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2013年6月25日 (火)

農民にとっての会津戦争、その4

逃げ惑う武士家族にも冷淡?

農民と会津藩との関係では、藩主・家臣に対して冷淡だっただけではなく、武士の家族にも、やはり同じような冷たい対応があったという。

 新政府軍が若松城下に攻め入ったさい、武士の母、妻、子どもら家族は、過酷な事態に直面した。女性たちの中には、城内に入り、戦闘に参加した人たちもいた。
 だが、女子は戦闘の足手まといになり、食糧を減らすだけだと城内には入らない家族も少なくなかった。城門が閉ざされ入りたくても入れない人たちもいた。

 家族たちは、迫る新政府軍を前に危地にたたされた。武士道の精神を叩き込まれた家族たちは、捕虜になり辱めを受けること嫌い、家族そろって自害に追い込まれた。戦禍を逃れて避難民となって安全と考えた北の方に逃げて行く家族も多かった。

 「勢いにのった西軍は一気に若松城下へ侵入してきた。この際、武家階級の婦女子は入城したり、郊外へ避難した者もいるが、自刃した者は二百余名にのぼるという」。『戊辰戦争全史下』でもこう記している。
 
 避難民たちが、各所の農家に一夜の宿を依頼しても、係り合いになるのを恐れて断られた例が少なくない。やっと一軒家を見つけて泊めてもらうと、法外な礼金を請求されたなどの例もあった。

 農家が泊めるのを断ったのには、新政府軍が「藩の縁故の者を泊めた者は、厳罰に処す」という布告を出していた。だから、会津藩に恩義のある農民でも、恐れを抱くのは当然のこと。一夜、宿に泊めてもらうのも容易ではなかった。

 それに加えて、日ごろ圧迫されてきた人たちには、屈折した心理がある。

宮崎十三八編『妻たちの会津戦争』は、次のように解説をしている。

敗残の会津上級武士の家族が逃げ惑う姿を思う時、「哀れ」などと言うものを通りこした、「凄惨」なものすら感じられます。

会津北方の農民たちが、それでは冷酷無情、強欲な人たちであったのかと言えば、必ずしもそうではない多くの記録も現存しています。

「被支配者として、長い間抑圧に馴らされ続けてきた農民の心理が、時の支配階級に対して敏感に反応した現実的な農民の姿」

このように見るのが、もっとも妥当かも知れません。

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