ユタは民間の庶民を相手にするのに、勢力争いがあったとは、意外だった。なぜだろうか?
 たぶん、尚真王による宗教組織が確立され、各地のノロもその統制下に置かれるまでは、ノロの身分と地位、職務の範囲も、まだ明確には確立されていず、ユタとの争いもあったということだろうか。作者の大城立祐さんは、琉球の歴史には詳しい作家なので、それなりの時代考証はされているはずだ。

 「村落のノロ組織も、少なくとも第二尚氏初期に完成され、すべて王府からの正式の辞令によって任命される官人=オエカ人となった。そして役地としてノロ地が支給された」。宮城栄昌著『沖縄の歴史』はこのように指摘している。

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  王府から任命された「これら聞得大君以下の神女は、お嶽(拝所)や自分が居住する御殿の火神を通じ、つねに国王の長寿、王家の繁栄、領内の平和、五穀の豊穣、航海の安全を祈った。ノロはまた按司のためにも、その幸いを祈願した」(同書)

 そんなこんなで、それなりに面白く観た新作組踊だった。
 写真はすべて、NHKの画面から借用した。

2013年5月23日 (木)

真玉橋の唐獅子(ガーナ森の由来)

真玉橋の唐獅子(ガーナ森の由来)

 

 真玉橋の拝所のアップのついでに、石獅子にまつわる伝説を紹介しておきたい。この石獅子については、すでにブログにアップしてあるが、その由来については詳しく書いていなかった。以下『豊見城村史』などからの紹介である。

                           

 

「真玉橋には石で刻んだ唐獅子像が二基置かれている。一基はガーナー森に対するものであり、一基は国場川を渡った対岸の瓦屋原(森)に対しての魔除けの意味で設けられたものである」。049

「真玉橋の石碑の近くに石で彫刻された唐獅子と嘉数の村はずれにある唐獅子はガーナー森に向かって立っている。両部落では毎月朔日(ツイタチ)と15日には唐獅子に赤いまん頭を三つ供えて『ガーナー森(悪魔)がこの村に来たら追い払ってください』と祈願する習慣があった。

 昔奥武山(オウノヤマ)公園の東南、漫湖の中に大きな怪物がすみ、真玉橋、嘉数の部落民をかたっぱしから食い荒らそうとした。これは村の一大事とあって、皆手に棒や刀を携えて防戦したが力及ばず、村の人々は断念、怪物に食われるのを待った。そのとき三個の大石が降ってきて、怪物の暴れ狂うシッポを抑えた。それで怪物は永久に身体の自由を失い、漫湖の中に据えつけられたのが今のガーナー森であるという。

 かねてガーナー森が嘉数、真玉橋を喰いつぶそうとしている野心を神様が見ぬかれ、機会をまっておられたが、この時とばかり早速三個の大岩を投げられて、ガーナー森の臀部を強く抑えつけられたのであった。050

 嘉数、真玉橋では神様の御加護を感謝し、ガーナー森の魔風を押し返すために唐獅子を据え、ガーナー森からの危難に備えたいということである。それから後はガーナー森の不安もなく村は栄えて今のようになったということである」

 以上は、「イリヌ・シーサー」について、『豊見城村史』の「口碑伝説」から紹介した。

こちらの石獅子は、まるでゴジラのように恐ろしい風貌である。ガーナー森の魔風を押し返すためだろうか。このシーサーは、集落の西にある。「イリ」は「西」のこと。「アガリ」は「東」にことである。

もう一つの唐獅子

 もう一つの「アガリヌ・シーサー」は、名前の通り東にある。その由来は明確でないらしい。ただ、イリヌ・シーサーとまるっきり風貌が異なり、穏やかで円満な顔つきである。なにか由来の違いがあるのだろう。051

「昔この地に獅子が居座っている由来については明らかではない。獅子が置かれているところが陸地であったと考えられる。そうであれば国場川の川幅が広く獅子のところまで川と陸地との接点と想像される。考古学者によれば水からの悪魔から風難を防ぐという意味をもつと云われる」。『真玉橋拝所整備移転建立記念』冊子から紹介した。

『豊見城村史』では、「国場川を渡った対岸の瓦屋原(森)に対しての魔除けの意味」という。「言い伝えによれば、瓦屋原への風難を防ぐため立てられた瓦屋森標高48.3m、その森に明国から来たといわれる陶工渡嘉敷三良が妻を強制的にされた女性が哀れな歌を残した伝説がある」と「移転記念冊子」でも記している。

 

 この瓦屋の渡嘉敷三良については、ブログで書いてある。この伝説と石獅子は関係ないだろう。

国場川は台風、大雨で川が氾濫したことがしばしばある。だから、「水からの悪魔から風難を防ぐ」というのは、「水害を防ぐ」という願いが込められているのだろう。

 

