農民にとっても会津戦争、その3
責任をとらない藩主に失望
会津藩が新政府軍に降伏し、藩主松平容保(マツダイラカタモリ)や家老たちも囚われの身となった。領主と家臣、武士階級とその家族にたいして、民百姓の見る視線は、かなれ冷たかったという。
イギリス人医師ウィリアム・ウィリスは、若松城の明け渡しのあと、囚われの身となっていた会津候父子と家老たちが、江戸に向かうところを目撃した。
「護衛隊の者をのぞけば、さきの領主である会津候の出発を見送りに集った者は十数名もいなかった」「いたるところで、人々は冷淡な無関心さをよそおい、すぐそばで働いている農夫たちでさえも、往年の誉れの高い会津候が国を出てゆくところを振り返って見ようともしないのである。武士階級の者のほかには、私は会津候にたいしても行動を共にした家老たちに対しても、憐憫の情をすこしも見出すことができなかった。一般的な世評としては、会津候らが起こさずもがなの残忍な戦争を惹起した上、敗北の際に切腹もしなかったために、尊敬を受けるべき資格はすべて喪失したというのである」(『英国公使館員の維新戦争見聞録』)
なぜ冷淡だったのか。そこには、日ごろの耐えがたい重い負担への不満もあるだろう。それに加えて、対応次第で避けられたはずの会津戦争を引き起こし、敗北をしても藩主が責任をとらなかったために、失望を与えたという。
板垣退助は、藩主と農民の関係について、強い印象に残ったエピソードを紹介している(「板垣退助が語った会津戊辰戦争――平石弁蔵著『会津戊申戦争』序文」)。
「城が落ちて藩主の松平氏が降伏して寺院で謹慎していると、一人の農民が自分で作ったサツマイモを持参しこれを藩主に献上したいと願って取り次ぎを番兵に求めたと、藩のみながこれを私に美談として伝えた」。庶民はみんな荷物を背負って逃げ散り、少しも歴代藩主の恩に酬いようとする気持ちがない。「今たった一人の農夫がサツマイモを献上するなどは、特に言うべきことではない」
「(農夫が芋を献上した話を聞き)これ洵(マコト)に嘆息すべきの次第だ。苟(イヤシ)くも彼れ農夫を見て、国士と為さんか。国は亡び、家は破れ、君主面縛して降伏する時に於て、一死以て恩に酬ゆる猶ほ足らざるを覚ゆるのに、何ぞや一籠の煨芋(ワイウ)を見て、直ちに感賞して措かざるとは、吾輩遂に其理由を知るに苦しまざるを得ない」(『板垣退助君伝記第一巻』)
つまり、農民たちは、国は亡び、家は破れ、君主は囚われ降伏するという一大事にあって、歴代藩主の恩を強く感じていれば、身を捧げても恩に酬いてもまだ足りないくらいだ。それなのに、ひと籠のイモを献上してきたからといって感激するようなことだろうか、と強い疑念をのべている。
このイモ献上の逸話は、逆に見れば、藩主にたいする農民の思いがいかに薄かったのかを表しているということだろう。
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