琉球史書『中山世鑑』の謎
琉球史書『中山世鑑』の謎
琉球王府の最初の史書『中山世鑑』は、1650年に羽地朝秀(向象賢=ショウジョウケン)によって編纂された。琉球の歴史を研究する上で欠かせない史書である。
『中山世鑑』が書かれた目的は、後世の君臣がこれを鑑として、有益に活用すること、同時に、第二尚氏王家の王位継承の正当性と血筋の聖性を述べるためであったという。
この史書は、諸見友重訳注で『訳注 中山世鑑』が出版されており、われわれのような素人もとっつきやすい。
王府の正史でありながら、この史書には奇妙な謎がある。それは、第二尚氏の三代目国王である尚真王の事績の部分が欠落していることだ。尚真王は、父尚円王が打ち立てた王統を引き継ぎ、50年にわたる治世のなかで、中央集権制を確立し、地方に割拠していた按司(豪族のような存在)を首里に集め住まわせ、武装を解除して、武器は王府が一括管理した。琉球王朝の黄金時代を築き、以後王朝が三百年以上にわたり存続し発展する基盤を確立した。第二尚氏の王統のなかで、もっとも重要な国王である。
世鑑は、国王の事績を一人一人記しており、第二尚氏では、尚円王からはじまり、わずか半年で退いた尚宣威(ショウセンイ)王も記述しながら、尚真王は飛び越して、4代目の尚清王に移っている。まさに画竜点睛(ガリョウテンセイ)を欠く。
この史書の最大の謎である。いまだ、この謎は解明されていない。
首里城瑞泉門
「多くの資料を駆使して編纂された世鑑だが、その内容は未完成である。もっとも大きな問題は、総論では尚質までの記述をしているにもかかわらず、当代尚質は別にして、尚真、尚元、尚永、尚寧、尚豊、尚賢の王紀がないことである。
殊に、尚清王紀がありながら、その父である尚真王紀が欠落していることが、大きな謎となっているのは前述のとおりである。最初から書かれなかったのか、或いは隠滅若しくは欠落したのか、全く不可解なことである」
訳注者の諸見友重氏は、こう指摘している。
この謎について、沖縄学の大家、東恩納寛惇氏は、向象賢が尚真王によってなきものにされた尚維衡(ショウイコウ)の血筋にあたるので、あえて排除したと推測している。
これは、尚維衡が尚真王の長男で、本来国王を継ぐ立場にあったが、父、尚真に追放され、浦添城に隠居した。異母の讒言があったともいわれる。尚維衡に代わって、第五王子だった尚清が即位した。向象賢は、この尚維衡の血筋に当たるので、尚真王の王紀を排除したのではというのが、東恩納氏の推測である。
何か、そんな背景がありそうな推理もしたくなる。でも、この推測には大きな難点がある。それは、世鑑が「琉球国中山王世継総論」では、尚真王について簡潔ながら正当な評価をしているからだ。
「尚真公は、生来天子の徳があり、よく父王の志と偉業を継ぎ、治世の全てにおいて至らないものはなかった。人として謙虚でよく調和し、心を遠くいにしえの理想の世界に馳せて、太古のよい政治風俗に戻した。このように盛んだったことは、未だ嘗(カツ)て見たことがないほどであり、尚真公は、歴代の諸王を超えて優れていた。
尚真公は在位五十年にして薨じた。これより先、世子の月浦(尚維衡)は異母の讒言(ザンゲン)に遭い、難を避けて城外に逃れていたため、第三王子(実際は第五王子とされる)の尚清公が即位した」
つまり、「生来天子の徳があり」「人として謙虚でよく調和し」とのべ、人物としても高く評価している。「治世の全てにおいて至らないものはなかった」「太古のよい政治風俗に戻した」「盛んだったことは、未だ嘗て見たことがない」として、治世の面でも賛美している。「歴代の諸王を超えて優れていた」と他の諸王との比較において、最大級の賛辞を送っている。
さらに、尚真の前、尚円王亡き後、即位し半年で退いた尚宣威の王紀では、「尚宣威も、その徳が尚真公よりも優れていたならば、神も人望に背いてまで尚宣威を廃されることなどあるはずが無い。これこそ尚真公の第一の聖なるきざしである」とのべ、世子である尚真を差し置いて即位した尚宣威が廃され、尚真が国王に即位したことを正当化している。
これらの記述を見れば、編纂者の向象賢の先祖が尚真王によって「なきものにされた」という経緯はあっても、世鑑編纂に当たってなんら影響を受けず、公正な記述をしていることが分かる。この総論を見れば、尚維衡の血筋だから尚真王の王紀は排除したという結論は、導き出せないはずである。
ただ、東恩納氏は、自説とは異なる伊波普猷氏の見解も紹介している。
伊波氏は、この史書は尚真については別冊をつくっていたが、これが失われたためではないかと推測していることを紹介して、これも一理あると認めている。
ただ、欠落しているのは、尚真王だけではなく、尚元、尚永、尚寧、尚豊、尚賢の王紀もないとなれば、これらの国王の王紀がすべて別冊が作られていたけれど失われたということになるのだろうか。
いずれにしても欠落の理由は、いまだ分からない。「未完成」であることは間違いない。欠落部分は、後に編纂された『中山世譜』で補うしかないのだろう。
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