 

2013年5月21日 (火)

ギターサークルの送別会

 アルテのギターサークルの女性メンバー、金城和佳奈さんが宮古島に赴任するので、送別会が開かれ出かけた。サークル員でもないのになぜ? ツレがギターサークルの発表会で司会を担当したりした縁で、送別会の企画をしたので、一緒に出席することになった。

 アルテ崎山の通称ロケットビルの10階天空のフロアで、バーベキューを囲んだ。
 和佳奈さんが就職したのは、「パラダイスプラン」という会社で、「雪塩」を作っていることで有名。工場が宮古島狩俣にあり、那覇市の市場本通りや東京、台湾にも店があるという。Photo_2

 参加者一人ひとりが、お別れの言葉を述べたが、和佳奈さんはやおらノートを取り出してメモをしだした。なぜ? と思っていると、自分のあいさつのさい、メモを見ながら一人ひとりについて、返礼のコメントして感謝の言葉をのべた。スゴイ!

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 音楽仲間たちなので、食べ終わるとみんなが歌い、演奏を披露した。和佳奈さんも、サークルを主宰する越智さんとギターデュエットで、ジブリアニメから「風の丘」を演奏した(上)。宮古島にはすでに、同じサークルメンバーだった琴絵さんがいるので、宮古島でも演奏を続けるのだろう。

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  越智さんがギターで「イムジン河」を演奏するので、わたしも歌ってみた(上)。

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 和佳奈さんは、わたしが前に歌った「イラヨイ月夜浜」が印象に残っているとのこと。歌三線では、宮古民謡の「なりやまあやぐ」「イラヨイ月夜浜」を歌ってみた。

 宮古島では、暮らしの中に民謡がある。宮古島を深く知るためにも、できれば民謡も聴いて、楽しんでほしい。

 写真は、比嘉さんが撮ってメールで送ってくれた。感謝したい。

2013年5月19日 (日)

真玉橋の拝所、橋の神

橋の神

 真玉橋の南側の橋のたもとに、「橋の神」を祀る立派な祠がある。真玉橋を通るたびに、この祠は何を祀っているのか、分からないままいつも通っていた。「橋の神」は、今でも旧暦1日、15日には、この地区の住民が拝んでいるそうだ。
 
『琉球国由来記』では、「毎月、朔日(ツイタチ)十五日、中ノ橋ニ花五水(酒のこと)添デ、村中ノ人、御拝仕ル也」と記されている(『真玉橋の聖地と祭祀』)。037
             真玉橋

 
  何を祈願するのだろうか。

真玉橋、雲浮(コモコ)橋、五のいべ、七つのいべ、潮花のせじ(霊威)ぎらいかない(ニライカナイ)がなし、「村民一同に果報があるように作物がよくでき、旅に出てもきて、足のけが等がないようにお守りあれ」。こんな趣旨のことを祈っているそうだ(『豊見城村史』)。

                           

 

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              橋の神

2002年に橋の改修にともない、現在の場所に祠が造られた。

 「永年風雨等の流失あらゆる困難を克服して橋が出来た。第二次大戦で破壊され消滅に至る」「昔から多くの人(ウマンチュ)の往来便利を与え心から感謝の念を捧げるものである」と「真玉橋拝所移転記念冊子」でも記されている。

 写真を撮影した日も、お花が供えられていた。住民にとって、橋に対する感謝の気持ちが強いから、橋の神がいまでも大切にされ、祈願を欠かさないのだろう。

2013年5月17日 (金)

橋下暴言と沖縄の苦難の歴史

 日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長の暴言に内外で批判が高まるばかりだ。沖縄では、米軍に風俗活用を提起したという発言に、怒りが強い。

 そんななかで、沖縄の戦後の苦難の歴史にたいする無知と無理解という問題がある。5月17日付「琉球新報」では、その苦難の歴史を明らかにしている。そこから紹介したい。

 沖縄は1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約で日本から切り捨てられ、売春防止法は、沖縄では適用外となった。

 「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の報告書によると、1946年から1972年の復帰で売春防止法が適用されるまでの間、米兵による性犯罪の件数は、判明しているだけで約500件。この数字も氷山の一角だという。

 1949年、多発する性暴力事件に頭を抱えた当時の志喜屋孝信知事が、米軍に対し特飲街の設置を要請。50年末には「住民への危険防止策」として、県内各地に米兵を対象とした特飲街が設置された。

 だが、特飲街設置後も米兵による性犯罪は収まらなかった。60年代に入ると、ベトナム戦争帰りの米兵が、特飲街に働く女性に性的暴行を加え、殺害する事件が頻発した。66年、金武村(当時)で、米兵に性的暴行を受けて殺害された女性が下水溝に投げ捨てられるという事件が起きた。

