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2013年7月

2013年7月31日 (水)

オスプレイ「違反なし」とは!

 「合意違反の確証は得られていない」。防衛省による沖縄県の違反指摘に対する検証結果には、「あきれた」というか、「やっぱり」というべきかー。

 「空飛ぶ棺桶」との異名さえあった米軍垂直離発着輸送機のМV22オスプレイ。2012年10月の普天間基地配備以来、日米で合意した安全確保策や運用ルールを無視した傍若無人の飛行が目に余る。

 住宅地や学校などの上空を飛ぶ。ヘリモードで基地外の市街地も飛ぶ。夜の10時以降も飛び回る。重いコンクリートを吊り下げて飛ぶなどなど。住民からも、騒音や危険な飛行への不安と怒りの声が各地から上がっている。

 県は、318件の違反の飛行を指摘して回答を求めていた。防衛省の森田治男沖縄調査官は、「米側も日米合同委員会の合意に基づいて飛行していると繰り返し述べている。政府としてそれを否定するような立場にはない」というのだから、初めからアメリカ言いなりが基本スタンスである。
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 夜間飛行3件は認めても「運用上必要でない夜間飛行があったことは確認できなかった」と言う。アメリカが「必要だった」と言えばそれでおしまい。日米合意の安全確保策というのも、すべて「なるべく避ける」「できる限り」といった条件付き。どんな違反飛行であっても、「運用上必要だった」と言い抜けできる仕掛けになっている。

 日米合意そのものが、オスプレイの配備を強行するための、目くらましか、ごまかしにすぎなかったことが、今回の検証結果でも明白になった。日米両政府がそれを白状したようなものだ。

 しかも、すでに配備された12機に加え、新たに12機を配備するため、米軍岩国基地に搬入したその日に、検証結果を出した。これも、「違反はしていない」と改めてアピールするための見えすいたやり方だ。

 米軍と防衛省が、どんなに「違反はしていない」と言い張っても、沖縄と日本の空を飛びまわるオスプレイの飛行の現実そのものが、日々違反の事実を白日のものにさらけだす。これは、隠しようもない。

 追加の12機は8月上旬には、普天間基地に搬入される見通しだ。配備数が倍加すれば、訓練飛行の回数も倍加するし、騒音もひどくなる。墜落を含めた事故の危険性はさらに高くなる。県民の不安も増大する。日米両政府への不信と憤りも高まることは間違いない。

2013年7月29日 (月)

組踊「手水の縁」の動画を見る

 平敷屋朝敏の処刑地について書いたついでに、彼の作品である組踊「手水の縁」がユーチューブにアップされているので、関心のある方のために紹介しておきたい。

  組踊(クミウドゥイ)は、歌三線、踊り、科白による伝統芸能である。数ある組踊作品でも「手水の縁」は、異色の作品である。

 この動画は、国立劇場おきなわの組踊研修終了生でつくる「子の会(しーのかい)」の公演だ。第1回は、「手水の縁」の最初の「出会いの場」である。このあとは、数回に分けてユーチューブにアップされているので、続きは直接、そちらで見ていただきたい。

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 瀬長山に花見に出かけた若い山戸が美しい玉津を見染める。昔から男女の縁結びの行為といわれた手で水を汲んでもらった縁で二人は心が結ばる。王府時代には、結婚は親が決めることで、自由な恋愛はご法度だった。親に見つかった玉津は、処刑とされる。その時、駆けつけた山戸は、命がけで助命を願い、二人の純粋な愛情が通じて二人は結ばれるという物語だ。

 山戸が語るセリフにこうある。「いかな天竺の 鬼立の御門も 恋の道やれば 開きどしゆゆる」。どんな天竺の鬼といえども、命をかけた若い男女の恋の道はとどめられない、という意味だ。この組踊の主題が集約されたようなセリフである。

 

封建社会は、親が認めない恋愛は不義そのもの。それが儒教の道徳であり、社会的な秩序でもあった。山戸が、命を賭して彼女を処刑から救い、自分たちの恋愛を成就させるという内容は、同時代の組踊、文学とは次元を異にする画期的な作品である。

