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2013年6月

2013年6月30日 (日)

農民にとっての会津戦争、その5

藩崩壊で「世直し一揆」勃発

会津藩が降伏してからわずか10日後、1868年11月16日、会津藩の重税に苦しめられていた農民が、会津領内の各地で一揆を起こした。「会津世直し一揆」である。農民は「ヤーヤー」と言いながら、打ち壊しを行ったため、「ヤーヤー一揆」「ヤアヤア一揆」とも呼ばれる。

会津の農民は、かねてからの重税や物産の専売制度による搾取に加え、藩主松平容保が京都守護職として上洛して以来、会津藩は多大な財政負担を強いられていた。藩は農民に重い税金を課して負担を押し付け、農民に恨まれていた。

うっ積していた不満は、会津が降伏して新政府軍の領内統治が始まったことを契機に、各所で勃発した。数万人の農民が立ち上がった。

新政府による暫定的な行政が始まっても、村々の支配は従来の村役人に当面任せることとしていた。これまで会津藩政の支配の末端を担った村役人を、排斥するように求める農民たちの動きが各地で高まり、会津若松から遠い大沼郷で一揆が勃発した。以後、領内各地に波及していった。

「彼らは、村役人を村人による入札(選挙)によって選出すること、検地帳・年貢帳・分限帳の破棄(藩による土地支配の否定)・専売制の廃止及び戦乱を理由とした当面の年貢免除(生活再建策)、質物帳の破棄(返済不能になっていた負債の破棄)と小作料の廃止(地主による土地支配の否定)、労働力の徴発の廃止などを要求して各地の村役人や豪商の屋敷や家財道具を打ちこわし、帳簿類を焼き捨てた。15日には北会津郡と河沼郡、16日には耶麻郡、28日には南会津郡で一揆が発生、以後まる2ヶ月間にわたって各地で打ちこわしが続いた」(ウィキペディア「会津世直し一揆」から)。

一揆に参加した農民の要求は多くが実現することになったという。

会津藩の松平容保をはじめ家臣たちは、農民にとって、自分たちの暮らしや生命と安全を守ってくれる存在というよりは、農民たちを抑圧し、重い年貢を課して搾りとるばかりの権力者に過ぎなかった。
 
 それに加えて、会津の領地と民百姓よりも、徳川幕府に忠誠をつくすことが最優先され、過重な負担を押し付けられ、領民がだれも望まない戊辰戦争に引き込まれ、あげくには、新政府軍の進攻によって、郷土が戦場となり、最悪の結果を招いた。積もり積もった不満が、一揆となって噴出したといえるだろう。

 沖縄では、会津戦争にかかわる史料類も乏しいので、ネットで紹介されている以下の史料を使わせていただいた。

「戊辰戦争百話 第95話・ウイリス博士の見た戊辰戦争」 『英国公使館員の維新戦争見聞録』(中須賀哲朗訳)、「板垣退助が語った会津戊辰戦争――平石弁蔵著『会津戊申戦争』序文」(「大山格HP」)、ウィキペディア「会津世直し一揆」、「農民の反抗(戊辰戦争速記録)」(「あらすじと犯人のネタバレ」)。

書籍では、宮崎十三八編『妻たちの会津戦争』、『板垣退助君伝記第一巻』(宇田友猪著 公文豪校訂)『戊辰戦争全史上、下を参考にした。

2013年6月29日 (土)

農民にとっての会津戦争、番外編

農民が軍に協力した庄内藩

「板垣退助の見た会津藩」で、会津藩では、武士は安楽な生活を独占し、上に立つ者とその下にある者の心が離れて、藩が滅亡の危機にあったも、藩主の恩に酬いようとする気持ちがなく、知らぬ振りをして、逃げるばかりだと紹介した。
 
 ただし、他の藩も同様ではないかと書いておいた。ところが、会津藩と同じく新政府側から「朝敵」とされた庄内藩は、会津藩とは事情が相当に異なっていたという。

庄内征討を決定した新政府軍は、新庄から庄内地方に流れ込む最上川を下り、東の境にあたる清川附近に攻め入ろうとした。当時、清川には庄内藩の正規兵と農兵合わせて4百名余りが配備されていた。はじめのうち、戦況は圧倒的に新政府軍に有利に展開した。だが、時間とともに反撃の効果が出始めた。「そうしたところへ、近隣の多数の農民たちが庄内軍に協力、旗や幕を持ち出して総督府軍(新政府軍)の背後の山に登り、大声をあげて驚かせた」。庄内軍の増援も到着し、新政府軍はとうとう撤退した(『戊辰戦争全史上』)。

庄内藩では、農民が農兵として陣営に加わるとともに、武士と心を合わせて、農民らしい戦術で敵側を驚かせて、庄内軍に協力してたたかったことがわかる。庄内藩は最後まで、領地への新政府軍の侵入を許さなかった。

なぜこうしたことが起きたのだろうか。そこには、藩主・家臣と領民の固い結束があったようだ。

庄内藩は、幕府による転封が一度もなかった数少ない大名の一つ。「藩政改革(18世紀)以後、領民を手厚く保護する政策が基本姿勢となり歴代藩主はこれを踏襲した。領民もこれに感謝の念を抱いていた」という(ウィキペディア「庄内藩」)。

 藩主・家臣と領民の関係を考えるうえで、興味深い話である。

2013年6月27日 (木)

壮観、満開のサガリバナ

真夜中に咲く幻想的な花サガリバナが、満開だ。ここは、首里城の東側、首里鳥掘町。赤田の交差点から入った公民館バス停前。先日、崎山にあるアルテに行った際、近くを散歩していて、サガリバナの街路樹を発見した。

Img_2731 その時、ツルがたくさん下がっていたけど、つぼみばかりだった。
 昨夜は、午後10時過ぎにアルテまで行った帰りに「もう咲いているはずだ。ぜひ見たい」と思って行ってみた。Img_2735
 車を止めると、もう強烈な甘い香りが漂っている。花は、ライトアップされていない。わが家から、懐中電灯を持参していたので、照らしてみると、その凄さよ。圧倒されそうだ。狂おしいほどに咲き誇っている。

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 これほどのサガリバナは見たことがない。和名は、サワフジという名の通り、熱帯、亜熱帯では湿地に自生する。鳥掘町は高地にあるけれど、見事に育っている。

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 不思議なのは、これほど満開なのに、見ている人が誰もいないこと。この付近では、日常の風景で、さほど珍しくもないということか。

そういえば、ライブ常連のKさんも「サガリバナってどこに咲いているの? 見たことないよ」という。
 サガリバナは、日本では、奄美諸島から南で咲く。島ナイチャーにとっては、物珍しいけど、ウチナーンチュにとっては、当たり前の風景なのだろうか。Img_2732 この蕾を見ると、まだまだ毎日、夏の夜、花の競演を繰り広げるだろう。



 

2013年6月26日 (水)

「艦砲ぬ喰ぇー残さー」歌碑を訪ねる

反戦島唄の傑作 「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の歌碑が完成し,「慰霊の日」の6月23日、除幕式が行われた。さっそく25日に訪ねた。

Img_2706 歌碑は、この曲を作詞作曲した比嘉恒敏さんの出身地、読谷村楚辺の海辺の「ユーバンタ」広場に建てられた。比嘉さんがよくこの浜で三線を弾き歌っていたと聞く。
 
 歌碑は、昨年3月発足した実行委員会がコンサート開催、募金集めをし、村や楚辺区などの支援を受け、1280万円を集めた。

Img_2707 歌碑は、山並みを思わせる自然石に曲の歌詞と和訳が刻まれた石板が取り付けられている。これほど見事な歌碑は、県内でも屈指のものだ。後世にこの歌を伝えたいという気持ちがとても込められている。Img_2708

 
 

 私たちより前に、女性3人のグループが来ていた。「民謡をやっているんですか」と尋ねると「いえ。この歌碑ができたので見に来たんですよ。歌ってみたいですね」とのこと。女性たちは「この歌詞に書かれているとおりだったんですよ」と沖縄戦と戦後の県民の苦難を歌った歌詞に共感していた。

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 作者の恒敏さんは、沖縄戦で家族を失いながら、自分は生き抜いて、娘4人で民謡グループ「でいご娘」を結成して、活動していた。だが、米軍の車両に衝突され、亡くなった。

 
 「でいご娘」の4人は、歌碑建立に奔走してきた。だれよりも碑の完成を喜んでいるだろう。

Img_2679_2 除幕式では、碑の前で「でいご娘」と子ども会が合唱した。その場には行けなかったので、写真はNHKテレビ画面から借用した。
 実行委員長の池原玄夫さんが「世界に戦争の悲惨さと平和の尊さを発信する祈念塔になってほしい」とあいさつした。
 恒敏さんの長女、艶子さんは「この歌がみんなの歌になり、世界中に戦争がないように歌い継ぎ、語り継いでほしい」と話した(「琉球新報」6月24日付)。

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 歌碑の横には、沖縄戦とこの曲についての説明板も設置されている。米軍は、読谷や嘉手納にあった日本軍の飛行場の攻略を目指して、読谷村から北谷町にかけての海岸に大挙押し寄せて、上陸した。
 Img_2711 歌碑には、多くの人が訪れてほしい。

追記

「艦砲ぬ喰ぇー残さー」とは、沖縄戦で米軍の激しい艦砲射撃で幸い「喰い残された」、助かった県民のことを表現している。この曲は、そんな県民の戦後の米軍統治下の苦難のあゆみを描きながら、親兄弟らの命を奪い、郷土を破壊した戦争を憎み、平和の大切さを歌っている。

 歌詞と和訳の内容は、アップしている写真をクリックして拡大すると読めます。

 この曲と比嘉恒敏さんのことについて、このブログで何回か書いてきたので、そちらを合わせてお読みいただければ幸いです。

2013年6月25日 (火)

農民にとっての会津戦争、その4

逃げ惑う武士家族にも冷淡?