 

 橋下氏は、厳しい批判を受けても、反省も謝罪も撤回もしようとしない。
 今回の「風俗活用」発言は、女性を道具のように見て、女性の人権を侵害していること。米兵による性犯罪が起きるのを必然視していること。風俗を活用すれば性犯罪を防止できるかのようにとらえ、米兵による犯罪の実態と本質を無視していること。米軍と日本政府の責任を免罪していること。沖縄の米軍基地と米兵の存在を永続視していること、などなど。およそ公人として、あるまじき発言である。

 橋下氏が、言い訳と開き直りを続ければ、みずからの人格と政治家としての資質をさらに失墜させることになるだろう。

2013年5月16日 (木)

真玉橋の拝所、ヒララス杜(御獄)

 ヒララス杜(御獄)

 ヒララス御獄(ウタキ)は、漫湖(マンコ)に面したヒララス杜(森)にあった。かつては、標高38㍍余のピラミットのような形をした丘の上にあった。頂上に大岩があり、二基の香炉があった。一基は豊見瀬の御獄への遙拝所、一基はニライカナイの神への遙拝所だったという。
 いまは県営住宅の建設のため、丘は消えて、県営住宅の敷地の一角に拝殿が建てられ、祀られている。

 
 その昔、ヒララス杜の南側に伊江島から知念姓の人々が移住したということで、「知念ムイ」と呼ばれたこともある。

 この地は、爬龍船競争のハーリーの発祥の地として知られている。旧5月4日「ユッカヌヒー」には、この周辺になる豊見城、根差部(ネサブ)、嘉数、真玉橋の村人は雨乞い、航海安全の祈願をした。

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          写真はヒララス杜。「移転記念冊子」から

                           

 

 昔、ハーリー行事の際は、このヒララス杜に向かって、豊見城(ジンス=お神酒)、根差部(ポーポー=クレープ風の食べ物)、嘉数(アマガシ=ぜんざい風)、真玉橋(マーミナズーネ=モヤシ炒め)の料理をお供えしたそうだ。

ハーリーの由来は、1393年、南山王のおいの汪応祖(ワンオウソ)が中国の南京に留学中、龍船の競争を見て感動し、漫湖に船を浮かべて遊覧したのが始まりとされる。
 他にも由来の説はあるが、豊見城では、汪応祖を由来として、ハーリーを復活させている。

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ヒララス御獄のある県営住宅を訪ねてみた。残念ながら拝殿は、なぜか傾いている。台風でやられたのだろうか? 周辺には、段ボールの紙片がたくさん散らばり、「これが神聖な御獄だろうか」と目を疑う状態だった。


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 拝殿の中をのぞいてみると、大きな岩が置かれている。ヒララス杜の頂上ににあった岩の一部だろうか? 「竜宮の神様が宿る石」という説があるそうだ。説明するものは何もない。各地からの参拝者が多いと聞く。

 

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「黄金森」と書かれた石碑がそばにあった。どういう関係なのかよくわからない。

それにしても、県営住宅は必要だが、漫湖のそばで景観もよく、由緒のあるヒララス杜が、跡形もなく消え失せたのは、残念なことだ。なんとか保存する方法はなかったのだろうか。

 

2013年5月15日 (水)

真玉橋の拝所、仲間世、古島

仲間世拝所

 真玉橋から南に向け県道11号線を進み、嘉数入口から高台の方向に登るとすぐに左手に「仲間世(ナカマユー)」の碑がある。
 
 「真玉橋の古い時代の先祖を祀ったといわれる拝所である」(『豊見城村史第2巻民俗』)。Img_2303


                           

 

  真玉橋村落の最初の祖先が居住した地といわれている場所は、高台の「嘉数バンタ」下方の傾斜地にあったといわれる。「この時代を仲間世といい、三戸のみの集落であった」と伝えられている。
 
 もともとの拝所の場所は、戦後、業者に買い取られ、破壊されることになったことから、やむなく、元の場所から30㍍下方に移された。道路端のお墓がたくさんある場所の一角に、碑が建てられている。

 「仲間世」を少し下り、理髪店の横の道を入った左手、屋敷の一角に「仲間井(ナカマユーガー)址」の碑がある。かつては住民の命を支えた井泉だった。戦前は飲料水として利用され、戦後もしばらく石積みの囲いが残されていたが、今は井泉跡があるだけだ。この二カ所は真玉橋村共同体の拝所となっているそうだ。

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 この仲間世の地に居住していた人々は、浦添市安波茶村落の仲間家の分家が移り住んだと記している書もあるけれど「これは全く論拠の無い説といってよい」と仲松弥秀さんは断じている(『真玉橋の聖地と祭祀』)。