 朝敏は、「手水の縁」を書き上げると尚敬王に差し出したが、封建的義理の否定が主題となっているため、王は非常に驚き、重大な問題として下臣に謀ったところ、秩序を乱す者として処刑と決定したが、彼の和文学の指導を受けたことのある一五人役の一人の多嘉良親方の弁明でやっと助かった、というといういきさつがあったとも伝えられる(玉栄清良著「組踊 手水の縁の研究」)。

 ただ、作者の朝敏は、すでに書いたようにその後、政治犯として処刑されることになった。悲劇の文学者たるゆえんである。

 興味のある方は、このブログに「琉球悲劇の文学者、平敷屋朝敏覚書」をアップしてあるので、そちらを見たいただきたい。

 

2013年7月28日 (日)

夏祭りはやっぱり近くの団地

 夏祭りが各地でいま真っ盛りだ。学校が夏休みになって最初の土日曜日なので、あちらこちらで祭りがある。

 ヤンバルでも、夏祭りが多い。でも、やっぱり祭りはわが家の近くの県営国場団地の祭りがいい。今年で26回目。毎年、楽しみにしている。というのも、団地夏祭りは、ビアガーデンとなるからだ。

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 出かけると、売店は並んでいるが、チケット売り場がオープンしていない。ビールが買えない。困っていると、「ハイ、これどうぞ」とオープン前なのに、ビールを出してくれた。

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 今年のテーマは「地域揃てぃ踊てぃ遊ばな」。「地域のみんなが揃って踊り、遊ぼう」という意味。つまり、県営団地だが、近隣の住民も一緒に楽しもうという趣旨。われわれのような団地外の者も、早くいって座っていると、自治会長さんが「毎年来ていただきありがとうございます」とご丁寧に挨拶していった。


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 祭りのオープニングは、恒例の「エイサーしんか 琉鳳古蔵」によるエイサー。今年は、紅白歌合戦でも歌われた、HYの「ときをこえ」も踊った。おばあに聞いた沖縄戦をテーマにした平和ソングだ。

Img_3078 子どもたちの空手演舞も毎年出演しているが、なんと子どもの数がすごく増えている。空手人気は、高まっているのだろうか。

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 人気あるのが、女性によるビール早飲み大会。みんな見事な飲みっぷり。

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 舞台は、フラダンスや民謡ライブなど続いた。ビールに泡盛に酔いしれた夏の夜だった。

2013年7月26日 (金)

F&Yの「あの人の手紙」に感動

 沖縄のフォークユニットF&Yのライブを毎月楽しんでいる。7月も糸満市の「風は南から」であった。今回は、ツレがホテルのビアガドームでのミスター☆ジョークマン(ふーみの別名)のライブで知り合ったOさんをお誘いしたら、ご夫婦でわざわざ那覇市から来てくれた。

 F&Yの「ふーみ」さん(左)は、「かぐや姫」の大ファンでかれらの曲を得意としている。「yosiaki」さん(右)は、NSPが得意だ。ライブでは、二人とも幅広く、フォークからニューミュージック、洋楽までこなす。Img_3038

 「ふーみ」さんは、南こうせつとも個人的に付き合いがあるし、歌もうまい。「yosiaki」さんは沖縄を代表するスーパーギターリストだ。だから、二人のライブは、カバー曲が多いが、どれも原曲演奏を超えるような水準だ。

 Oさん夫妻も、ちょうどフォークを聴いた世代。奥さんは、かぐや姫の大ファンだったとか。最初から、懐かしい楽曲にすっかり聴きほれて楽しんでいた。Img_3046 盛り上がると、みんな踊り出す。Oさんも舞台前でツレといっしょに踊る。「ふーみ」さんが、Oさん二人がつき合っていた時の思い出の曲「遥かなる想い」も急きょ、演奏してくれた。青春時代がよみがえったようだった。

 ライブのことを書くと長くなる。書きたかったのは、かぐや姫の反戦歌の名曲「あの人の手紙」だ。伊勢正三作詞、南こうせつ作曲。「ふーみ」さんも、この曲への思い入れがあるようで、レパートリーに入れて、いつも歌ってくれる。