農民と会津藩との関係では、藩主・家臣に対して冷淡だっただけではなく、武士の家族にも、やはり同じような冷たい対応があったという。

 新政府軍が若松城下に攻め入ったさい、武士の母、妻、子どもら家族は、過酷な事態に直面した。女性たちの中には、城内に入り、戦闘に参加した人たちもいた。
 だが、女子は戦闘の足手まといになり、食糧を減らすだけだと城内には入らない家族も少なくなかった。城門が閉ざされ入りたくても入れない人たちもいた。

 家族たちは、迫る新政府軍を前に危地にたたされた。武士道の精神を叩き込まれた家族たちは、捕虜になり辱めを受けること嫌い、家族そろって自害に追い込まれた。戦禍を逃れて避難民となって安全と考えた北の方に逃げて行く家族も多かった。

 「勢いにのった西軍は一気に若松城下へ侵入してきた。この際、武家階級の婦女子は入城したり、郊外へ避難した者もいるが、自刃した者は二百余名にのぼるという」。『戊辰戦争全史下』でもこう記している。
 
 避難民たちが、各所の農家に一夜の宿を依頼しても、係り合いになるのを恐れて断られた例が少なくない。やっと一軒家を見つけて泊めてもらうと、法外な礼金を請求されたなどの例もあった。

 農家が泊めるのを断ったのには、新政府軍が「藩の縁故の者を泊めた者は、厳罰に処す」という布告を出していた。だから、会津藩に恩義のある農民でも、恐れを抱くのは当然のこと。一夜、宿に泊めてもらうのも容易ではなかった。

 それに加えて、日ごろ圧迫されてきた人たちには、屈折した心理がある。

宮崎十三八編『妻たちの会津戦争』は、次のように解説をしている。

敗残の会津上級武士の家族が逃げ惑う姿を思う時、「哀れ」などと言うものを通りこした、「凄惨」なものすら感じられます。

会津北方の農民たちが、それでは冷酷無情、強欲な人たちであったのかと言えば、必ずしもそうではない多くの記録も現存しています。

「被支配者として、長い間抑圧に馴らされ続けてきた農民の心理が、時の支配階級に対して敏感に反応した現実的な農民の姿」

このように見るのが、もっとも妥当かも知れません。

2013年6月24日 (月)

農民にとっても会津戦争、その3

責任をとらない藩主に失望

会津藩が新政府軍に降伏し、藩主松平容保(マツダイラカタモリ)や家老たちも囚われの身となった。領主と家臣、武士階級とその家族にたいして、民百姓の見る視線は、かなれ冷たかったという。

イギリス人医師ウィリアム・ウィリスは、若松城の明け渡しのあと、囚われの身となっていた会津候父子と家老たちが、江戸に向かうところを目撃した。

「護衛隊の者をのぞけば、さきの領主である会津候の出発を見送りに集った者は十数名もいなかった」「いたるところで、人々は冷淡な無関心さをよそおい、すぐそばで働いている農夫たちでさえも、往年の誉れの高い会津候が国を出てゆくところを振り返って見ようともしないのである。武士階級の者のほかには、私は会津候にたいしても行動を共にした家老たちに対しても、憐憫の情をすこしも見出すことができなかった。一般的な世評としては、会津候らが起こさずもがなの残忍な戦争を惹起した上、敗北の際に切腹もしなかったために、尊敬を受けるべき資格はすべて喪失したというのである」(『英国公使館員の維新戦争見聞録』)

なぜ冷淡だったのか。そこには、日ごろの耐えがたい重い負担への不満もあるだろう。それに加えて、対応次第で避けられたはずの会津戦争を引き起こし、敗北をしても藩主が責任をとらなかったために、失望を与えたという。

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                               磐梯山

板垣退助は、藩主と農民の関係について、強い印象に残ったエピソードを紹介している(「板垣退助が語った会津戊辰戦争――平石弁蔵著『会津戊申戦争』序文」)。

「城が落ちて藩主の松平氏が降伏して寺院で謹慎していると、一人の農民が自分で作ったサツマイモを持参しこれを藩主に献上したいと願って取り次ぎを番兵に求めたと、藩のみながこれを私に美談として伝えた」。庶民はみんな荷物を背負って逃げ散り、少しも歴代藩主の恩に酬いようとする気持ちがない。「今たった一人の農夫がサツマイモを献上するなどは、特に言うべきことではない」

「(農夫が芋を献上した話を聞き)これ洵(マコト)に嘆息すべきの次第だ。苟(イヤシ)くも彼れ農夫を見て、国士と為さんか。国は亡び、家は破れ、君主面縛して降伏する時に於て、一死以て恩に酬ゆる猶ほ足らざるを覚ゆるのに、何ぞや一籠の煨芋(ワイウ)を見て、直ちに感賞して措かざるとは、吾輩遂に其理由を知るに苦しまざるを得ない」(『板垣退助君伝記第一巻』)

つまり、農民たちは、国は亡び、家は破れ、君主は囚われ降伏するという一大事にあって、歴代藩主の恩を強く感じていれば、身を捧げても恩に酬いてもまだ足りないくらいだ。それなのに、ひと籠のイモを献上してきたからといって感激するようなことだろうか、と強い疑念をのべている。

このイモ献上の逸話は、逆に見れば、藩主にたいする農民の思いがいかに薄かったのかを表しているということだろう。

2013年6月23日 (日)

68年目の「慰霊の日」

 沖縄戦で日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日「慰霊の日」がことしもめぐってきた。68年目にあたる。テレビやラジオ、新聞でたくさんの戦争体験が語られ、後世に伝えようという気運は強い。

 これらを見ていると、同じ15年戦争、太平世戦争を体験した日本国民であっても、沖縄と大和では、その体験には質量ともに圧倒的な違いがある。

 わたしの子ども時代も、まだ戦地から引き揚げた軍人がいた。叔父も日中戦争で戦死している。空襲の体験者もいた。大人たちの話を聞くこともけっこうあった。しかし、田舎住まいだったということがあるかもしれないが、戦争の悲惨さがリアルの語られることはあまりなかった。原爆を落とされた広島、長崎や東京など大都市の空襲の体験、中国東北部(満州)の敗戦の体験などは別として、肌で感じるような戦争体験には乏しいところがある。戦争といっても、映画やテレビの映像、本や新聞、雑誌で見たり読んだりしたことを通じて頭に刻み込まれたものが多い。Photo_2


               陸軍病院山城本部豪

 日本で唯一、住民を巻き込んだ大規模な地上戦がたたかわれた沖縄の実相から見れば、、それらは戦争のごく一面でしかない。
 郷土が戦場となった沖縄では、県民の4人に1人が犠牲となった。「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の艦砲射撃、爆撃によって、肉親、友人が無残に殺された。肉体が飛ばされ、砕け散る。それを眼の前で見た。一家全滅という家族も多い。

 それけだでなく、日本軍による避難先のガマからの追いだし、食糧の強奪、「集団自決」の強制、スパイと疑っての虐殺など。友軍と思った軍隊が鬼と化した。
 日本軍がいたために戦場になり、陣地があったために、攻撃の対象にされ、自決強制も起きた。軍隊は国を守らないという実際の姿が、県民の目に焼きついた。これらは、沖縄県以外では、絶対に語られない戦争体験だろう。

 「ひめゆり」に代表される女子学徒隊の、負傷者への看護や死体の処理、砲弾の降る中での食料の運搬…。あげくには、戦場に投げ出され、砲弾に倒れたり、「集団自決」に追い込まれた。