「ここは高い所であり、狭く傾斜地であり、西北風が強いため、また水も少ないために移動したものと考えられる」(『豊見城村史』)。

 

古島井

 

 移動した先が、仲間世から少し真玉橋寄りに行った斜面にある「古島」と見られる。「古島」というのは、もともとの地名ではなく、「古い集落(シマ)」のことを意味する。
「フルジマ」と書かれた緑色の文化財の標柱が見える。拝所と井泉がある。

 
 「この集落は最初の真玉橋村落とされ」ている(『真玉橋の聖地と祭祀』)。古島集落は5世帯ないし7世帯だったという伝承がある場所だ。住宅横の細い道を登る。ただ、犬に吠えられるのを覚悟しなければいけない。

 拝所には火の神が祀られている。真玉橋拝所整備事業のさい修復されたという。

 

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  その奥に「古島井(フルジマガー)」がある。丸い石積み井戸である。水はない。この上の嘉数高台に降った雨が、この付近で湧水となって出ていたのだろう。

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 真玉橋の集落形成の経緯について「移転記念冊子」は次のように記している。

 「1522年に木橋が架けられた時代は、俗に仲間世といわれる時代で、1708年の石橋建造時代は“真玉橋古島”が形成され、さらに時代を経て魚介類も豊富で、農耕にも適した現在地周辺に移動して村づくりがなされたと推測される」

2013年5月14日 (火)

あいた口がふさがらない橋下暴言

 これが公党代表の発言か!と怒りを通り越して、あきれかえったのが、橋下日本維新の会共同代表・大阪市長の暴言だ。

 在日米軍幹部に、海兵隊員による風俗業者の活用を求めたとか、従軍慰安婦は「軍の規律を維持するために必要だった」などなど。

 橋下氏は先日、沖縄に来て、米軍基地を空から視察した。普天間飛行場の辺野古移設に賛成する立場を表明し、県民のひんしゅくを買ったばかりだ。その際、米軍幹部と会った際、風俗活用を提案したという。なんと恥知らずだろうか。女性の人権をじゅうりんするのもはなはだしい。沖縄では怒りが巻き起こっている。

 そういえば、かつて1995年の少女乱暴事件が起きた際、米太平洋司令官が「彼ら(米兵)は車を借りる金で女が買えた」との暴言をした。橋下発言も、それと同次元のもの。

 それに、米兵による女性への乱暴や凶悪事件がおきるのも、「海兵隊の猛者の性的エネルギー」のなせるものでやむを得ないかのようにさえ受け取れる。沖縄で相次ぐ米兵による事件の深刻さも、本質もなにもわかっていない、わかろうともしていないことを物語っている。人間性を疑った。

 従軍慰安婦発言も、同根のものだ。これまで、自民党幹部らが、従軍慰安婦は軍の強制ではなかったと発言し、批判を受けてきた。旧日本軍に従軍慰安婦は必要だったと、全面擁護する橋下発言は、さらに悪質なものだ。

 「もし自分の母親や娘が同じ立場に置かれた時、同じことが言えるのか」という憤りの声も県内の女性団体から出ている。
 あからさまな軍による性暴力の容認発言は、内外の批判がさらに高まるだろう。およそ公党の代表として、政治家として、市長としての資格がないことを示している。暴言は撤回すべきだ。それにとどまらずただちに辞任すべきである。

 

2013年5月12日 (日)

アルテで「豆が花」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーの5月のテーマは「若」。第89回を数える今回は24組がエントリーした。フラメンコギターから、ソプラノ、テナー独唱、オリジナル・フォーク、ピアノ、ウクレレ、オカリナ演奏と、今回も多彩な演奏が続いた。Img_2315

 歌三線は、今回もわたし一人。少し寂しい。宮古民謡「豆が花」を歌った。織物を織る若い女性が登場するから選曲した。

 

 最初は、豆の花の美しさ、花の命のはかなさを歌う。でも3番からは、ガラッと内容が変わる。琉球王府の時代、宮古島や八重山は人頭税を課せられた。宮古では、女性は、宮古上布など織物を納めなければいけない。作業小屋に女性が集められ織らされる。そこに、役人が監督に来る。この歌では、目差主(メザスシュー)という村の助役格の役人がきていて、美しい若い女性に目をつける。「オレの妾にしたい」と親父に強要する。親父はそれを拒否する。
 