 私は、世代的には同時代としてかぐや姫の曲はあまり聞いていなかった。だからこの「あの人の手紙」も、「F&Y」ライブで、30数年遅れで知った。

 「泳ぐ魚の群れに 石を投げてみた 逃げる魚達には 何の罪がなるの」と歌い出す。愛する夫が、戦地に送られる。ある日、夫が帰ってくる。抱きしめてくれた手は冷たい。実際にはもう戦死していることを、妻は知っている……。

 F&Yの動画でアップしたいが、残念ながらユーチューブにはアップされていない。仕方ないので、南こうせつと夏川りみが歌ったライブの動画を紹介する。

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 F&Yのライブは、南こうせつに、勝るとも劣らない演奏だ。今回の「風は南から」ライブも、熱い歌声に魂をゆすぶられるようだった。

 

 F&Yの演奏も、まだわがブログで、動画を紹介していないので、この日にアンコールで演奏した、吉田拓郎の「落陽」と井上陽水の「夢の中へ」の別のライブハウスでの動画を紹介しておきたい。二人の演奏を聴いてみてください。

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2013年7月24日 (水)

平敷屋朝敏の処刑地、その2

 平敷屋朝敏の処刑地といわれる那覇市安謝の恵比須神社を訪ねたさい、神社の下に大きなガマがあった。ガマの入口には、3本の木柱が立っている。その前は、御願(ウガン)の場ともなっている。ガマの奥も、拝所になっている。Img_3012_2 神官の奥さんがいたので、「何というガマですか」と尋ねてみた。「龍神といわれてますよ。海につながっているんです。みなさんが拝みにいらっしゃるんです」と奥さんはいう。
 「沖縄戦のときは、このガマに隠れたんじゃないですか?」と聞くと「そうですね。隠れガマになっていたようです。戦後は遺骨がたくさんあったんです」。

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 「あの3本の木柱はなんのためですか?」「あれは、無縁霊を弔うためですよ」。沖縄戦のあと残っていた遺骨の多くは、名前もわからない無縁の死者だっただろう。

 ガマは昔から拝所となっていたのかもしれない。詳しくはわからない。ガマは、住民の御願の場所となっているそうだ。

2013年7月23日 (火)

平敷屋朝敏の処刑地を訪れる、その1

 伝統芸能の組踊「手水の縁」の作者で悲劇の文学者、平敷屋朝敏(ヘシキヤチョウビン)は、那覇市安謝で処刑された。その場所がどこなのかは知らなかった。「恵比須神社のあるところが処刑の地だ」と聞いたので、訪ねてみた。

Img_3010 朝敏は、1734年、当時、琉球を支配する薩摩が那覇に置いていた出先機関である在番奉行の横目、西川平左衛門宅に、王府を批判したとみられる投書をしたとして、友寄安乗ら和文学の仲間とともに捕らえられた。6月26日、安謝港で朝敏をはじめ15人が処刑された。

 Img_3014 国道58号線を北に進んで、安謝交差点の一つ手前の道を左折して進むと左手に見えてくる。鳥居があり、登ると神社の拝殿がある(上)。

 ちょうど、神官さんとご家族がいらっしゃった。「平敷屋朝敏がここで処刑されたと聞きましたが」と尋ねた。「その場所はこの裏です」と拝殿の裏に連れて行ってくれた。「霊感の鋭い人によると、ここで処刑されたようです」と神官さんが指したのは、建物裏の鳥居の上の草木の茂る一角だった(下)。

Img_3016 「神社が処刑の地というのはおかしい気がしますけれど?」と尋ねると「いや、この神社が出来たのは戦後ですから。琉球八社の一つ、沖宮の末社になります」という。それで納得した。

 「平敷屋朝敏ら3人がここで処刑されたけれど、その後、誰かがこの安謝の隣の部落に遺骨を運んでお墓に埋めたそうですよ」と教えてくれた。朝敏と親しかった人たちが、密かに遺骨を運んで葬ったのだろうか。
 ただ、朝敏と処刑について書かれた看板など、残念ながら何もない。

