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2013年6月21日 (金)

農民にとっての会津戦争、その1

 

 徳川幕府に最後まで忠誠をつくし、戊辰戦争で悲惨な結末を迎えた「会津藩の悲劇」を書いてアップした。関連資料を読んでいると、武士階級・家族が多大な犠牲を被った一方で、領内の農民・百姓は敗北した藩主や武士・家族たちに、冷ややかだったという話をいくつか聞いた。それは何故なのだろうか? その背景になにがあったのか、少し紹介したい。

 

重税で苦しめられていた会津農民

会津藩は、領主・松平容保のもとで、倒幕派の志士たちが集まる京都の京都守護職に就いた。幕府と長州・薩摩軍による鳥羽伏見の戦いが始まると、会津は朝敵の汚名を着せられた。将軍である徳川慶喜が江戸城を明け渡し、恭順の意を示して将軍の地位を退いてのち、会津の地は新政府軍による侵攻をうけ、降伏と悲劇的な結末を迎えた。

そのような、幕末の会津藩で、民百姓がどのような状態にあったのか。実際に現地で見聞した外国人の記録がある。新政府軍と行動をともにしたイギリス人医師ウィリアム・ウィリスの証言である(『英国公使館員の維新戦争見聞録』)。

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                      鶴ヶ城

イギリス人医師の証言

「残念ながら、会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。今後十年二十年に返済するという契約で、会津の藩当局が人民に強制した借款についての話がたくさんあった。会津の国の貧しさは極端なものである。家並は私が日本のどこで見たものよりもみすぼらしく、農民も身なりが悪く、小柄で、虚弱な種族であった。この国で生産される米はみな年貢として収めなければならなかった」

「戦争で破壊されるまえの若松とその近郊には、三万の戸数があり、そのうち二万戸には武士が住んでいて、あらゆるものがこの特権階級の生活を維持するために充当されたり税金をかけられたりしたということだ」

もともと農民は、藩財政と武士階級の生活を支えるために、重い年貢に喘いでいた。そのうえ、京都守護職に就任すると、さらに重い負担が加わった。日本の他の地方で見るよりも農民の家はみすぼらしく、身なりも悪く、「貧しさは極端なもの」だったという。「生産される米はみな年貢」として、納めさせられた。

徳川時代の農民への搾取は、どの藩でも厳しかったけれど、会津藩は、特に過酷だったようだ。

こうした圧政のもとでは、藩の領主、家臣と支配された民百姓とでは、おのずと会津戦争に遭遇しても、これへの対応と見る目には、大きな落差があった。

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