理不尽な役人への抵抗を歌ったとってもいい曲だ。

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 和訳で歌詞を紹介する。

 「♪朝咲く豆の花のように 夜明け前露を受け咲く花のように」

「♪豆の花は一時だ 露を受けて咲く花は片時だ」

「♪おいおい前里のおやじ お前の娘を俺にくれろ」

「♪私の娘のマカマドウは 位の高い役人様とは 身分が違います」

「♪男と女は一緒になれば 身分の違いは 気にならないものだ」

「♪私の娘は年もまだ一七歳で 肌を見れば まだ子どもですよ」

「♪言うことを聞かないと 二〇ヨミ織らせるぞ 細い糸つなぎをさせるぞ」

「♪二〇ヨミ織らせてもよい 細物でも織りますよ(でも娘はお断りします)」。

 人頭税時代の実話物語だという。この「二〇ヨミ」というのは、最も細かい上布で精密な織りものだという。紺細上布を仕上げるには、クモの糸のような細い糸を紡ぐ高度な技術が必要とされ、難しい作業だったようだ。

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ただ、最後の部分は解説する人によって、解釈に違いがある。ある人は「二〇ヨミは織らせてもよい。細物は許さない」という理解をする。ある人は「二〇ヨミ織りは許さない。細物織りも許さない」と解釈する。上に引用したのは『南島歌謡大成』宮古編からである。

 私的な理解からすれば、役人が「織らせるぞ」といえば「織るのを拒否します」とは言えない。だから「織れと言えば織りますよ。でも娘はやれません」という対応が現実にありそうだ。織るのを拒否できなくても、娘を拒否することは、あとの仕返しが心配だとしても、可能だろう。歌う時も、そういう理解で歌った。
 演奏は、出だしは少しつまづいたが、長い歌詞も間違わずに歌えたので、やや満足である。ただ、聴く人にとっては、長いし、あまり味わいのない歌い方で退屈だったかもしれない。演奏後も、反応がいまいちだった。

なお、人頭税時代の哀歌について、ブログ内で「愛と悲しみの島唄」「人頭税哀歌」をアップしているので、興味のある方は見ていただきたい。

Img_2339 ツレは、先日横浜にいる父親を亡くした。アルテに出るか迷ったが、音楽がとても好きで、アルテの模様も毎回、DVDに撮って送っていたので、見て楽しんでいてくれた。それで、亡き父のために「サヨナラの夏~コクリコ坂から」をピアノを弾きながら歌った。こみ上げる思いで、涙ぐみ、少しつまったところもあったが、心に染みいるような演奏で、最後まで弾ききった。

途中、演奏仲間の方々からも、声援を受けた。「感動した」という声も寄せられたそうだ。亡き父も天国から聴いてくれたことだろう。


2013年5月10日 (金)

真玉橋の拝所、骨神

骨神(フニシン)

 「大井の上」の拝所で、初めてお目にかかったのが骨神(フニシン)である。ガジュマルの根元にある骨神は「真玉橋架橋工事のときの事故死亡者を祭っている」と伝えられるそうだ。それとは別に、もっと大きな骨神の祠が造られている。


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 移転記念冊子では、以下のように説明されている。

村屋の「上段の骨神を調査したところ、大屋門中二基、一基は入込みの骨が古い。この敷地内から上段に安置した形成があったが、今回大井御獄内に合祀したのは鑑定の結果一基、二基は大屋門中後一基入込みの骨である」。

                           

 

 この大きな拝所が、移転合祀した骨神だろう。「骨神」と書かれた下に「大屋一門中」「新屋、上門、東上門小、いり金城」と記されている。この名前は、門中もしくは門中を構成する家の名のようだ。「大屋」は「真玉橋の国元(クニムトゥ)」、「上門」「新屋」は「真玉橋の獄元(タキムトゥ)」(『豊見城村史第二巻民俗』)といわれている。

これだけ丁重に祀られているということは、「真玉橋の始祖」の骨を神として祀っているのだろうか。

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 フニシン(骨神)は、これまであちこちの拝所を回った中では、見たことがなかった。『真玉橋の聖地と祭祀』(平成3年11月発行)の中の「真玉橋の墓制」を読むと、通常のお墓とは別に、真玉橋には屋敷内墓があるという。

「注目すべきことは、その村の宗家をはじめ二〇軒(旧村屋・拝所のを含め)にフニシンと呼ばれる、その家のタチクチ(祖先)の墓とされる屋敷内墓(以後屋敷墓と称する)があることである」

 屋敷墓は沖縄各地にまれではあるが、「まま散見される」ものの真玉橋の場合、「集落の戸数に対してかなりの頻度を示している」のが特徴だ。屋敷墓は、規模は小さく、数も少ないので、「一世代位の墓制」で、まもなく現在の当世墓地に移行していっているという。

 真玉橋の集落の屋敷墓の分布調査をした結果、「屋敷内にあるフニシンあるいはグフンシンと呼ばれる墓は旧真玉橋地内六九軒のうち十八軒に確認することができた」。

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             「大井の上」から見た国道329号バイパス

