無料ブログはココログ

« 農民にとっての会津戦争、その1 | トップページ | 68年目の「慰霊の日」 »

2013年6月22日 (土)

農民にとっての会津戦争、その2

板垣退助の見た会津藩

戊辰戦争で東山道総督府の参謀をつとめ、薩摩の伊地知正治とともに、四千ほどの勢力で会津に侵入した板垣退助にも、合津藩の様相は驚きを与えた。
 
 「会津は天下屈指の雄藩であるから…急いで攻めて城を落とそうと、すなわち邁進したが、意外なことに、籠城していたのは士族出身者だけであり、一般の人民は知らぬ振りで戦争に拘わらない様子であった」(「板垣退助が語った会津戊辰戦争――平石弁蔵著『会津戊申戦争』序文」「大山格HP」から)。


 
 会津藩の未曾有の危機にあっても、「一般の人民は知らぬ振りで戦争に拘わらない様子であった」という。ただし、日本の戦国時代以来の城は、どこでも武士が戦うための軍事的な砦であるが、領民を保護する役割はもたない。だから籠城していたのは士族出身者だけというのは、当然のことかもしれない。

『板垣退助君伝記第一巻』(宇田友猪著 公文豪校訂)では、次のように記している。

「会津は天下屈指の雄藩である。政善く民富んで居る。若し上下心を一にし、力を戮(ア)わせ国に尽くしたならば、我三千未満の官軍だけで、どうして容易に之を降すことが出来ようぞ。唯だ此上は若松城下を墳墓と心得て斃れて後ち已むの外ないと覚悟した。然るに漸く馳突して其境土に臨んで見ると、豈(ア)に科らん一般の人民は妻子を伴ひ、家財を携へ、尽く四方に逃げ散り、一人の来って我に敵する者がないばかりか、漸次翻って我手足の用を為し、賃銀を貪って恬として恥ぢざる有様となった。予は深く其奇観なるを感じ、今日に至るまでも牢記して忘れなかった」

Photo

                猪苗代湖

「板垣退助が語った会津戊辰戦争――平石弁蔵著『会津戊申戦争』序文」に、同じ趣旨のことが現代語訳で掲載されているので、それを合わせて紹介する。

「もし上に立つ者とその下にある者が心を一つにし、力の限り藩に尽くせば、僅かに五千に満たない我が官軍がどうして容易に会津を降伏させることができよう。しかもこのように庶民が戦火を避けて荷物を背負って逃げ散り、少しも歴代藩主の恩に酬いようとする気持ちが無く、その滅亡を目の前に見て知らぬ振りをするように見えるのは果たしてどんな理由からであろうか」


 
 「もし彼らが真に藩から受けた恩を考えたなら、…会津全土の民が喜んで生命を犠牲にしてきっと自分の国を死守するであろう。ところがこのように一般人民に愛国心がない理由は、つまり身分の上と下が心が離れ、士族たちが楽な生活を独占し、平素にあって人民と分かち合わなかった結果に外ならない。安楽を共にしない者はまた苦難を共にすることが出来ないのは、理の当然であり、天下の雄藩たる会津にしても同様であって、言うまでもなく他の諸藩に於いても例外はない」

武士階級が民百姓から搾れるだけ搾りとり、安楽な生活を独占してきた結果、藩の上の者と下の者の心は離れて、藩が苦難に遭っても、「知らぬ振り」をして、戦禍を避けて逃げるばかりとなっていたのだろう。ただ、多少の差はあっても、「他の諸藩」でも農民の年貢は重く、同様の実情にあったのではないだろうか。

« 農民にとっての会津戦争、その1 | トップページ | 68年目の「慰霊の日」 »

歴史」カテゴリの記事

コメント

たびたび小生の出版物を取り上げていただき有り難うございます。先月(五月)下旬、高知から福島まで、10日余りかけて、戊辰戦争の土佐藩兵のたどったコースを全部走ってきました。いま、板垣退助の伝記資料を作り上げるため全精魂を傾けています。生きている内に完成できるかどうか予測もできない厖大な資料集です。おそらく、出版されることもないでしょう。しかし、これを踏まえて、私の「板垣退助伝」を書き上げることが、最後の目標です。幕末から明治、大正と3つの時代にわたる政治史を構想しています。、イメージは仕上がっていますが、基本資料が未完成なので、まだ筆を起こすに至っていません。政党政治が出発点からはらんできた諸問題を解明することで、現在の私たちが克復すべき諸課題を、板垣退助の生涯を材料に探ってみたいというのが、目下の問題意識ですが、どうなることやら。猪苗代湖は、行ってみると「海か?}と見まがうほど大きな湖でしたね。

公文豪さん。コメント ありがとうございました。
大河ドラマ「八重の桜」を見るまでは、会津藩のことも戊辰戦争のことも、詳しく知らないままだったので、板垣退助と土佐兵士の進攻についても、初めて知った次第。板垣退助と言えば公文さん校訂労作の「板垣退助君伝記」で、福島入りのことが出ているはずだと思い、使わせていただきました。
 板垣退助伝記資料はいまでは、失われたものも多いでしょう。独自に「伝記」も構想しておられるとは、ライフワークですね。健康に留意して、研究に精励ください。
 当方は、もっぱら歌三線にはまったままです。

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 農民にとっての会津戦争、その2:

« 農民にとっての会津戦争、その1 | トップページ | 68年目の「慰霊の日」 »

最近のトラックバック

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30