真玉橋の拝所、「大井の上」
聖地らしい真玉橋の拝所
「大井の上」
わが家の近くに、国場川にかかる真玉橋(マダンバシ)がある。国場川が狭くなった場所なので、1522年、尚真王の時代に木橋の真玉橋が架けられた。その後、尚貞王代の1708年に木橋を石造りの橋に改修、1836年尚育王代にも2度の改修がされたという。その橋の南側に真玉橋村落が形成された。「真玉橋」は、橋の名前であり、集落の名称でもある。
真玉橋は国道329号のバイパスが通っていて、いつも車で通っているところだ。先日、毎月通っているアルテの三線仲間で、歴史や民俗に詳しいTさんが「真玉橋には、バイパスができたとき、その地にあった御獄(ウタキ)や井戸を移転した立派な拝所が、交差点のすぐ近くにありますよ」と教えてくれた。
近くなのでさっそく、見に行った。バイパスの真玉橋交差点のすぐ南側にある。
「大井の上」と呼ばれるこの場所は、木立に囲まれ、公園のように整備されている。
その中にたくさんの拝所が配置されている。
この地は「村落として重要な聖地ここには御獄、骨神、地頭火の神、井(産井)ウスクガジマルの根元を円形に石積みで囲み廻した場所、大切に隠された骨神がある」。『真玉橋拝所整備移転建立記念』冊子でこう記されている。
なるほど、入口のそばには立派な井泉、「大井」(ウッカー)がある。鉄柵で囲われているが、覗くときれいな水をたたえている。俗に産井(ウブガー)ともいう。
「お正月になれば各家庭から若水を汲みに来て各自持ち帰り仏壇、神棚、火の神に供える習慣があった。大井の水を飲むと若くなるとの言い伝えがある」(同冊子)
最近も、だれか拝みに来たのか、井戸の縁にお塩が盛られている。
この「大井」の上に、大きなガジュマルの木を囲んだ円形の石積みがある。その根元の南側に「大井之御獄」の碑がある。「村落として重要なる聖地」である「大井の上(御獄)」では、村落としての大事な祭祀が行われきた。
旧6月26日は、「チジの願い」といって神人(今は区長)を先頭に部落内の拝所を巡拝して、この大井の上広場で、「全住民参加のもとで、これまで出生児、15歳になった男子、結婚の報告をなし、人口の年齢別数の披露などされた」(『真玉橋の聖地と祭祀』)。
旧12月には、「御願解(ウグヮンブトゥチー)」がある。一年中祈願してきた神々に感謝して願いを解き、来年の祈願を12月24日までにする。
大井の上で「お願立をした過去一年に対する感謝を含め解きお願いを祈願、健康と五穀豊穣を願いつつ村落の発展を取り行う願いの行事」が行われた(移転記念冊子)。
円形の石積みの北側には、「骨神(フニシン)」の碑がある。この「骨神」は何を祀っているのだろうか。「聞くところによるとそこのフニシンは真玉橋架橋工事のときの事故死亡者を祭っているということである」(『真玉橋の聖地と祭祀』)。
300年余の昔、大きな国場川に石橋を架けるさい、大雨で橋脚が流され、工事がはかどらず、人柱をたてた有名な伝説がある(ブログ内に「真玉橋の人柱伝説」をアップしてある)。犠牲者も出だのだろう。
円形の石積みのそばに、「地頭火の神」がある。立派な建屋に納められている。
「地頭火の神」とは、「火の神を管理する人地頭(位階)を賜う首里王府から派遣された役人」(移設記念冊子)のことをいう。つまり、「火の神」は各家庭にもあるが、ここは「村を領する地頭に付いている火の神」ということらしい。
次にふれる「殿」での祭祀を行う前には、地頭火の神を拝するものであり、「殿」のそばにあるのが普通だとのこと。そういえば、そのすぐ南側に「殿」がある。
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