 このうち、前松尾(メーマーチュー)のフニシンは「屋敷の主」という認識があり、おじいさんが一日・十五日に拝んでいた。「そこには遺骨があったが今はない」。かつてクニブの木を掘り起こすため鍬を入れたとき、遺骨が出てきたという。

 屋敷墓を「グフンシン」と呼ぶ仲上門(ナーカイジョー)でも「グフンシンを屋敷神として祭っている」という。

 フニシン(骨神)は、「屋敷の主」であり、「屋敷神」として、拝まれていたのだ。 

この屋敷墓とは別に、現在、住民が使用している門中墓や家族墓は「当世墓」と呼ばれるている。

2013年5月 9日 (木)

真玉橋の拝所、移転された拝所

移転された拝所  

 ここまでは、もともと古くから「大井の上」にあった拝所だ。次に、バイパス建設によって移転された拝所を見る。


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 真玉橋の拝所は24カ所に点在し、集落の開闢以来、字民、各門中が祭祀し、現在に至っている。この地「大井の上」は、地頭火神、水の神、骨神が祭られ、字民の豊年と健康を祈願した由緒ある聖地である。

                           

 

平成6年(1994)国道329那覇東バイパス工事により道路敷になったため、東り原の臼井・今帰仁井・遊庭(旧村屋跡)の火の神・骨神・御井をこの地に整備移転合祀した。「真玉橋拝所整備移転建立記念碑」には、このように記されている。

旧公民館には、かつて村の行政の中心となる村屋(ムラヤー)や、祭りなど行う遊庭(アシビナー)があり、住民が集まって祭事や協議ごとをしていたという。

「此の村屋には、火の神、御井戸等が祭られ上段には、3基の遺体が安置されている。何故そこに骨神が置かれているのか、おそらく真玉橋の始祖真玉橋の世持ち下りした先祖ではないかと思われる」(同冊子)

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大井のすぐ上、ガジュマルの東側に、石碑が三つ並んだ拝所がある。左から「臼井戸」(ウーシガー)、「今帰仁井戸」(ナチジンガー)、「遊庭井戸(アシビナーガー)」。

「臼井戸」は、家庭に井戸がなかった時代に、この臼井戸から水を汲み生活を支えたことから、水の恩恵に感謝して住民から崇められ祀られていた。Img_2208_2

 その昔、この拝所の裏の崖を登って東に行ったところに、長嶺按司(アジ)の居城があったが、「後に城が滅び、時代を経き至り尚貞王代城壁を壊しその石で真玉橋築造したと伝えられ」ているそうだ(真玉橋拝所移転記念冊子)。

「真玉橋を架設するためグスクの石を運んだ人夫がウーシガーで喉を潤し休憩したとの言い伝えも残っている」(『豊見城村史第2巻民俗』)という。

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 「今帰仁井戸」は、いわれが明らかではないという。遠い北部の今帰仁村の方向に向かって遙拝所となっていたという。
 
 「信仰の念が厚く、部落や門中(ムンチュウ)の人々年中行事として祭事を行い、安全祈願、豊年万作の礼拝し、七周期毎今帰仁の現地に赴き、礼拝する習慣になっている」(同冊子)という。

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 遊庭井は、旧公民館敷地内にあった。敷地内には、火ヌ神と3基のフニシン(骨神)も祀られていた。これらが、移転し合祀された。

2013年5月 8日 (水)

真玉橋の拝所、神庭之殿

「神庭之殿」
 
ガジュマルの根元、円形の石積みの拝所の南側の一段高くなったところに、「神庭之殿」がある。「殿(トゥン)」とは、そもそもどういう役割を持つのだろうか。

「沖縄では、村(屋取村は除く)といえば何処の村にも、いわば村ごとに、そこの村共同体の祖霊神を祀った『御獄』が、必ず存在するものである。そしてその御獄の神に対しての祭祀を行うところの場としての『殿』が設けられている。いわば祖霊神祀る御獄ごとに殿が設けられていると言ってもよい」。『真玉橋の聖地と祭祀』で「第1章 真玉橋概況と拝所」を書いた著名な民俗学者の仲松弥秀氏は、このように説明している。

真玉橋の「神庭之殿」は、「村落共同体の神行事に対する祭祀場である。旧5月15日(ウマチー)旧6月15日同じ根差部(ネサブ、呑呂)、嘉数、真玉橋の神人が二ケ字(アザ)の儀式を終え殿で祭祀をとりおこなうところ」「村人総出して神酒を神に供え字民の健康、五穀豊穣の祈願をする」(移設記念冊子)という。