 動けない年寄り、負傷者を生き延びるために身捨てざるをえなかった人。「集団自決」で肉親を手にかけた人。長男を守るために女の子を捨てざるを得なかった母。県民みずからも、戦争の渦中では人間が人間でなくなる極限状態を体験した。地獄のような地上戦だからこそ、起きたことだ。Photo          激戦の前田高地に建つ平和之碑

 生き残った人々も、悪夢のような戦争のトラウマに苦しみ続けている。
しかも、戦後も広大な米軍基地が存在し、海外の戦場と沖縄は直結されてきた。戦争の悲惨さを忘れようとしても、米軍の軍用機や砲撃、軍用車を見聞きするたびに、よみがえる。沖縄では、戦争は過去のことではない。

 大和では、戦争体験の風化が叫ばれている。だが、沖縄の体験は、身の毛もよだつような戦争の惨状と理不尽さ、戦争と軍隊の真実を生々しく伝えてくれる。それを、子や孫、ひ孫らの世代に継承させようという県民の努力は、頭が下がるほどだ。二度とこんな悲惨な戦争は絶対に繰り返してはならないという県民全体の深い共通認識がある。そんなことを改めて痛感する「慰霊の日」である。 

2013年6月22日 (土)

農民にとっての会津戦争、その2

板垣退助の見た会津藩

戊辰戦争で東山道総督府の参謀をつとめ、薩摩の伊地知正治とともに、四千ほどの勢力で会津に侵入した板垣退助にも、合津藩の様相は驚きを与えた。
 
 「会津は天下屈指の雄藩であるから…急いで攻めて城を落とそうと、すなわち邁進したが、意外なことに、籠城していたのは士族出身者だけであり、一般の人民は知らぬ振りで戦争に拘わらない様子であった」(「板垣退助が語った会津戊辰戦争――平石弁蔵著『会津戊申戦争』序文」「大山格HP」から)。


 
 会津藩の未曾有の危機にあっても、「一般の人民は知らぬ振りで戦争に拘わらない様子であった」という。ただし、日本の戦国時代以来の城は、どこでも武士が戦うための軍事的な砦であるが、領民を保護する役割はもたない。だから籠城していたのは士族出身者だけというのは、当然のことかもしれない。

『板垣退助君伝記第一巻』(宇田友猪著 公文豪校訂)では、次のように記している。

「会津は天下屈指の雄藩である。政善く民富んで居る。若し上下心を一にし、力を戮(ア)わせ国に尽くしたならば、我三千未満の官軍だけで、どうして容易に之を降すことが出来ようぞ。唯だ此上は若松城下を墳墓と心得て斃れて後ち已むの外ないと覚悟した。然るに漸く馳突して其境土に臨んで見ると、豈(ア)に科らん一般の人民は妻子を伴ひ、家財を携へ、尽く四方に逃げ散り、一人の来って我に敵する者がないばかりか、漸次翻って我手足の用を為し、賃銀を貪って恬として恥ぢざる有様となった。予は深く其奇観なるを感じ、今日に至るまでも牢記して忘れなかった」

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                猪苗代湖

「板垣退助が語った会津戊辰戦争――平石弁蔵著『会津戊申戦争』序文」に、同じ趣旨のことが現代語訳で掲載されているので、それを合わせて紹介する。

「もし上に立つ者とその下にある者が心を一つにし、力の限り藩に尽くせば、僅かに五千に満たない我が官軍がどうして容易に会津を降伏させることができよう。しかもこのように庶民が戦火を避けて荷物を背負って逃げ散り、少しも歴代藩主の恩に酬いようとする気持ちが無く、その滅亡を目の前に見て知らぬ振りをするように見えるのは果たしてどんな理由からであろうか」


 
 「もし彼らが真に藩から受けた恩を考えたなら、…会津全土の民が喜んで生命を犠牲にしてきっと自分の国を死守するであろう。ところがこのように一般人民に愛国心がない理由は、つまり身分の上と下が心が離れ、士族たちが楽な生活を独占し、平素にあって人民と分かち合わなかった結果に外ならない。安楽を共にしない者はまた苦難を共にすることが出来ないのは、理の当然であり、天下の雄藩たる会津にしても同様であって、言うまでもなく他の諸藩に於いても例外はない」

武士階級が民百姓から搾れるだけ搾りとり、安楽な生活を独占してきた結果、藩の上の者と下の者の心は離れて、藩が苦難に遭っても、「知らぬ振り」をして、戦禍を避けて逃げるばかりとなっていたのだろう。ただ、多少の差はあっても、「他の諸藩」でも農民の年貢は重く、同様の実情にあったのではないだろうか。

2013年6月21日 (金)

農民にとっての会津戦争、その1

 

 徳川幕府に最後まで忠誠をつくし、戊辰戦争で悲惨な結末を迎えた「会津藩の悲劇」を書いてアップした。関連資料を読んでいると、武士階級・家族が多大な犠牲を被った一方で、領内の農民・百姓は敗北した藩主や武士・家族たちに、冷ややかだったという話をいくつか聞いた。それは何故なのだろうか? その背景になにがあったのか、少し紹介したい。

 

重税で苦しめられていた会津農民

会津藩は、領主・松平容保のもとで、倒幕派の志士たちが集まる京都の京都守護職に就いた。幕府と長州・薩摩軍による鳥羽伏見の戦いが始まると、会津は朝敵の汚名を着せられた。将軍である徳川慶喜が江戸城を明け渡し、恭順の意を示して将軍の地位を退いてのち、会津の地は新政府軍による侵攻をうけ、降伏と悲劇的な結末を迎えた。

そのような、幕末の会津藩で、民百姓がどのような状態にあったのか。実際に現地で見聞した外国人の記録がある。新政府軍と行動をともにしたイギリス人医師ウィリアム・ウィリスの証言である(『英国公使館員の維新戦争見聞録』)。

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                      鶴ヶ城

イギリス人医師の証言

「残念ながら、会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。今後十年二十年に返済するという契約で、会津の藩当局が人民に強制した借款についての話がたくさんあった。会津の国の貧しさは極端なものである。家並は私が日本のどこで見たものよりもみすぼらしく、農民も身なりが悪く、小柄で、虚弱な種族であった。この国で生産される米はみな年貢として収めなければならなかった」

「戦争で破壊されるまえの若松とその近郊には、三万の戸数があり、そのうち二万戸には武士が住んでいて、あらゆるものがこの特権階級の生活を維持するために充当されたり税金をかけられたりしたということだ」

もともと農民は、藩財政と武士階級の生活を支えるために、重い年貢に喘いでいた。そのうえ、京都守護職に就任すると、さらに重い負担が加わった。日本の他の地方で見るよりも農民の家はみすぼらしく、身なりも悪く、「貧しさは極端なもの」だったという。「生産される米はみな年貢」として、納めさせられた。

徳川時代の農民への搾取は、どの藩でも厳しかったけれど、会津藩は、特に過酷だったようだ。

こうした圧政のもとでは、藩の領主、家臣と支配された民百姓とでは、おのずと会津戦争に遭遇しても、これへの対応と見る目には、大きな落差があった。

2013年6月18日 (火)

琉球史書『中山世鑑』の謎

琉球史書『中山世鑑』の謎

 

琉球王府の最初の史書『中山世鑑』は、1650年に羽地朝秀(向象賢=ショウジョウケン)によって編纂された。琉球の歴史を研究する上で欠かせない史書である。

『中山世鑑』が書かれた目的は、後世の君臣がこれを鑑として、有益に活用すること、同時に、第二尚氏王家の王位継承の正当性と血筋の聖性を述べるためであったという。

この史書は、諸見友重訳注で『訳注 中山世鑑』が出版されており、われわれのような素人もとっつきやすい。

王府の正史でありながら、この史書には奇妙な謎がある。それは、第二尚氏の三代目国王である尚真王の事績の部分が欠落していることだ。尚真王は、父尚円王が打ち立てた王統を引き継ぎ、50年にわたる治世のなかで、中央集権制を確立し、地方に割拠していた按司(豪族のような存在)を首里に集め住まわせ、武装を解除して、武器は王府が一括管理した。琉球王朝の黄金時代を築き、以後王朝が三百年以上にわたり存続し発展する基盤を確立した。第二尚氏の王統のなかで、もっとも重要な国王である。

世鑑は、国王の事績を一人一人記しており、第二尚氏では、尚円王からはじまり、わずか半年で退いた尚宣威(ショウセンイ)王も記述しながら、尚真王は飛び越して、4代目の尚清王に移っている。まさに画竜点睛(ガリョウテンセイ)を欠く。

