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2013年6月30日 (日)

農民にとっての会津戦争、その5

藩崩壊で「世直し一揆」勃発

会津藩が降伏してからわずか10日後、1868年11月16日、会津藩の重税に苦しめられていた農民が、会津領内の各地で一揆を起こした。「会津世直し一揆」である。農民は「ヤーヤー」と言いながら、打ち壊しを行ったため、「ヤーヤー一揆」「ヤアヤア一揆」とも呼ばれる。

会津の農民は、かねてからの重税や物産の専売制度による搾取に加え、藩主松平容保が京都守護職として上洛して以来、会津藩は多大な財政負担を強いられていた。藩は農民に重い税金を課して負担を押し付け、農民に恨まれていた。

うっ積していた不満は、会津が降伏して新政府軍の領内統治が始まったことを契機に、各所で勃発した。数万人の農民が立ち上がった。

新政府による暫定的な行政が始まっても、村々の支配は従来の村役人に当面任せることとしていた。これまで会津藩政の支配の末端を担った村役人を、排斥するように求める農民たちの動きが各地で高まり、会津若松から遠い大沼郷で一揆が勃発した。以後、領内各地に波及していった。

「彼らは、村役人を村人による入札(選挙)によって選出すること、検地帳・年貢帳・分限帳の破棄(藩による土地支配の否定)・専売制の廃止及び戦乱を理由とした当面の年貢免除(生活再建策)、質物帳の破棄(返済不能になっていた負債の破棄)と小作料の廃止(地主による土地支配の否定)、労働力の徴発の廃止などを要求して各地の村役人や豪商の屋敷や家財道具を打ちこわし、帳簿類を焼き捨てた。15日には北会津郡と河沼郡、16日には耶麻郡、28日には南会津郡で一揆が発生、以後まる2ヶ月間にわたって各地で打ちこわしが続いた」(ウィキペディア「会津世直し一揆」から)。

一揆に参加した農民の要求は多くが実現することになったという。

会津藩の松平容保をはじめ家臣たちは、農民にとって、自分たちの暮らしや生命と安全を守ってくれる存在というよりは、農民たちを抑圧し、重い年貢を課して搾りとるばかりの権力者に過ぎなかった。
 
 それに加えて、会津の領地と民百姓よりも、徳川幕府に忠誠をつくすことが最優先され、過重な負担を押し付けられ、領民がだれも望まない戊辰戦争に引き込まれ、あげくには、新政府軍の進攻によって、郷土が戦場となり、最悪の結果を招いた。積もり積もった不満が、一揆となって噴出したといえるだろう。

 沖縄では、会津戦争にかかわる史料類も乏しいので、ネットで紹介されている以下の史料を使わせていただいた。

「戊辰戦争百話 第95話・ウイリス博士の見た戊辰戦争」 『英国公使館員の維新戦争見聞録』(中須賀哲朗訳)、「板垣退助が語った会津戊辰戦争――平石弁蔵著『会津戊申戦争』序文」(「大山格HP」)、ウィキペディア「会津世直し一揆」、「農民の反抗(戊辰戦争速記録)」(「あらすじと犯人のネタバレ」)。

書籍では、宮崎十三八編『妻たちの会津戦争』、『板垣退助君伝記第一巻』(宇田友猪著 公文豪校訂)『戊辰戦争全史上、下を参考にした。

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