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 この「殿」をめぐって奇妙なことがある。仲松弥秀氏は、「そもそも『神庭之殿』とされている殿名からすれば、『神の居られるところの庭に設けられた殿』と考えるのが妥当であろう。ところが現在の殿とされている場所には、いくら探し廻っても、神の坐(イマ)すと考えられる所は見当らない」(同書)とのべている。「現在の殿の所に神祀る御獄がなければならない」のにである。

 ただし、「大ウスクガジマルの根元を円形に石積みで囲った…場所には神骨が大切に隠されていると云う。いわば神坐(イマ)すところということになる。したがって殿(現在)からの東方拝は、ここ大ウスクガジマル根元に居られる神への遙拝ということになる」と仲松氏はのべている。

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 つまり、殿の近くに御獄はないが、骨神があり、そこに神がいるとして遙拝しているという説明である。奇妙というのは、現地を見る限り、「神庭之殿」から数㍍離れた北側のガジュマルの根元には「骨神」だけでなく「大井之御獄」がある。この御獄こそ「神の坐すところ」ではないのだろうか。この御獄はどう位置付けられるのだろうか。

     さらに不思議なのは、「神庭之殿」が「大井之御獄」や「骨神」よりも高い場所にあることだ。普通、高い場所から下方を見下ろして祈願するというのは考えにくいからだ。しかも、「御獄」は北に向かって拝む配置であるが、「殿」は南に向かって拝むようになっている。つまり「御獄」と「殿」は背中合わせのような配置になっている。素人目には、見れば見るほど、疑問がわいてくる大井の上だった。

 

なお、『豊見城村史』では、「『由来記の中にも御獄はないが、真玉橋は嘉数、根差部、金良、長堂と共に長嶺城の嶽を拝むのであるが、これは長嶺按司の管下にあったためである。それで嶽は仕立てなかったのだろう」と記している。

 

2013年5月 7日 (火)

真玉橋の拝所、「大井の上」

聖地らしい真玉橋の拝所

 

「大井の上」
 わが家の近くに、国場川にかかる真玉橋(マダンバシ)がある。国場川が狭くなった場所なので、1522年、尚真王の時代に木橋の真玉橋が架けられた。その後、尚貞王代の1708年に木橋を石造りの橋に改修、1836年尚育王代にも2度の改修がされたという。その橋の南側に真玉橋村落が形成された。「真玉橋」は、橋の名前であり、集落の名称でもある。 

 真玉橋は国道329号のバイパスが通っていて、いつも車で通っているところだ。先日、毎月通っているアルテの三線仲間で、歴史や民俗に詳しいTさんが「真玉橋には、バイパスができたとき、その地にあった御獄(ウタキ)や井戸を移転した立派な拝所が、交差点のすぐ近くにありますよ」と教えてくれた。
 
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 近くなのでさっそく、見に行った。バイパスの真玉橋交差点のすぐ南側にある。

                           

 

 「大井の上」と呼ばれるこの場所は、木立に囲まれ、公園のように整備されている。
 
 その中にたくさんの拝所が配置されている。
 
 この地は「村落として重要な聖地ここには御獄、骨神、地頭火の神、井(産井)ウスクガジマルの根元を円形に石積みで囲み廻した場所、大切に隠された骨神がある」。『真玉橋拝所整備移転建立記念』冊子でこう記されている。

 なるほど、入口のそばには立派な井泉、「大井」(ウッカー)がある。鉄柵で囲われているが、覗くときれいな水をたたえている。俗に産井(ウブガー)ともいう。

「お正月になれば各家庭から若水を汲みに来て各自持ち帰り仏壇、神棚、火の神に供える習慣があった。大井の水を飲むと若くなるとの言い伝えがある」(同冊子)

最近も、だれか拝みに来たのか、井戸の縁にお塩が盛られている。
 
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この「大井」の上に、大きなガジュマルの木を囲んだ円形の石積みがある。その根元の南側に「大井之御獄」の碑がある。「村落として重要なる聖地」である「大井の上(御獄)」では、村落としての大事な祭祀が行われきた。

旧6月26日は、「チジの願い」といって神人(今は区長)を先頭に部落内の拝所を巡拝して、この大井の上広場で、「全住民参加のもとで、これまで出生児、15歳になった男子、結婚の報告をなし、人口の年齢別数の披露などされた」(『真玉橋の聖地と祭祀』)。

旧12月には、「御願解(ウグヮンブトゥチー)」がある。一年中祈願してきた神々に感謝して願いを解き、来年の祈願を12月24日までにする。Img_2220_2

大井の上で「お願立をした過去一年に対する感謝を含め解きお願いを祈願、健康と五穀豊穣を願いつつ村落の発展を取り行う願いの行事」が行われた(移転記念冊子)。

円形の石積みの北側には、「骨神(フニシン)」の碑がある。この「骨神」は何を祀っているのだろうか。「聞くところによるとそこのフニシンは真玉橋架橋工事のときの事故死亡者を祭っているということである」(『真玉橋の聖地と祭祀』)。Img_2209

