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2013年6月23日 (日)

68年目の「慰霊の日」

 沖縄戦で日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日「慰霊の日」がことしもめぐってきた。68年目にあたる。テレビやラジオ、新聞でたくさんの戦争体験が語られ、後世に伝えようという気運は強い。

 これらを見ていると、同じ15年戦争、太平世戦争を体験した日本国民であっても、沖縄と大和では、その体験には質量ともに圧倒的な違いがある。

 わたしの子ども時代も、まだ戦地から引き揚げた軍人がいた。叔父も日中戦争で戦死している。空襲の体験者もいた。大人たちの話を聞くこともけっこうあった。しかし、田舎住まいだったということがあるかもしれないが、戦争の悲惨さがリアルの語られることはあまりなかった。原爆を落とされた広島、長崎や東京など大都市の空襲の体験、中国東北部(満州)の敗戦の体験などは別として、肌で感じるような戦争体験には乏しいところがある。戦争といっても、映画やテレビの映像、本や新聞、雑誌で見たり読んだりしたことを通じて頭に刻み込まれたものが多い。Photo_2


               陸軍病院山城本部豪

 日本で唯一、住民を巻き込んだ大規模な地上戦がたたかわれた沖縄の実相から見れば、、それらは戦争のごく一面でしかない。
 郷土が戦場となった沖縄では、県民の4人に1人が犠牲となった。「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の艦砲射撃、爆撃によって、肉親、友人が無残に殺された。肉体が飛ばされ、砕け散る。それを眼の前で見た。一家全滅という家族も多い。

 それけだでなく、日本軍による避難先のガマからの追いだし、食糧の強奪、「集団自決」の強制、スパイと疑っての虐殺など。友軍と思った軍隊が鬼と化した。
 日本軍がいたために戦場になり、陣地があったために、攻撃の対象にされ、自決強制も起きた。軍隊は国を守らないという実際の姿が、県民の目に焼きついた。これらは、沖縄県以外では、絶対に語られない戦争体験だろう。

 「ひめゆり」に代表される女子学徒隊の、負傷者への看護や死体の処理、砲弾の降る中での食料の運搬…。あげくには、戦場に投げ出され、砲弾に倒れたり、「集団自決」に追い込まれた。

 動けない年寄り、負傷者を生き延びるために身捨てざるをえなかった人。「集団自決」で肉親を手にかけた人。長男を守るために女の子を捨てざるを得なかった母。県民みずからも、戦争の渦中では人間が人間でなくなる極限状態を体験した。地獄のような地上戦だからこそ、起きたことだ。Photo          激戦の前田高地に建つ平和之碑

 生き残った人々も、悪夢のような戦争のトラウマに苦しみ続けている。
しかも、戦後も広大な米軍基地が存在し、海外の戦場と沖縄は直結されてきた。戦争の悲惨さを忘れようとしても、米軍の軍用機や砲撃、軍用車を見聞きするたびに、よみがえる。沖縄では、戦争は過去のことではない。

 大和では、戦争体験の風化が叫ばれている。だが、沖縄の体験は、身の毛もよだつような戦争の惨状と理不尽さ、戦争と軍隊の真実を生々しく伝えてくれる。それを、子や孫、ひ孫らの世代に継承させようという県民の努力は、頭が下がるほどだ。二度とこんな悲惨な戦争は絶対に繰り返してはならないという県民全体の深い共通認識がある。そんなことを改めて痛感する「慰霊の日」である。 

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コメント

沖縄の気持ちが、はじめてわかった文章でした。  

コメントありがとうございました。
移住者の私たちは、戦跡を見たりしていますが、県民の遭遇した過酷な体験からみれば、まだ表面をなでたくらいだと思います。「沖縄の気持ちがはじめてわかった」といっていただければ、アップしたかいがありました。

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