この史書の最大の謎である。いまだ、この謎は解明されていない。

 

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                      首里城瑞泉門

「多くの資料を駆使して編纂された世鑑だが、その内容は未完成である。もっとも大きな問題は、総論では尚質までの記述をしているにもかかわらず、当代尚質は別にして、尚真、尚元、尚永、尚寧、尚豊、尚賢の王紀がないことである。

 殊に、尚清王紀がありながら、その父である尚真王紀が欠落していることが、大きな謎となっているのは前述のとおりである。最初から書かれなかったのか、或いは隠滅若しくは欠落したのか、全く不可解なことである」

 訳注者の諸見友重氏は、こう指摘している。

この謎について、沖縄学の大家、東恩納寛惇氏は、向象賢が尚真王によってなきものにされた尚維衡(ショウイコウ)の血筋にあたるので、あえて排除したと推測している。

これは、尚維衡が尚真王の長男で、本来国王を継ぐ立場にあったが、父、尚真に追放され、浦添城に隠居した。異母の讒言があったともいわれる。尚維衡に代わって、第五王子だった尚清が即位した。向象賢は、この尚維衡の血筋に当たるので、尚真王の王紀を排除したのではというのが、東恩納氏の推測である。

何か、そんな背景がありそうな推理もしたくなる。でも、この推測には大きな難点がある。それは、世鑑が「琉球国中山王世継総論」では、尚真王について簡潔ながら正当な評価をしているからだ。
 
「尚真公は、生来天子の徳があり、よく父王の志と偉業を継ぎ、治世の全てにおいて至らないものはなかった。人として謙虚でよく調和し、心を遠くいにしえの理想の世界に馳せて、太古のよい政治風俗に戻した。このように盛んだったことは、未だ嘗(カツ)て見たことがないほどであり、尚真公は、歴代の諸王を超えて優れていた。

 尚真公は在位五十年にして薨じた。これより先、世子の月浦(尚維衡)は異母の讒言(ザンゲン)に遭い、難を避けて城外に逃れていたため、第三王子(実際は第五王子とされる)の尚清公が即位した」

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        『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀の生家跡

 つまり、「生来天子の徳があり」「人として謙虚でよく調和し」とのべ、人物としても高く評価している。「治世の全てにおいて至らないものはなかった」「太古のよい政治風俗に戻した」「盛んだったことは、未だ嘗て見たことがない」として、治世の面でも賛美している。「歴代の諸王を超えて優れていた」と他の諸王との比較において、最大級の賛辞を送っている。

 さらに、尚真の前、尚円王亡き後、即位し半年で退いた尚宣威の王紀では、「尚宣威も、その徳が尚真公よりも優れていたならば、神も人望に背いてまで尚宣威を廃されることなどあるはずが無い。これこそ尚真公の第一の聖なるきざしである」とのべ、世子である尚真を差し置いて即位した尚宣威が廃され、尚真が国王に即位したことを正当化している。

これらの記述を見れば、編纂者の向象賢の先祖が尚真王によって「なきものにされた」という経緯はあっても、世鑑編纂に当たってなんら影響を受けず、公正な記述をしていることが分かる。この総論を見れば、尚維衡の血筋だから尚真王の王紀は排除したという結論は、導き出せないはずである。

 ただ、東恩納氏は、自説とは異なる伊波普猷氏の見解も紹介している。

伊波氏は、この史書は尚真については別冊をつくっていたが、これが失われたためではないかと推測していることを紹介して、これも一理あると認めている。
 ただ、欠落しているのは、尚真王だけではなく、尚元、尚永、尚寧、尚豊、尚賢の王紀もないとなれば、これらの国王の王紀がすべて別冊が作られていたけれど失われたということになるのだろうか。

 いずれにしても欠落の理由は、いまだ分からない。「未完成」であることは間違いない。欠落部分は、後に編纂された『中山世譜』で補うしかないのだろう。

 

2013年6月15日 (土)

壺川地域福祉まつりで民謡ショー

 今年も壺川地域福祉まつりが開かれた。知り合いのKさんに招かれて、中公園会場のイベントで、壺川民謡愛好会の民謡ショーに出た。

 Img_2556 毎年7月中旬に開かれていたが、真夏で暑いので1カ月早まり、6月14,15日となった。早まったので、梅雨が心配だったが、例年より早く、14日には梅雨明けとなったので、15日はガンガン照り。Img_2559 公園の一角には、大石公園のヒージャー(ヤギ)もお出かけしてきていて、子どもたちに大人気だった。

Img_2560 オープニングは、こくら保育園の人たちによるエイサー。続いて民謡ショー。
例年、壺川老人福祉センターからは、Kさんだけが出て、あとはKさんの知り合いのグループ3人で演奏していた。でも、民謡仲良しグループも、Fさん、Hさんの2人が事情があって出れない。今回は、幸い、Kさんの働きかけがよくて、壺川福祉センターから7,8人が出てくれた。

Img_2562 民謡ショーは、午前と午後の2回出た。演奏曲目は、午前が「目出度い節」「砂辺の浜」「安里屋ユンタ」。午後が「生れ島」「伊計離れ節」「繁昌節」の合計6曲。

 午前は、太鼓とハヤシが入り、息もあった演奏で盛り上げた。

Img_2563 ところが、午後は、演奏が始まる時間になっても、太鼓の担当者が来ない。「太鼓どうしたのかなー。太鼓が来てから始めよう」と言っていたが、もう開演時間で待てない。やむなく、太鼓ぬきで演奏した。

 それなりに演奏はできたが、太鼓がない分、盛り上がりがいまいちだった。Img_2564_2 例年、広場は観客は誰もいない。回りに立っているテントの売店などで買い物中の人、木陰で休んでいる人、売店の売主らが、聴いてくれているのだろう。

 ツレが、舞台正面で写真、DVDを撮影していたら、「熱心なファンの方ですか」と、センターの職員に歓迎された。










2013年6月14日 (金)

海軍司令部壕の最期

那覇市小禄と豊見城市にまたがって旧海軍司令部壕がある。沖縄戦のさい、海軍の沖縄方面根拠地隊司令官だった大田實中将が、米軍の進攻を受けて自決したのが、1945年6月13日だった。海軍司令部壕の最期である。日本軍の組織的抵抗が終わった日とされる6月23日より10日前である。

この旧海軍司令部壕には、もう6年ほど前に行った。小高い山頂部に、地下壕が掘られて、そこに海軍司令部があった。Photo

             壕の内部

 最初にガマ(洞窟)を模して造られた資料館に入った。沖縄戦の経過や約四〇〇〇人が立てこもった壕での、司令部と兵士の悲惨な最期を示す展示物を見る。その後、緩いスロープを降りていくと、中はアリの巣のように壕が張り巡らされている。
 壕の中は狭い。作戦会議室、暗号室、司令官室、医療室、一般兵士が牛詰めにされ、立ったまま眠った部屋などがある。最期に自決した時の手りゅう弾の跡が壁に残り生々しい。これほどのトンネルの壕を掘るだけでも、軍民の苦労はどれほどであったのか。その上、追い詰められて、無謀な斬り込みを繰り返し「玉砕」する兵士⋯⋯。こんな戦争を絶対に繰り返してはならないとの思いを新たにする。

 

壕の中には、兵士も沖縄県民も勇敢に戦ったという大田實司令官の報告が掲げられている。軍が英霊扱いされている感じがしてならない。それが気掛かりだ。後日知ったことだが、大田司令官の息子が、この旧海軍壕跡を訪ねて「この壕の目的は何だ、反戦恒久平和を祈念するとあるが、訪れる観光客が本当に戦争の無意味さ、非人間性を知る手助けになるのか、次から次へと湧く疑問に私はいらだった」と疑問と憤りをもったそうだ。

 ただし、大田實司令官が、6月6日に海軍次官あてに送った電文については、今日的な視点で考えてみたい。電文は、「沖縄縣民斯く戦ヘリ 縣民ニ對シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という有名な文言である。

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           資料館に掲示されている大田司令官の電文
  

 戦後68年目にして、この文言を読むと、日本政府がこの司令官の遺言ともいうべき言葉に、いかに背いてきたのかを痛感するからだ。

 沖縄県民は戦後、「特別の御高配」を賜ってきたのあろうか。むしろ、真逆ではないだろうか。サンフランシスコ条約による主権回復と引き換えに、沖縄は米軍統治に差し出された。国土のわずか0・6%しかない県土に、日本の米軍基地の74%も押しつけてきた。県民こぞって反対するオスプレイの配備は強行。加えて追加配備までするという。