 朝敏について書くと長くなるので、このブログで何回かアップしてあるので関心のある方はそちらを見ていただきたい。

Img_3017 拝殿の裏山のような場所には、いくつもの石碑が建っている。この神社の主な祭神は、恵比須大明神、大国大明神、混比羅大明神だとのこと。石碑にはそれらしい名前が刻まれている。Img_3018 それだけでなく、沖縄の土着の神も祀られている。「地頭火ぬ神」の名前が見える。

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 石碑の上には、さらにまた拝所がある。Img_3019

 銅像や丸くて青いガラス玉のようなものも、祀られている。神官さんは忙しくて、これらのついては詳しく聴けなかった。Img_3022 処刑された朝敏と仲間たちは、限りなく無念なことだろうが、その場所がこういう拝所になっているのは、鎮魂の場所としてはふさわしいのかもしれない。


 

2013年7月22日 (月)

沖縄の民意は、安倍政権ノーだ

 参議院選挙沖縄選挙区では、社大党委員長で共産党、社民党らが推す糸数慶子候補が、自民党の安里政晃候補を破って、見事に三選を果たした。

 糸数さんは、選挙戦で「辺野古新基地を許さず、普天間飛行場の即時閉鎖」「オスプレイの再配備反対」「憲法96条や9条の改悪反対」など強く訴えた。

 自民党は、安倍政権が県民の総意を無視して進める辺野古移設の推進を公約でも掲げた。沖縄では、自民党本部とは真逆の「県内移設反対」を掲げ、基地問題が争点になるのを避けるごまかしを行った。
 その自民党候補に3万3028票の差をつけて勝利した。これは、糸数さんの訴えを県民が強く支持したことを意味する。つまり、県民の民意は、辺野古ノー、オスプレイ配備ノー、憲法改悪ノーだということ。つまりは、安倍政権そのものへの「ノー」でもある。

 選挙結果を報道する「琉球新報」も、一面大見出しで「辺野古、改憲にノー」と報じた。この選挙結果を、安倍政権は重く受け止めるべきだ。仲井真県知事も、同じくこの結果をしっかりと認識すべきである。

 ついでにふれておきたいのは、民主党の凋落である。とくに沖縄では、不可解な動きがあった。新島メリーなる中高年女性が突如、立候補した。その経歴は、糸数さんと同じ、平和バスガイドをしていたという。政策では、「軍事基地はいらない」「憲法9条は世界遺産に」と言う。それなら、糸数さんを応援すればいいだけのこと。あえて、同じような経歴で、平和を訴えるというのは、糸数候補への支持票をかすめ取る役割を果たすだけだ。糸数候補の当選を妨害するために出馬したのではないかー。立候補の背景に怪しい動きを感じた。

 ところが、なんとこの候補者を応援したのが、民主党沖縄県連の喜納昌吉代表である。かつては、沖縄ミュージシャンを代表する存在だった。その彼が、県民の「平和の1議席を守ろう」と懸命に奮闘する糸数慶子さんの当選妨害のために動くとは、にわかに信じられないくらいの退廃ぶりである。怒りを通り越して嘆かわしい思いだ。

 まあこれは、選挙の大勢にはなんの影響も与えない瑣末な出来事である。ただ、記憶にとどめておくべきことではあると思った。

 

2013年7月20日 (土)

雨が降らない、農作物は悲鳴

 沖縄は毎日、ガンガン照りの日が続く。梅雨明けの6月14日より前から晴れ続きで、もう40日以上まともな雨は降っていない。

 観光客にとっては、好都合だけれど、農作物や公園の草花、木々も雨不足で「参った」と悲鳴を上げている。予報では、まだまだ雨が降りそうにない。今月中旬までで、およそ一カ月平均の降水量は平年に比べて、本島の那覇市や名護市は16%、久米島は10%、南大東島に至っては、わずか6%だという(NHK沖縄のニュース)。

