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2013年6月14日 (金)

海軍司令部壕の最期

那覇市小禄と豊見城市にまたがって旧海軍司令部壕がある。沖縄戦のさい、海軍の沖縄方面根拠地隊司令官だった大田實中将が、米軍の進攻を受けて自決したのが、1945年6月13日だった。海軍司令部壕の最期である。日本軍の組織的抵抗が終わった日とされる6月23日より10日前である。

この旧海軍司令部壕には、もう6年ほど前に行った。小高い山頂部に、地下壕が掘られて、そこに海軍司令部があった。Photo

             壕の内部

 最初にガマ(洞窟)を模して造られた資料館に入った。沖縄戦の経過や約四〇〇〇人が立てこもった壕での、司令部と兵士の悲惨な最期を示す展示物を見る。その後、緩いスロープを降りていくと、中はアリの巣のように壕が張り巡らされている。
 壕の中は狭い。作戦会議室、暗号室、司令官室、医療室、一般兵士が牛詰めにされ、立ったまま眠った部屋などがある。最期に自決した時の手りゅう弾の跡が壁に残り生々しい。これほどのトンネルの壕を掘るだけでも、軍民の苦労はどれほどであったのか。その上、追い詰められて、無謀な斬り込みを繰り返し「玉砕」する兵士⋯⋯。こんな戦争を絶対に繰り返してはならないとの思いを新たにする。

 

壕の中には、兵士も沖縄県民も勇敢に戦ったという大田實司令官の報告が掲げられている。軍が英霊扱いされている感じがしてならない。それが気掛かりだ。後日知ったことだが、大田司令官の息子が、この旧海軍壕跡を訪ねて「この壕の目的は何だ、反戦恒久平和を祈念するとあるが、訪れる観光客が本当に戦争の無意味さ、非人間性を知る手助けになるのか、次から次へと湧く疑問に私はいらだった」と疑問と憤りをもったそうだ。

 ただし、大田實司令官が、6月6日に海軍次官あてに送った電文については、今日的な視点で考えてみたい。電文は、「沖縄縣民斯く戦ヘリ 縣民ニ對シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という有名な文言である。

Photo_3
           資料館に掲示されている大田司令官の電文
  

 戦後68年目にして、この文言を読むと、日本政府がこの司令官の遺言ともいうべき言葉に、いかに背いてきたのかを痛感するからだ。

 沖縄県民は戦後、「特別の御高配」を賜ってきたのあろうか。むしろ、真逆ではないだろうか。サンフランシスコ条約による主権回復と引き換えに、沖縄は米軍統治に差し出された。国土のわずか0・6%しかない県土に、日本の米軍基地の74%も押しつけてきた。県民こぞって反対するオスプレイの配備は強行。加えて追加配備までするという。

 普天間飛行場は、県民の総意で早期の閉鎖、県外・国外への移転を求めているのに、辺野古移設をあくまで進めようとする。

 これは、まさしく「沖縄県民に対する特別の負担」である。「特別負担の強化」である。あまりにも理不尽ではないだろうか。大田司令官もまさか、沖縄県民に、かくも「特別な過重負担」が押しつけられるとは思いもしなかっただろう。この電文を思い出すたびに、憤りがこみ上げる。

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