 普天間飛行場は、県民の総意で早期の閉鎖、県外・国外への移転を求めているのに、辺野古移設をあくまで進めようとする。

 これは、まさしく「沖縄県民に対する特別の負担」である。「特別負担の強化」である。あまりにも理不尽ではないだろうか。大田司令官もまさか、沖縄県民に、かくも「特別な過重負担」が押しつけられるとは思いもしなかっただろう。この電文を思い出すたびに、憤りがこみ上げる。

2013年6月13日 (木)

内間御殿のサガリバナが咲きだした

 西原町嘉手苅(カデカル)の史跡、内間御殿の入り口には、とても立派なサガリバナ(和名・さわふじ)の大木がある。070_2一度、咲いているのを見たいと思っていた。ただ、この花は、日が落ちて夜中に咲いて、日が昇る朝には散っている。だから、見るのには夜出かけるしかない。

 ツレが問い合わせると咲き始めたというので、夜出かけた。左写真は、有名なサガリバナの大木。以前、昼間に撮影していた。

 ところが、この大木は、まだほとんど、花の蕾をつけるツルが伸びていない。だからまったく咲いていない。

 ガッカリして、出直すしかないかと思った。その時、ツレが「こちらの木もサガリバナだよ。あっ、咲いているじゃん」というではないか。

Img_2544 嘉手苅公民館近くに、サガリバナの大きな木が、何本もある。そのうちの一本に咲いていた。よくみると、この木は、メッチャたくさんのツルが垂れていて、蕾をつけている。

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 咲きだしたといっても、まだ咲いているツルは4,5本くらい。まだまだこれからだ。無数に垂れているツルが、いっせいに咲けば壮観だろう。花がまだ少ないのに、樹木の下は、甘い花の香りが漂っている。
 サガリバナも木によって、花をたくさん咲かせる木と、あまり咲かない木があるのだろうか。それとも、時期がもっと暑くなれば、咲きだすのだろうか。Img_2551
 これくらい蕾が膨らめば咲くのは近い。今夜咲くのかもしれない。サガリバナは、色は白か、ピンクだけれど、内間御殿前でいま咲いているのは、白のようだ。薄いピンクのように見えるが、これまで見たピンクのサガリバナに比べると色合いが薄い。

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 花は、ライトアップされているわけではない。自分で、懐中電灯を持参していった。

 あと10日くらいすれば、もっとたくさん咲きだすだろう。

Img_2554
 今夜は三日月だ。内間御殿の上に上がる。もう一度来れるかどうかわからない。

 ちなみに、わが家の近くの漫湖公園も咲きだした。ツレが写真を撮ってきている。こちらは、鮮やかなピンク。いまのところ、漫湖公園の花の方がきれいかもしれない。Img_2543
 実は、私はサガリバナを夜中に見るのは初めてである。ツレは、何回も明け方に起きて見ているが、私はぐっすり眠っていてまだ見たことがなかった。初体験である。

 



  



2013年6月12日 (水)

「多良間ションカネー」の謎、その2

「多良間ションカネー」の歌詞の謎を探るため宮古民謡の工工四を見てきた。だが、この曲がもともと生まれた現地は多良間島である。宮古民謡の名曲として、宮古島で歌われているのは、宮古流に手が加えられているかもしれない。だから、地元の多良間島でどうのように歌われているのかを見なくてはいけない。それで、多良間島関係の資料を見ていると、『村誌たらま島』に、多良間島で歌われている原曲の歌詞が掲載されていた。西平カマさんから採録した歌詞だという。

この歌詞を読むと、これまでのあれこれと考えていた疑問はすべて氷解した。結局のところ、これまで見てきた宮古民謡工工四は、いずれも原曲とは、歌詞の内容や構成そのものから大きく変わっている。そのため本来の歌の意味が分かりにくくなっている。それに、大事な歌詞がいまは省略して歌われていることが分かった。

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      写真のTさんの「多良間ションカネー」は絶品。いま病気だと聞く。はやく健康を回復してまた聴かせてほしい。

多良間島で歌われてきた歌詞は、次の通りである。

   歌詞                       

1、前泊道がま からよ             

  又、下りゅ坂 かましゅうゆず からよ     

 主が船 うしゃぎがよ すが、下りよ     

2、片帆持つば 片目ぬ涙うとし         

  諸帆持つば 諸目ぬ涙うとし 

  主が船 うしゃぎてよ かなしゃよ

戻る道中んなよ 又、降らん 雨ぐりや

  わーら上ど 立つ 雨ぐりやあらん

  うえんまぬ 目の涙どー

3、東に立つ 白雲だきよ 又、わーらん立つ ぬり雲だきよ

  うぷしゃなりよ ぱーりー わーらんだ

4、片手ゅしや ぼうずがま しょうき 
 
又、かた手ゅしや びんぬ酒 持つよ

  主が船 迎いがよう すが下りよ

 次に意訳を紹介する。

1、前泊の小さな道から

のぼったり下りたりの坂道を通って

主の船を見送りに浜に行こう

2、片帆をあげると片目から涙が出た

諸帆をあげるといよいよ悲しみも深まり 
 
こうして泣きながら見送り

帰る途中空を見ると真黒な雨雲が

空一面にひろがってにわか雨が降り出した
 
 しかし、この雨は
 
 悲しみのさめやらぬウエンマの涙だ

3、東の空に沸き立つ白雲のように

次第に大きくなる空の雲のように

大きく出世して早くお帰りなさい

私の愛しい主よ

4、そのときはかた手で坊やの手をとり

かた手では祝いの酒びんを持って

主の船を迎えに 

又、浜に行きます

 

 多良間島で歌われている歌詞を見ると、意訳を見れば、ウエンマ(現地妻)の悲哀がとてもよく表現されている。

 歌はやはり、見送りに浜に出る場面から始まる。お別れになると、船が片帆を上げれば片目から涙がこぼれ、諸帆を上げれば両目から涙がこぼれる。
 この歌詞は、「与那国ションカネー」とまったく同じだ。どちらが先に作られたのかは、よくわからない。

 大事なのは次の見送って帰る途中の情景である。真っ黒な雲が空一面に広がり、にわか雨が降り出した。「悲しみのさめやらぬウエンマの涙だ」。ウエンマの深い悲しみが、見事に表現されている。ところが、どうしたことか、この2番の歌詞は、省略して歌われるという。長いからだろうか。147
                     写真は宮古島来間島



          

 ウエンマの悲哀が歌われた後に、島を出た役人が立派に出世してまた島に帰ってきて下さい、その時は、子どもの手を引き、祝いの酒びんを持ってお迎えに来ますとなる。これは、夫婦、家族同然に暮らした役人とこれで生涯会えないのでは余りにも辛すぎる。どうか、もう一度島に帰ってきて下さいという、祈りにも似た強い願望が込められている。深い悲しみがあるからこそ、最後のまた帰ってきてほしいという願望が生きてくる。それは、あくまで願望であって、実際にはほとんどあり得ないことだ。生き別れになることが分かっていながら、帰ってきてほしいと願わずにはいられないウエンマの辛さが、いっそう心に深く刻まれるのだ。
 
 「多良間ションカネー」は名曲であるが、原曲の歌詞で歌うと相当長いので、省略して歌わざるを得ないだろう。でも、あくまでもこのような、多良間島で歌われている歌詞の内容と流れをよく知れば、歌う場合も、歌に込める思い、気持ちの入れようも異なってくるだろう。そのことを強く感じたのである。

 

 

2013年6月11日 (火)

「多良間ションカネー」の謎、その1

「多良間ションカネー」の謎

 

多良間島の古い歌謡を代表する名曲「多良間ションカネー」には、謎がある。

多良間島は、宮古島と石垣島の中間に位置するが、比較的宮古島と近いからなのか、「多良間ションカネー」は宮古民謡の名曲として扱われている。沖縄本島でも歌われるが、でも宮古島で歌われているものとは、歌詞も旋律も少し異なる。私は、やはり宮古民謡の工工四(楽譜)で歌っている。

 いくつかの工工四を比べてみると、奇妙にも歌詞の内容で大きな異同があることに気がつく。しかも、とても重要な部分である。

 琉球王府の時代、多良間島など先島に赴任する役人は、賄い女を置く習慣があった。多良間島では「ウェーンマ」とよばれた。現地妻である。子どもも生まれる例も多く、家族同然であった。でも、役人の任期が終わると、妻や子どもを置き去りにして、役人は帰って行った。その役人を見送る情景や哀しみが表現された曲である。

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              「多良間ションカネー」を歌う(アルテ崎山)