 台風7号が通過したけれど、本島や宮古島など雨は降らせなかった。それに、台風の接近そのものが、例年より少ない。

 民謡サークルで知り合いのハルサー(畑を作る人)のおじいに聞いてみた。「雨が降らないから、もうなんもだめさあね」と嘆いていた。

 近所のJA国場の農産物直売所のハルサーおばあも、「雨降らんさー。困ったねー」と話していた。並べている野菜が少ない。特に葉野菜は少ない。トーガン、ゴーヤー、ナーベラー(ヘチマ)ばかり多い。

 一番の打撃は、サトウキビらしい。畑は地面にヒビが入り、水分不足で、サトウキビが水分蒸発を抑えるために葉を巻くロール現象が起きている。サトウキビは、暑い夏の時期に最も成長するので水が必要だという。このままだと、大きな影響が出るようだ。

 こんなときは、雨乞いをするのが、古くからの風習だろう。
 宮古島では、19日から2日間の日程で夏祭りが始まった。漲水御獄(ハリミズウタキ)と宮古神社では、豊年祈願祭が行われた。「ツカサ」と呼ばれる神女の祈願があり、各地域のクイチャーを踊り、五穀豊穣を祈願したそうだ。101_2                宮古島の漲水御獄

 クイチャーとは、「声を合わせる」ことを意味する。円陣を組んで「ニノヨイサッサ」と掛け声をかけ、踊る。とても軽快な歌と踊りだ。

 長浜政治副市長は「クイチャーを一生懸命踊って、恵みの雨を降らそう」と呼びかけた(「宮古毎日新聞」)。

 宮古島では、台風7号で塩害も起きている。加えて雨不足だ。台風が被害を与えるのは困るが、直撃せずに恵みの雨だけ降らして通り過ぎてほしいと思う人もいるだろう。

2013年7月19日 (金)

庄内藩の戊辰戦争、その4

なぜ藩主・家臣・領民の深いきずながあったのか

 

 なぜ、藩主と領民のきずなが深く結ばれていたのか。前にアップした「農民にとっての会津戦争・番外編」の中で、少し書いたことだ。

借金が膨らんだ藩は、1767年に始まる藩政改革で、酒田の大地主、本間家の当主・本間光丘に財政立て直しを委任した。光丘は、藩士・農民らの借財を一切肩代わりし、出費の無駄を削減して、借金返済を行った。飢餓に供えて備蓄米もたくわえた。

1795年にも、老中を中心に農政改革を実行し、富農に困窮与内米を課し飢餓時に農民を救うなどの政策も行なった。東北地方が大凶作になったときも、庄内藩では比較的、餓死者が少なかったそうだ。

「藩政改革(18世紀)以後、領民を手厚く保護する政策が基本姿勢となり歴代藩主はこれを踏襲した。領民もこれに感謝の念を抱いていた」という(ウィキペディア「庄内藩」)。
 庄内藩では1840年11月、幕府が「三方領地替」と呼ばれる三藩の領地替を命じてきたことがある。庄内藩は越後長岡へ、長岡藩は武蔵川越へ、川越は庄内へ、転封させるというものだ。

庄内藩は、石高14万石(実質20万石)だったが長岡は石高7万4千石で、ほぼ半減である。この幕府の命令を知った農民たちは、村ごとに代表者を決めて、江戸に派遣して、幕府に領地替の取り下げを直訴した。

幕府への農民の直訴は本来なら死罪にも値する行為だ。「従来領民の直訴といえば藩政の非を訴えるものであるが、領民による藩主擁護の行動は前代未聞であり、逆に幕府役人より賞賛された」という(「ウィキペディア 庄内藩」)

 本題から、相当ずれてしまったが、藩の一大事となった際、藩主・領民の深いきずなは、さまざまな形で大きな力となって発揮されたのではないだろうか。

 戊辰戦争で、東北の各藩はそれぞれに悲哀を味わった。地獄のような結末を迎えたところところがあれば、領地を戦場として荒廃させることなく、比較的軽い被害で終わった藩がある。その結末は対照的である。

