農民にとっての会津戦争、番外編
農民が軍に協力した庄内藩
「板垣退助の見た会津藩」で、会津藩では、武士は安楽な生活を独占し、上に立つ者とその下にある者の心が離れて、藩が滅亡の危機にあったも、藩主の恩に酬いようとする気持ちがなく、知らぬ振りをして、逃げるばかりだと紹介した。
ただし、他の藩も同様ではないかと書いておいた。ところが、会津藩と同じく新政府側から「朝敵」とされた庄内藩は、会津藩とは事情が相当に異なっていたという。
庄内征討を決定した新政府軍は、新庄から庄内地方に流れ込む最上川を下り、東の境にあたる清川附近に攻め入ろうとした。当時、清川には庄内藩の正規兵と農兵合わせて4百名余りが配備されていた。はじめのうち、戦況は圧倒的に新政府軍に有利に展開した。だが、時間とともに反撃の効果が出始めた。「そうしたところへ、近隣の多数の農民たちが庄内軍に協力、旗や幕を持ち出して総督府軍(新政府軍)の背後の山に登り、大声をあげて驚かせた」。庄内軍の増援も到着し、新政府軍はとうとう撤退した(『戊辰戦争全史上』)。
庄内藩では、農民が農兵として陣営に加わるとともに、武士と心を合わせて、農民らしい戦術で敵側を驚かせて、庄内軍に協力してたたかったことがわかる。庄内藩は最後まで、領地への新政府軍の侵入を許さなかった。
なぜこうしたことが起きたのだろうか。そこには、藩主・家臣と領民の固い結束があったようだ。
庄内藩は、幕府による転封が一度もなかった数少ない大名の一つ。「藩政改革(18世紀)以後、領民を手厚く保護する政策が基本姿勢となり歴代藩主はこれを踏襲した。領民もこれに感謝の念を抱いていた」という(ウィキペディア「庄内藩」)。
藩主・家臣と領民の関係を考えるうえで、興味深い話である。
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