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2013年6月 7日 (金)

「佐敷ようどれ」を訪ねる

 南城市にある第一尚氏王統のお墓といわれる「佐敷ようどれ」を訪ねた(再録)。

  といっても、こちらは、航空自衛隊知念分屯基地の中にある。由緒ある史跡が、戦後アメリカ軍の基地にとられ、返還後は自衛隊基地となったので、いまなお基地内にある。でも、入り口で氏名、住所、電話番号を書けば入れる。ゲートから180㍍くらいと近い。隊員が案内してくれる。

079  ここには、琉球を統一した尚巴志(ショウハシ)の父である尚思紹(シュウシショウ)と家族が葬られていると伝えられる。尚巴志は、佐敷出身の英傑で1406年、中山王武寧を滅ぼし、1416年には今帰仁城を攻め、北山を滅ぼし、中山王に就いた。さらに1429年、南山を滅ぼし、琉球を統一した。ただ、尚巴志の墓は、訳あって読谷村伊良皆(イラミナ)にある。第一尚氏のお墓は、みんなバラバラになている。

074

 第一尚氏は、初代の中山王は父の尚思紹である。「ようどれ」とは「夕凪」のことだが、「極楽」や「死の世界」とかを意味するらしい。これはネットで書いている人の受け売りである。浦添ようどれ、佐敷ようどれ、といずれも王家の陵墓である。

 075  説明文があるが、もう薄れて読みにくい。佐敷ようどれは、初めは高地になっているこの場所を降りたところの佐敷城近くの下にあったけれど、風雨による損壊が目立ったので、1764年、この地に移築されたそうである。

076 琉球石灰岩でを用いて建造され、半円形の屋根をもった駕籠型に近い独特の形をしている。ちょっと珍しい墓である。鮫川大主夫婦、尚思紹夫婦、その他家族5人の合計9人を葬っているという(當真荘平著『月代の神々ー尚思紹王統・門中の世系図』から)。
 鮫川大主というのは尚思紹の父にあたる。

078  佐敷ようどれから、佐敷、与那原方面を見ると、とっても眺めがよい。
 沖縄戦のあと、米軍は1957年5月27日、この付近の土地をナイキ基地として接収すると通告してきた。由緒ある佐敷ようどれを含め住民にとって大事な土地である。当時の佐敷村長らが、その解決を請願したところ、霊域として墓域だけ残すとの報があったという。
 1973年5月14日、米陸軍から自衛隊に移管された。地対空誘導弾(ペトリオット)をもつ第16高射隊、第18高射隊が駐屯しているそうだ。
 いまなお墓域は基地の中にあるというわけである。

尚巴志の先祖
 尚巴志の先祖は、もともと南城市の大里にいたけれど勢力争いで難にあい、伊平屋島に逃れた。屋蔵海岸から上陸し、屋蔵大主(ヤグラウフスー)となっていたようだ。島の人々が飢餓にあうと助けたりしたが、島の住民が不安に思い、屋蔵大主を殺そうという話を聞き、驚いて島を脱出して本島の国頭に逃れた。屋蔵大主の長男が鮫川大主である。本島では国頭から今帰仁、さらに北谷を経て、佐敷間切苗代村に移ってきた。
 鮫川大主が大里間切の大城按司の娘を娶り、生んだ長男が尚思紹で、苗代大親と称した。苗代村から佐敷城に移り、佐敷大按司となる。その子が尚巴志である。尚巴志はこの佐敷城から起って、中山王を攻略した。尚思紹が第一尚氏の最初の国王となった。「月代の神々」では、概略そのように記しる。
 『南城市史総合版』は、屋蔵大主は伝説上の人物とし、鮫川大主は佐銘川(サミカー)大主と表記している。

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