「艦砲ぬ喰ぇー残さー」歌碑を訪ねる
反戦島唄の傑作 「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の歌碑が完成し,「慰霊の日」の6月23日、除幕式が行われた。さっそく25日に訪ねた。
歌碑は、この曲を作詞作曲した比嘉恒敏さんの出身地、読谷村楚辺の海辺の「ユーバンタ」広場に建てられた。比嘉さんがよくこの浜で三線を弾き歌っていたと聞く。
歌碑は、昨年3月発足した実行委員会がコンサート開催、募金集めをし、村や楚辺区などの支援を受け、1280万円を集めた。
歌碑は、山並みを思わせる自然石に曲の歌詞と和訳が刻まれた石板が取り付けられている。これほど見事な歌碑は、県内でも屈指のものだ。後世にこの歌を伝えたいという気持ちがとても込められている。
私たちより前に、女性3人のグループが来ていた。「民謡をやっているんですか」と尋ねると「いえ。この歌碑ができたので見に来たんですよ。歌ってみたいですね」とのこと。女性たちは「この歌詞に書かれているとおりだったんですよ」と沖縄戦と戦後の県民の苦難を歌った歌詞に共感していた。
作者の恒敏さんは、沖縄戦で家族を失いながら、自分は生き抜いて、娘4人で民謡グループ「でいご娘」を結成して、活動していた。だが、米軍の車両に衝突され、亡くなった。
「でいご娘」の4人は、歌碑建立に奔走してきた。だれよりも碑の完成を喜んでいるだろう。
除幕式では、碑の前で「でいご娘」と子ども会が合唱した。その場には行けなかったので、写真はNHKテレビ画面から借用した。
実行委員長の池原玄夫さんが「世界に戦争の悲惨さと平和の尊さを発信する祈念塔になってほしい」とあいさつした。
恒敏さんの長女、艶子さんは「この歌がみんなの歌になり、世界中に戦争がないように歌い継ぎ、語り継いでほしい」と話した(「琉球新報」6月24日付)。
歌碑の横には、沖縄戦とこの曲についての説明板も設置されている。米軍は、読谷や嘉手納にあった日本軍の飛行場の攻略を目指して、読谷村から北谷町にかけての海岸に大挙押し寄せて、上陸した。
歌碑には、多くの人が訪れてほしい。
追記
「艦砲ぬ喰ぇー残さー」とは、沖縄戦で米軍の激しい艦砲射撃で幸い「喰い残された」、助かった県民のことを表現している。この曲は、そんな県民の戦後の米軍統治下の苦難のあゆみを描きながら、親兄弟らの命を奪い、郷土を破壊した戦争を憎み、平和の大切さを歌っている。
歌詞と和訳の内容は、アップしている写真をクリックして拡大すると読めます。
この曲と比嘉恒敏さんのことについて、このブログで何回か書いてきたので、そちらを合わせてお読みいただければ幸いです。
« 農民にとっての会津戦争、その4 | トップページ | 壮観、満開のサガリバナ »
「音楽」カテゴリの記事
- アルテで「肝がなさ節」を歌う(2014.02.10)
- アルテで「歌の道」を歌う(2014.01.13)
- アルテで「時代の流れ」を歌う(2013.12.15)
- 第30回芸能チャリティー公演で演奏(2013.11.24)
- ツレが「渚のアデリーヌ」を弾く(2013.11.18)
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
読谷村には、二つの歌碑ができましたね。
投稿: | 2013年6月26日 (水) 12時57分
コメントありがとうございました。
「さとうきび畑」の歌碑も読谷村です。「艦砲ぬ喰ぇー残さー」は、地元出身の比嘉恒敏さんの作詞作曲だけに、みなさんにとても歓迎されているようです。
投稿: レキオアキアキ | 2013年6月26日 (水) 15時13分
「艦砲ぬ喰え・・・・」 意味がわかりません。 多分 本土にいる人には 艦砲の意味さえもわからないと思います。 youチュープで 歌を聴きました。 当然 何言ってるのかさっぱり。 悲しい曲なのか 祝い曲なのかという印象です。
地元だけの共有財産では、もったいないような・・・・・。
投稿: | 2013年6月27日 (木) 11時46分
コメントありがとうございました。
おっしゃる通り、この曲についての説明を省いたので、意味不明ですよね。ごめんなさい。
「艦砲ぬ喰ぇー残さー」とは、沖縄戦の際、米軍の艦砲射撃、爆撃のなかで幸い生き残った県民を表現する言葉です。この曲では、戦争を生き残った人々が、米軍支配のもとでさまざまな苦難を強いられながら生き抜く姿を歌っています。戦争を憎み、平和の大切さを歌っています。
歌詞は、アップしている写真をクリックして、拡大すると、歌詞の内容とその和訳が刻まれているので、読むことができます。
この曲と歌碑の建立について、これまで数回、わがブログで書いてきたので、曲の内容、作った比嘉恒敏さんの悲運などについて省略してしまいました。ブログ内の、この曲についての他の文章もお読みいただければ幸いです。
投稿: レキオアキアキ | 2013年6月27日 (木) 12時04分
すみません。 突然にココだけ読んだので・・・。 丁寧なコメント ありがとうございますした。 ブログの中を旅してみます。(笑
七年ほど前 沖縄に初めて行き 乗ったタクシーの運転手さんが、身内の方が、
カンポウでやられたと 言われ カンポウ って 何ですか? と聞いたことがありました。 船からの攻撃でなんで死ななきゃならないのかと思ったくらいです。
戦争は、反対なのに 何もわかっちゃいない自分でした。
時々 この場で勉強させていただきます。 ありがとうございました。
投稿: | 2013年6月27日 (木) 18時07分
重ねてのコメントありがとうございました。
「カンポー」といっても、最初はわからないのが当然です。パソコンも「簡保ー」と出ますから。読谷村の歌碑が建てられた場所に、合わせて沖縄戦で読谷海岸に押し寄せ、海を埋め尽くす米艦船の写真があります。これを見るだけで、「鉄の暴風」といわれた艦砲射撃が様相が想像されます。
このブログでも、沖縄戦の「激戦の地を歩く」など、いくつかアップしてあります。のぞいてみていただければ幸いです。
投稿: レキオアキアキ | 2013年6月28日 (金) 11時57分