 300年余の昔、大きな国場川に石橋を架けるさい、大雨で橋脚が流され、工事がはかどらず、人柱をたてた有名な伝説がある(ブログ内に「真玉橋の人柱伝説」をアップしてある)。犠牲者も出だのだろう。 

円形の石積みのそばに、「地頭火の神」がある。立派な建屋に納められている。

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「地頭火の神」とは、「火の神を管理する人地頭(位階)を賜う首里王府から派遣された役人」(移設記念冊子)のことをいう。つまり、「火の神」は各家庭にもあるが、ここは「村を領する地頭に付いている火の神」ということらしい。

 

次にふれる「殿」での祭祀を行う前には、地頭火の神を拝するものであり、「殿」のそばにあるのが普通だとのこと。そういえば、そのすぐ南側に「殿」がある。

 

2013年5月 4日 (土)

「ジョン万次郎の歌~忘れはしない肝心(ちむぐくる)~」できる

 ジョン万次郎をテーマとした歌「ジョン万次郎~忘れはしない肝心(ちむぐくる)~」ができて、ラジオではもう流れ出した。
 

 沖縄フォーク歌手の、かでかるさとしさん作曲、歌詞は日高博さん。歌うのは、三田りょうさん。三田さんは、沖縄によく来て、ラジオ番組ももっており、ファンが多い。

 

 歌は、土佐の漁師だった万次郎が、遭難して助けられ、アメリカに10年間いて、日本に帰る際、琉球に上陸し、いまの豊見城市翁長に半年間滞在した。その後、土佐に帰り、江戸幕府にも取り立てられた。幕末の日本に、最新の西洋事情や民主主義の政治制度・思想を伝え、幕末の志士や日本の開国にも大きな影響を与えた。その万次郎の人と歩みのエッセンスを歌詞としている。Photo_2
           中浜万次郎

 

 曲は、フォーク調で、とてもノリもよく、わかりやすい。三田さんは、もともとはフォークソングを歌っていたとか。CDは、高杉晋作の歌~ああ青春奇兵隊~」とカップリング。ジャケットのイラストは、かでかるさんによるもの。

  歌詞は以下のような内容である。

「ジョン万次郎の歌 忘れはしない~肝心(いむぐくる)~」

 

 歌 三田りょう 作曲 かでかる さとし 日高博作詞

 

1、土佐の男は「いごっそう」、黒潮育ちの万次郎。
  

 
14の時に海に出て 嵐に遭って流されて
 
助けられたが捕鯨船 自由あふれるアメリカへ。

 2、ジョン万と呼ばれ、学ぶ日々、首席で卒業、万次郎。
 七つの海をめぐりつつ 瞼にうかぶは、土佐の母。
 
あふれる知識を身につけて、ふるさと帰ると決めたのさ

 3、 鎖国ニッポンそれならば、琉球めざす万次郎。
 アレに見えるは糸満の、白波上げる小渡(うどぅ)の浜。
 
ふるさと離れて10年目、たどり着いたは豊見城(とみぐすく)。

 4、島の人々優しくて、ここでも人気の万次郎。
 
三線の音(ね)に誘われて、夜が明けるまで、毛遊(もーあし)び。
ここも俺のふるさとよ、忘れはしない、肝心(ちむぐくる)。

 5、坂本龍馬も驚いた、スゴイ男よ万次郎。
 アメリカ帰りのあの男 世界のすべてを知っている。
 
幕末動乱、夜明け前 時代がお前を待っていた。

  新しい ニッポンの礎(いしずえ)築いた 万次郎。
 
その名は中濱万次郎。 

Photo_2

 2013年7月7日に、豊見城市中央公民館で「とみぐすくカラオケサークル仲間達結成20周年、平成24年度沖縄県文化協会賞団体賞受賞記念発表会」と「三田りょう新曲発表会」を兼ねて開催され、そこで披露される。

 豊見城カラオケサークルの会長が、沖縄ジョン万次郎会事務局長であり、会員も重なっている人が多いので、こういう形式の集いになった。会費3000円(新曲CD1200円込み)である。 

 すでに県内では、RBCラジオの「団塊花盛り」などの番組で新曲が流されている。カラオケDAМでも、配信されている。

 高知では、ジョン万次郎のNHK大河ドラマ化を求める100万人署名運動も取り組まれているそうだ。

 この歌も、みんなに愛されて、万次郎ブームを沖縄でも高知でも、全国でも盛り上げるうえで大きな役割を果たすことを期待したい。

 

万次郎のことを詳しく知りたい方は、「沖縄で愛される中浜万次郎」をアップしてあるので、そちらを見ていただきたい。

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