別に、庄内藩を賞賛するつもりはない。もともと東北諸藩と戊辰戦争の歴史は、まったくの門外漢だ。あれこれ意見を言うほどの見識もない。ただ、戊辰戦争のような各藩の存亡にかかわる重大事を迎えて、それぞれ各藩の対応が問われた。その結果として、こういう違いはどこから生まれてきたのだろうか。さまざまなことが考えさせられる歴史である。

2013年7月18日 (木)

庄内藩の戊辰戦争、その3

庄内藩はなぜ強かったのか

 

ここで興味が湧くのは、なぜ庄内藩は戊辰戦争でそんなに強かったのだろうか、ということ。小説ではあまり突っ込んだ解明はない。庄内藩の歴史と特質についても、詳述していない。背景には、大地主の本間家の資金提供で新式銃を購入するなど軍備の増強をはかっていたことなどがあるだろう。
 
 庄内藩といえば、その特質として「藩主・家臣・領民の結束が固い」ことがあげられる。戊辰戦争にあたって、藩主・武士と領民が一体となって、向かってくる敵に立ち向かう体制があったという。
 
 そのひとつの表れに民兵がある。戊辰戦争で庄内藩の動員した兵士は、約4500人といわれるが、そのうち約2200人は農民や町民といった領民たちで構成されていた。「この民兵の割合は非常に異例なもの」(「西郷隆盛のホームページ・敬天愛人」)。藩の未曾有の危機に対して、藩士・領民がこぞってたたかう「挙藩体制」がとられていた。

 たんに数だけ整えるということではない。民兵の教練にも藩は力を入れていた。それに、藩主・家臣も領民も一体となり、いわば「自国を守る」という意識が浸透されていれば、戦闘に際してのモチベーションも高い。藩士・領民の強い協力関係もさまざまな場面で力を発揮したことだろう。

 会津藩に進攻した官軍が出会った光景とは、明らかに大きな違いがある。

会津は天下屈指の雄藩である。政善く民富んで居る。若し上下心を一にし、力を戮わせ国に尽くしたならば、我三千未満の官軍だけで、どうして容易に之を降すことが出来ようぞ。唯だ此上は若松城下を墳墓と心得て斃れて後ち已むの外ないと覚悟した。然るに漸く馳突して其境土に臨んで見ると、豈に科らん一般の人民は妻子を伴ひ、家財を携へ、尽く四方に逃げ散り、一人の来って我に敵する者がないばかりか、漸次翻って我手足の用を為し、賃銀を貪って恬として恥ぢざる有様となった。予は深く其奇観なるを感じ、今日に至るまでも牢記して忘れなかった」(『板垣退助君伝記第一巻』宇田友猪著 公文豪校訂)

 板垣退助は、会津は雄藩だから,藩主・領民が心を一つに力を合わせて戦ってきたら、容易に倒せない。覚悟して入った。しかし、一般人民は妻子を伴い、家財を持って逃げ散るばかり。官軍に敵対する者がいないばかりか、官軍の「手足の用を為し、賃銀を貪って」恥じない有様だったと述べている。

 これだけで一面的に判断することはできないが、同じ官軍とたたかった藩でありながら、一般人民の対応には、相当な違いがあることは確かだ。

 

 一方、庄内藩では、官軍が清川附近に攻め入ろうとした時、戦況は圧倒的に新政府軍に有利に展開していた。だが、「近隣の多数の農民たちが庄内軍に協力、旗や幕を持ち出して総督府軍(新政府軍)の背後の山に登り、大声をあげて驚かせた」。庄内軍の増援も到着し、官軍はとうとう撤退した(『戊辰戦争全史上』)。こうした事例も、藩士と領民の一体の協力関係があってこそだろう。

 

2013年7月17日 (水)

庄内藩の戊辰戦争、その2

小説『新徴組』で描かれた庄内藩

 前置きが長かった。著者の佐藤賢一氏は、庄内藩の中心、鶴岡市の出身だ。小説は、浪士らで編成され庄内藩の支配下に置かれた新徴組をテーマにしている。新撰組の沖田総司の姉と結婚し、沖田家に婿入りした沖田林太郎を中心に描いている。といっても、小説は実際には「戊申戦争と庄内藩」が主題といってもよい。著者の藩の郷土への強い誇りと愛着が感じられる。