 宮古民謡の名手、国吉源治さんや砂川功さん、砂川喜助さんの「宮古民謡工工四」は、ほぼ共通して次のような歌詞になっている。

♪前泊道がまからよマーン 下りゆ坂路地からよスウーリ

 主が船迎いがよスウーリ すが下りよ

♪片手しや坊主小さうきよマーン 片手ゆしや瓶ぬ酒むちよスウーリ

 主が船うしやぎがよスウーリ すが下りよ

♪かぎ旅ぬあやぐどぅすぅでいよマーン ちゆらゆ旅ぬ糸音どぅすぅでいよ
 
糸ぬ上からよスウーリ ちあかりゆしよ

♪あがす(。がつく)ん立つ白雲だきよマーン わあらんゆ立つぬり雲だきよスウーリ

 うぷしゃなりわらだよスウーリ主がなすよ

 歌意は大筋で、次の通り。

・前泊(地名)の前の道を 坂を下りて船着き場への小道を通り
 
役人を迎えに行きます

・片手に幼子の手をとり、片手にはお酒を持って、
 
役人を見送りに行きます

・航海の無事を祈るよい歌を歌い、安全な旅を祈る歌を歌い、
 
糸の上を通るようにお祈りします

・東方に広がる白い雲のように、上方に見える大きな雲のように
 
出世してもう一度帰ってきてください

 これに対して、真栄里孟編著「宮古古典民謡工工四」は、1、2番の歌詞が重要な点で異なる。

♪前泊道がまからよ まーん(又)下りゆ坂がま小道からよ
 
シュウリ 主が船うしゃぎがよシュウリ すが下りよ

♪片手しやぼうずがましょうきよ まーん片手ゆしや瓶ぬ酒持てぃよ
 
シュウリ 主が船んかいがよシュウリ すが下りよ

 

重要な相違は、「主が船迎いがよ」(お役人が乗った船を迎えに行きます)という歌詞が、国吉版、砂川版の工工四では、一番の歌詞に付いている。ところが、真栄里版工工四では、2番の「片手ゆしや瓶ぬ酒むちよ」の後についているのだ。これでは、意味がまったく変わってくることになる。

 つまり「迎える」と「見送り」のついている位置が、両者では逆になる。

その結果、歌の内容がガラッと変わる。国吉版、砂川版では、まず1番で「前泊の道を通り、坂を下り、船着き場に迎えに行く、役人をお迎えする」、2番では、任期を終えた役人が帰るので、「片手に子ども、片手にお酒を持って見送りする」となる。

だが、真栄里版では、1番ですぐに任期の終えた役人を「見送りに行く」、2番では、将来もう一度、島に帰ってくるときは「片手に子ども、片手にお酒を持ってお迎えします」という意味なる。
 
 だから、「片手に子ども、片手にお酒を持つ」ことが「見送り」の場面なら、涙を誘う哀切な歌になる。でも、「お迎えする」となれば、お酒は分かれの盃ではなく、帰って来たお祝いのお酒となる。意味が180度変わってくる。

 そこで、両者の歌詞について、よく考えてみると、双方ともに、少し難点がある。

国吉版、砂川版では、赴任してくる役人を、お迎えするというのは、少し無理があるのではないか。役人は、島に来てから現地妻を見つけるからだ。赴任する前に、現地妻が決まっていてお迎えに出るということは考えにくい。129
         写真は多良間島ではない。宮古島のビーチ


 
 だから、なぜ最初にお迎えの場面がくるのか、不可解なところだ。ただ、2番で「片手に子ども、片手にお酒を持って見送りする」というのは、とても情景として胸を打つ。たしか、「与那国ションカネー」も、同じテーマの歌で、歌詞もよく似ているところがある。赴任した役人が帰るので、現地妻が見送りに行く。お別れのお酒を持ってくる。

「♪お別れだと思い、持ってきた盃には涙がたまり、呑むこともできない」

 この「与那国ションカネー」を歌っていたので、「多良間ションカネー」も同じように、お別れにお酒をもって見送るのが自然だと解釈して、これまで歌ってきた。

では、真栄里版はどうだろうか。1番で「見送り」して、2番でもう「お迎えする」ことになる。島に置き去りにされる妻と子どもの辛さと悲しみがあまり歌われないまま、「片手に子ども、片手にお祝いのお酒を持ってお迎えします」というのは、ちょっと唐突な感じがある。この歌は、現地妻の悲哀感が滲みでてこそ、胸を打つのではないだろうか。それが、この歌詞ではちょっと物足りない印象がある。

そんなことで、私的にはこれまで国吉版工工四で歌ってきた。アルテ・ミュージック・ファクトリーで歌った際も、そういう歌の解釈で説明をした。

宮古民謡を歌う人たちの間でも、解釈は分かれたままのようだ。それぞれの先生の使う工工四にそって歌っているからだろう。アルテ三線仲間で宮古民謡の名手であるTさんにも前に尋ねたことがあった。Tさんは、国吉源治さんの流れを汲んでいるので、やはり「お迎えします」は1番の歌詞でよいということだった。

とはいっても、本当にこの解釈でよいのか、少し疑問が湧いてきた。というのは、歌っていて赴任する役人を現地妻が迎えるというのは、どうにも納得しがたいからだ。

図書館にある宮古民謡の工工四(楽譜)をすべて調べてみた。国吉版と同じ1番で「お迎えします」が3冊、真栄里版の2番で「お迎えします」はこの1冊だけで少数派だった。

2013年6月10日 (月)

アルテで「多良間ションカネー」を歌う

 毎月恒例の「アルテ・ミュージック・ファクトリー」が開かれた。今回のテーマは「船

」.だった。24組がエントリーした。三線は、最近は出る人が少なく寂しかったが、こんどは3人が出た。

 最初は、女性のTさん。宮良長包作曲の「なんた浜」を演奏した。Tさんは、いろいろなことにチャレンジする人。「船」のテーマで浮かんだのが「なんた浜」だったので、この曲にしたそうだ。三線は3年ぶりぐらいだとか。けっこう難しいところがあるけれど、しっかり弾けて歌っていた。Img_2509
男性のTさんは、半年ぶりの出場だ。得意な「世宝節(ユタカラブシ)」を披露した。コンクールに出るので、マイクは使わないし、立って演奏するスタイル。いつものように、三線も歌も味わいがある。ぜひ、毎月出てほしい。Img_2510 私の選曲は「多良間ションカネー」。琉球王府の時代、多良間など離島に派遣されてくる役人は、単身で赴任する。島で賄いの女性を置くのが習慣だった。現地妻である。島ではウェーンマと呼ばれた。子どもができる例も多く、夫婦同然の暮らしをした。
 だが、役人の任期は通常2,3年で任期が終わると、妻も子も残して帰っていった。その情景と哀しみを歌った曲だ。舟の着く浜まで見送りに行くので、テーマに合っているだろう。Img_2519
 かなれ難しい曲だが、自己流でなんとか歌い終えた。三線もあまり間違わなかったし、まずまずの出来だろうと思った。ところが、翌日、家で撮影した動画を見ると、なんと、2番の歌詞で、途中の間奏の後の歌詞を歌わずに、3番に入っていたことが発覚! なんというミスを犯したことか。驚愕である。

 三線仲間は「いい声でよかったですよ」と声をかけてくれた。三線を弾いた女性のTさんは、なんと多良間島出身だというではないか。「この歌は子どもの頃、よく聞きましたよ。工工四(楽譜)ありますか」といい、コピーをしていた。

 歌詞については、謎の部分があるので、別途アップする。

 アルテでは、初めてツレの知人である落語家「おきらく亭けっ好」が小噺を披露した。「場違いかも」と本人は心配したが、落ちが面白く、みんな大うけだった。Img_2526

 ツレは、tokioの歌った「宙船(ソラフネ)」(中島みゆき作詞、作曲)をNさんのギター伴奏で歌った。よく声が伸び、ギターの演奏も歌にとてもマッチして、よい出来だった。「トリ(最後)にふさわしい演奏でした」と主宰者からも評された。

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2013年6月 7日 (金)

「佐敷ようどれ」を訪ねる

 南城市にある第一尚氏王統のお墓といわれる「佐敷ようどれ」を訪ねた(再録)。

  といっても、こちらは、航空自衛隊知念分屯基地の中にある。由緒ある史跡が、戦後アメリカ軍の基地にとられ、返還後は自衛隊基地となったので、いまなお基地内にある。でも、入り口で氏名、住所、電話番号を書けば入れる。ゲートから180㍍くらいと近い。隊員が案内してくれる。

079  ここには、琉球を統一した尚巴志(ショウハシ)の父である尚思紹(シュウシショウ)と家族が葬られていると伝えられる。尚巴志は、佐敷出身の英傑で1406年、中山王武寧を滅ぼし、1416年には今帰仁城を攻め、北山を滅ぼし、中山王に就いた。さらに1429年、南山を滅ぼし、琉球を統一した。ただ、尚巴志の墓は、訳あって読谷村伊良皆(イラミナ)にある。第一尚氏のお墓は、みんなバラバラになている。