 私の個人的な関心は、戊辰戦争の最後の結末のところにある。
 
藩主が降伏を決意し家臣にはかる場面が描写される。

 「我ら武士だけの話ではない。領民のことも考えなければならないのです。武士が本懐を遂げられたところで、それが民人の迷惑になるならば元も子もない」
 
 降伏の覚悟を決めた藩主・酒井忠篤(タダズミ)は家臣をこう説得する。
 
「先に負けた会津は、現に地獄をみております」「我が庄内も薩長の奴ばらに同じ目に遭わされるのですぞ」
 
 反対する家臣。だが、藩主はその反対を制して、官軍への謝罪降伏を決断する。


 降伏して庄内藩は、地獄を見たのか。そうではなかった。
 明治元年12月、庄内藩への処分が下された。17万石から12万石へ減封、酒井家は藩主忠篤が隠居、その弟忠宝(タダミチ)が家督を継ぐ形で家名存続など。驚くほど軽い処分だった。

 
 巧妙に立ち回った米沢藩が、18万石から14万石に減封、仙台藩は62万5千石から28万石に削られ、会津藩にいたっては23万石から一気に3万石に落とされ、下北半島の斗南藩に転封された。庄内藩も磐城平転封が命じられたが、その後取り消された。


 なぜ、処分が軽かったのか。小説は、「全て西郷先生(隆盛)の御指示でごわした」と官軍側に語らせる。庄内藩は強かったから、「会津藩並みの厳罰を降すことも無理だったろう」。

江戸の薩摩屋敷が庄内藩によって焼き打ちされた経過がある。薩摩藩は恨みがあったはずだ。でも、西郷隆盛の判断で、軽い処分にされた。これに感激した庄内の人々は、その後、西郷に敬服して、交流を深めたという。

 

2013年7月16日 (火)

庄内藩の戊辰戦争、その1

庄内藩の戊辰戦争

 

 「朝敵」とされた会津藩、庄内藩

戊辰戦争では、東北の藩として同じく「朝敵」とされて、最後まで戦った会津藩と庄内藩。会津藩のことを書いたついでに、庄内藩に少し興味をもった。庄内藩が舞台になっている佐藤賢一著の小説『新徴組』を読んでみた。読んでみて改めて、考えさせられるところがあった。

 東北の諸藩は、戊辰戦争では薩摩、長州などの官軍に対して、それぞれ対応を迫られた。東北の諸藩は、奥羽越列藩同盟を結んで官軍と対峙した。だが、途中で恭順の意を示した藩。降伏を拒み官軍に攻められ開城に至った藩。早くから官軍に味方した藩など、対応は分かれた。
 
 庄内藩は、今の鶴岡市が本拠地である。庄内平野は米どころで、酒田は北前船の寄港地として栄えたところだ。戊辰戦争より前から軍備の近代化を進め、官軍にも対応できた。戦闘ではとても強かった。官軍は、同じ東北の藩のなかで、恭順の意を示した秋田藩、新庄藩らを庄内藩への戦闘に駆り立てた。庄内藩は、攻め込まれるどころか、逆に新庄、天童領内などに攻め入り、秋田藩にも兵を進めた。


 しかし、官軍の攻勢の前にして、奥羽越列藩同盟に属した近隣の米沢藩、仙台藩も官軍に降伏する。頼みの会津藩も降伏に至った。
 官軍に最後まで抵抗した庄内藩は、戦争では敗れない、領内への侵攻も許さなかった。けれども、戊辰戦争のこうした趨勢のもとで、とうとう官軍に降伏の意を示し、開城することになった。ここまでは、前置きである。

2013年7月14日 (日)

アルテで「南洋小唄」を歌う

毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーの7月のテーマは「南」。今月は、エントリーが終わると、次の用事があるので、自分たちの出番が終わると引き揚げた。だから、前半の1部しか見ていない。