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 第一尚氏は、初代の中山王は父の尚思紹である。「ようどれ」とは「夕凪」のことだが、「極楽」や「死の世界」とかを意味するらしい。これはネットで書いている人の受け売りである。浦添ようどれ、佐敷ようどれ、といずれも王家の陵墓である。

 075  説明文があるが、もう薄れて読みにくい。佐敷ようどれは、初めは高地になっているこの場所を降りたところの佐敷城近くの下にあったけれど、風雨による損壊が目立ったので、1764年、この地に移築されたそうである。

076 琉球石灰岩でを用いて建造され、半円形の屋根をもった駕籠型に近い独特の形をしている。ちょっと珍しい墓である。鮫川大主夫婦、尚思紹夫婦、その他家族5人の合計9人を葬っているという(當真荘平著『月代の神々ー尚思紹王統・門中の世系図』から)。
 鮫川大主というのは尚思紹の父にあたる。

078  佐敷ようどれから、佐敷、与那原方面を見ると、とっても眺めがよい。
 沖縄戦のあと、米軍は1957年5月27日、この付近の土地をナイキ基地として接収すると通告してきた。由緒ある佐敷ようどれを含め住民にとって大事な土地である。当時の佐敷村長らが、その解決を請願したところ、霊域として墓域だけ残すとの報があったという。
 1973年5月14日、米陸軍から自衛隊に移管された。地対空誘導弾(ペトリオット)をもつ第16高射隊、第18高射隊が駐屯しているそうだ。
 いまなお墓域は基地の中にあるというわけである。

尚巴志の先祖
 尚巴志の先祖は、もともと南城市の大里にいたけれど勢力争いで難にあい、伊平屋島に逃れた。屋蔵海岸から上陸し、屋蔵大主(ヤグラウフスー)となっていたようだ。島の人々が飢餓にあうと助けたりしたが、島の住民が不安に思い、屋蔵大主を殺そうという話を聞き、驚いて島を脱出して本島の国頭に逃れた。屋蔵大主の長男が鮫川大主である。本島では国頭から今帰仁、さらに北谷を経て、佐敷間切苗代村に移ってきた。
 鮫川大主が大里間切の大城按司の娘を娶り、生んだ長男が尚思紹で、苗代大親と称した。苗代村から佐敷城に移り、佐敷大按司となる。その子が尚巴志である。尚巴志はこの佐敷城から起って、中山王を攻略した。尚思紹が第一尚氏の最初の国王となった。「月代の神々」では、概略そのように記しる。
 『南城市史総合版』は、屋蔵大主は伝説上の人物とし、鮫川大主は佐銘川(サミカー)大主と表記している。

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2013年6月 6日 (木)

尚巴志王統の聖地を訪ねる、その3

月代宮

                     

 

 佐敷グスク跡でもっとも目を引くのは月代宮である。大きな鳥居があり、石段が続いている。本来、グスク跡には鳥居がないのが普通だ。鳥居があるのは、このグスク跡に、尚巴志王統の尚思紹、尚巴志などを合祀する月代宮が建てられているからだ。昭和13年(1938)に建立されたそうだ。Img_2422

 鳥居をくぐり、石段を登って行くと、立派な拝殿がある。Img_2423

 その奥にまた小さな祠がある。合祀されているといっても、尚巴志王統のお墓は、県内各地に散在しているので、遺骨を納めているのではないだろう。

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 この月代宮の裏の崖を登っていくと高台になっている。そこに「佐敷ようどれ」がある。尚巴志の父、尚思紹、祖父にあたる鮫川大主夫婦など9人が葬られているという。ただし、航空自衛隊知念分屯基地の敷地の中である。もとは、佐敷グスク近くの崖下にあったけれど、1764年にこの地に移葬されたという(當間荘平著『月代の神々』)。
 
 佐敷ようどれや第一尚氏のお墓については、このブログでアップしてある。

 この佐敷グスク跡では、尚巴志の長男系統の子孫の方々が、先祖を供養する清明祭を行っているという。それは、やはり「佐敷上城跡に月しろの宮が建てられて、歴代王の8つの位牌(いはい)が祭られています」(同紙)ということからだ。清明祭は、ここの祠の前で行われている。Img_2430



 
 本来、清明祭は、清明の時期、4月ごろに行われるが、秋の彼岸の時期にずらして「隠れ清明祭(カクリウシーミ)」として、500年以上も続けられてきたという。第一尚氏の王統が倒され、第二尚氏の王統によって、「前王統の血縁を排除せよというおふれが出され」狙われたという背景があるそうだ(「週刊レキオ」2011年10月11日付)。

 

 「隠れ清明祭」についても、ブログでアップしてある。

2013年6月 5日 (水)

尚巴志王統の聖地を訪ねる、その2

                           

 

上グスク之嶽

佐敷グスク跡の鳥居をくぐり石段を登ると大きな拝殿があるが、その奥に古くからの「上(ウィ)グスク之嶽」がある。

こんもり樹木が茂った場所に、説明の看板が立っている。そこが御獄(ウタキ、拝所)である。沖縄のグスクには、かならず御獄がある。「上グスク之嶽」は、佐敷グスクの御獄だろう。Img_2427


 
 聖地を巡る巡礼「東御廻り(アガリウマーイ)」のコースの一つとなっている。『琉球国由来記』には、祭神としてステツカサノ御イベ、若ツカサノ御イベの二神が記されているという。 

内原の殿(ウチバルヌトゥン)

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 内原の殿は「上城の殿(ウィグスクヌトゥン)」とも呼ばれ、女官たちの働いていた場所といわれている。もともとはカマド跡付近にあったと考えられている。

Img_2419

以前は繰り石の柱で壁はなかったけれど、昭和55年(1980)にコンクリートの祠(ホコラ)に建て替えられた。

 佐敷ノロ殿内(ドゥンチ)
 ノロ(ヌル)は、琉球王府時代に村落のお祭りを行い、宗教的に村落を管理支配した女性神役である。

Img_2432
ノロ殿内とは、ノロの火の神(ヒヌカン)を祀ってある建物のことをいう。

 Img_2431


 初代佐敷ノロは、苗代大親(尚思紹)の長女だった。佐敷ノロは、代々、喜友名家の系統の女性で、昭和初期まで継承していたが、最後のノロが他界してからは後継者が途絶えているそうだ。

 

2013年6月 4日 (火)

尚巴志王統の聖地を訪ねる、その1

                           

 

尚巴志王統の聖地を訪ねる


 
佐敷グスク跡

  琉球が三つの小国に分かれて争っていた時代、三山(三国)を統一した英雄・尚巴志(ショウハシ)とその王統のゆかりの地、お墓などを訪ねてブログでもアップしてきた。

 でも、尚巴志の居城があったという佐敷のグスク跡は、まだブログにアップしていなかった。というのは、ブログを始める前、六年ほど前に訪ねたが、写真もなくしていたからだ。

ゆかりの地を回るなら、この聖地ともいえる場所をもう一度訪ねてみたいと思い、出かけた。Img_2416

国道331号線沿いの入り口に、月代宮の大きな鳥居がある。そこから入って坂道を登って行くと、佐敷グスク跡の広場に出る。
 
 佐敷グスク(上グスク)は、尚巴志とその父、尚思紹(ショウシチョウ)の居城跡といわれている。発掘調査によって、青磁・白磁のお椀や皿、土器、石器、鉄釘や小銭などが出土したという。また、柱の穴のあとや土留めの石積みも確認された。ただ、各地のグスクにみられるような石垣はまだ発見されていないとのことだ。Img_2417

 
 佐敷グスクは、尚巴志が14世紀に、島添(シマシー)大里グスクを攻め落とす前に築いたグスクといわれる。島添大里グスクは、地形的には、佐敷・与那原の東海岸から西にせり上がった高台の山上にあった。沖縄本島の南部を勢力範囲とする南山でも、最大規模を誇っていた。尚巴志が野望を実現するうえで、島添大里グスクは、最初に攻略すべき対象だったのだろう。このグスクを足がかりにして、中山王を攻め落とし、父、尚思紹が中山王となった。尚巴志は、その後さらに北山、南山と攻略して、琉球を統一し、第一尚氏の王統を開いた。

 その尚巴志王統の聖地ともいえるのが、この佐敷グスク跡だ。

Img_2420

 グスク跡は、石垣もないから、とくにグスクらしいものは見当たらない。高い地点にあるので、中城湾が一望にできる。ただ、いまは草木が生い茂っていて展望台のところでもあまり見通しがよくない。広場には、大きなガジュマルなどの樹木が立つ。

Img_2428

 佐敷グスク跡には、鳥居があり月代宮の拝殿やいくつもの拝所がある。これについては、後から説明する。

2013年6月 3日 (月)

「無情の月」あれこれ、その2

 「無情の月」の続きである。

  前にアルテで歌ったとき、歌詞の私的な解釈をした。
 その後、同じアルテの三線仲間のTさんが、歌詞について、民謡の先生に聞いてくれたそうで、先生の解釈を教えてくれた。
  問題は、「無情の月」の3番目の歌詞である。
♪貫ちたみて置ちょて 知らさなや里に 玉切(チ)りて居てど 袖ぬ涙

  私は前のブログで「♪彼のことをひたすら思いを貫いている。そのことを伝えたいけれど、彼はいまや玉と散っていて、伝えることもできない、ただ袖に涙するばかりだ」という意味だと思うと説明した。特に、「玉と散る」というのは、戦死を意味するのではないかというのが、私流の理解だった。002

 Tさんの先生によると、そうではなくて、次のような歌意ではないかとのこと。
 「貫ちたみて」とは、沖縄ではよく「貫花(ヌチバナ)」というレイのような花飾りを作る。彼のために「貫花」を作ったことを、知らせたい。でも貫花は悲しいことに切れてしまった、袖に涙するばかりだ。
 確かに、「貴方への思いを貫いている」という表現に、ウチナーグチで「貫たみてぃ置ちょて」とは言わないかもしれない。

 三線サークルに行った際、この唄が好きでよく歌っているAおじいにも聞いてみた。やはり、「貫ちたみて」とは、貫花を作ったという意味ではないかと同じ理解だった。ただ、「玉切れて」は、貫花が切れたということかもしれないが、彼氏が亡くなったという意味があるかもしれないといっていた。

 それは、次の4番の歌詞と関係する。「♪わが身に幸せの光はささない」と不幸な身を嘆いているからだ。貫花が切れたことで「わが身の不幸」を嘆くだろうか?彼が元気なら、また帰ってきて幸せをつかめるだろう。いずれにしてもこの唄は、愛する男女の引き裂かれた「無情」がテーマになっていることは確かだ。
 

 ちなみに、ネットで島唄の歌詞とその解釈を紹介してくれている「たるーの島唄まじめ研究」は次のような和訳をのせている。
「♪貫きため置いておいた知らせたいよ貴方に 玉を切っておき袖の涙」 
 残念ながらこれだけでは、意味がよくわからない。

 そういえば、「無情の月」の歌詞は、普久原朝喜さんの名曲「無情の唄」と発想がとても似ている。愛し合う男女が引き裂かれ、女性は故郷に、男性は海を隔てた遠くにいる。思いあってもままならない恋路である、朝夕袖を濡らし暮らす辛さよ、一人月に向かって泣いている。「浮世 無情なむん」と繰り返す。
 こんな内容だ。表立って、戦争のことは出ていないが、実は出征して引き裂かれた男女を歌っているそうだ。「秘められた非戦の歌」といわれる。
 「無情の月」も、愛し合う二人だが、彼は海を隔てた遠くに行っている。引き裂かれた悲運と離れても慕う心を歌っている。「海を隔て自由に逢うこともできない」「袖を濡らす」「月に向かって泣く」というのも同じだ。

 そういう意味では、「無情の月」は、旋律は普久原朝喜さんの「あこがれの唄」とほぼ同じ、歌詞は同じ普久原作「無情の唄」ととても主題と構図がに似ている。不思議な唄である。

2013年6月 2日 (日)

「無情の月」あれこれ

 沖縄民謡「無情の月」について、先にブログにアップした。その後、この歌について、興味深いことがわかったので記しておきたい。

 一つは、この曲とまったく同じ旋律の唄がいくつもあることだ。たとえば、「あこがれの唄」。ネットの「唯我独尊的島唄解説さん」によると、この曲は、昭和民謡の名曲をたくさん作った普久原朝喜さんの作詞、作曲だとのこと。ただし『歌詞集 沖縄のうた』では、作詞、作曲者名は書かれていない。001

 「あこがれの唄」は、戦後の曲である。
 『歌詞集 沖縄のうた』から歌詞を紹介する。

♪いちぶさや大和 住(シ)みぶさや都 あさましや沖縄 変いはてぃてぃ 変いはてぃてぃ

♪大和世(ユ)に変てぃ アメリカ世なてぃん ぬがし我が生活 楽んならん 楽んならん

♪戦場(イクサバ)ぬ後や かにんちりなさや 見るん聞く物や 涙びけい 涙びけい

♪自由に我ん渡す 舟はらちたぼり 若さある内に 急(イス)じ行かな 急じ行かな

 歌意は、逐条的にはわからない。大まかにいえば次のようなことを歌っているだろう。

 行ってみたいな大和 住んでみたいな都 哀れな沖縄 変わり果ててしまった
 大和世からアメリカ世に変わったけれど どうして わが暮らしは楽にならない
 戦場の跡は 無情なことだ 見るもの聞くもの 涙ばかり
 自由に私たちを渡してくれる 舟を走らせてほしい 若さあるうちに急いで行きたい

 盛和子さんの唄でも、同じ旋律で歌った曲がある。「母の志情(シナサキ)」という。盛さんのラジオ番組「ホーメルで今日は」で、何回か聞いたことがある。

 「これって、いい唄だけれど、旋律は『無情の月』とまったく同じだ」と思ったことだ。残念ながら、歌詞はいま手元にない。

 知名定男さんのヒット曲「おぼろ月」も、旋律はとても似ている。少し異なるところがあるだけだ。こちらは、恋唄。別れて去っていった彼女を恨む内容である。

 沖縄民謡は、よい旋律の曲は、すぐに替え歌がつくられる。だから、同じ旋律で、別の歌詞の唄があるのは、フツーのことだ。まあ、「無情の月」も、それだけ、愛されていることのあかしだろう。
 といっても、「無情の月」が元歌ではなく、替え歌かもしれない。というのは、工工四(楽譜)を見ても、作詞、作曲者の名前がない。もしかして、「あこがれの唄」が元歌なのだろうか。今のところ、判断する材料がない。
 

2013年6月 1日 (土)

「不屈館」(瀬長亀次郎と民衆資料)を訪ねる

 那覇市若狭に開館した「不屈館」(瀬長亀次郎と民衆資料)を訪ねた。瀬長さんといえば、沖縄の祖国復帰と平和な社会の実現をめざして、米軍の強圧にも屈せず、命がけでたたかった「戦後沖縄のヒーロー」として知られる。

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 瀬長さん個人の人と業績を知るだけでなく、「沖縄の戦後史、特に米軍統治下の民衆の歩みが学べる場所」として充実させたいとのことだ。Img_2394
 豊富な写真や資料の展示コーナー、閲覧コーナー、書斎再現コーナー、DVD視聴コーナーなど充実している。

 戦前から新聞記者をしていて、戦後すぐ生まれた「うるま新報」(現琉球新報)の社長も務めた。沖縄人民党創設に参加し、そのリーダーとなる一方、琉球立法院議員に当選するも、不当な弾圧で投獄される。1956年に那覇市長に当選し、米軍を驚愕させ、追放される。1970年、戦後初の国政参加選挙で衆院議員となり、20年間議員を務めた。

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 那覇市長に当選した時の「当選証書」も展示されていた。初めて見た。全国から激励の手紙、ハガキが山のように寄せられたそうだ。住所がよくわからないで「沖縄刑務所となり瀬長様」などの宛名のハガキもたくさんある。

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 書斎コーナーは、机の前の座る位置に瀬長さんのペンを持った写真が置かれているので、まるでそこに座って原稿を書いているように見える。

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 瀬長さんが獄中から釈放されたとき来ていた背広や白い靴なども展示されている。「よくぞ、そんな古いスーツまでとっていたものだ」と感心した。奥さんの瀬長フミさんが、物を捨てないで大切にする人だった。それに、県民の先頭に立ってたたかう亀次郎さんにかかわる物や資料を保存しようとする意図もあったようだ。Img_2398 

 獄中での学習ノートや数々の自筆原稿なども展示されている。元新聞記者だけあって、文章は歯切れよく、わかりやすい。演説は民衆に熱烈に支持されたことで有名だが、弁舌も執筆も両方で超一流だったことがわかる。

Img_2401 ここで紹介したのは、ごくさわりにすぎない。
 「不屈館」の場所は、わかりやすい。国道58号線久茂地交差点から、松山方面に真っすぐ進み、若狭公園、波の上臨海道路に出る手前で、右折して少し行けばノボリ、看板が見える。那覇空港からも便利だ。

 入館料500円。毎週火曜日が休館日である。
 

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