今回、RBCラジオのヘビーリスナーで落語家の「あにたまき」こと「南亭こったい」さんが、音楽の出演が始まる前の時間に落語を披露することになった。

江戸の長屋の怪談話を披露した。30分近いが、まだそれでも前半だけだとか。落語の世界に浸り、楽しんだ。これから毎月、披露してくれるという。

Img_2855 三線はTさんと私の二人だった。Tさんは、なんと1925年に作られたという大衆歌謡「酋長の娘」を三線を弾き、歌った。驚いたのは、Tさんによると、この歌のモデルは、高知県出身の森小弁(コベン)という人。1892年にミクロネシアのトラック諸島にわたり、現地で酋長の娘(イザベル)と結婚したという。高知出身の私も初めて聞く話だった。Img_2865
 ネットで調べてみると、次のことがわかった。
 森小弁は、自由民権運動にかかわっていたが、やがて政治に失望し、南洋貿易に夢を託した。それで横浜から一人で南洋へ旅立った。

トラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク州)で、一時期、南の島支配の野望を抱いたが、酋長の娘と結婚して現地に同化。貿易で得た利益をで学校を建てるなど島の民生向上に尽くしたという。

今は彼の4,5代目の子孫が1000人ほどもいて、ミクロネシア連邦の7代目、エマニュエル・モリ大統領は、森小弁のひ孫にあたるというからビックリ。人口11万人ほどの中で、その子孫は一大勢力である。モリ大統領は、高知県も二度訪れたそうである。

 もう一つ発見したのは、彼がもともと自由民権運動にかかわったということ。それなりに進歩的な思想をもっていたのだろう。でも、挫折したのか、自分の活路を南洋群島に見出したようだ。
 実は、沖縄自由民権運動の闘士たちも、民権運動が激しい弾圧などで行き詰ったとき、新天地をハワイ、アメリカ大陸への移民に見出した。だから、金武町出身の當山久三など、移民の父と呼ばれている。思考の回路として共通するものがあるのだろうか。

 今回は、私も南洋で作られた民謡「南洋小唄」を歌った。

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 南洋群島は、戦前日本の統治下にあり、たくさん移民、出稼ぎで出かけていた。サトウキビ栽培が盛んだったので沖縄からは特に多く出かけた。南洋の日本人の3人に2人はウチナーンチュだったと聞く。沖縄人街がつくられ、沖縄芝居の小屋もあり、役者、唄者もたくさん渡った。南洋は「楽園」のように、見られていた。
 南洋群島について、このブログで「南洋群島のストライキ」をアップしているので、興味のある方は、そちらを読んでほしい。
 歌の歌詞は次の通り。

♪恋し故郷ぬ 親兄弟と別りよ 憧りぬ南洋 渡て来しがよ
♪寝て覚て朝夕 胸内ぬ思やよ 男身ぬ手本 なさんびけいよ
♪幾里ひじゃみてん 変わるなよ互によ 文ぬ交わしや 無女が情けよ
♪明けて初春ぬ 花咲ちゅる頃によ 錦重にやい 福て戻らよ
 

 
和訳すれば次のようになる。
恋しい故郷の親兄弟と別れて、憧れの南洋に渡ってきた
朝夕思う事は、男としてひと旗あげて、故郷に錦を飾ること
♪遠く離れていても互いに変わるなよ、手紙を交わそう 彼女の愛情の証しだ
年が明けて花咲く季節には、豊かになって帰ってくるよ

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 サークルで使う工工四(楽譜)はこれで終わっている。でも、「楽園」と思われた南洋群島は、太平洋戦争で米軍が進攻してきて、地獄と化した。沖縄人の死者は1万2800人を超えるという。なにか、この後の歌詞がほしいと思っていた。知名定男さんのCDを聴くと、次の歌詞が付け加わっていた。

♪あん言ちょて行ぢゃる 人や何がしかよ 今やサイパンの
土となたみよ
(そう言って出て行った 人はどうなっただろう 今はサイパンの
土となった)

 歌はなんとか歌えたが、三線は簡単な演奏なのに、ミス多し。終わるとすぐに出たので、感想は聞けなかった。

 ツレは、サザンオールスターズの「真夏の果実」を、N君のアコースティックギターの伴奏で歌った。ギター一本で歌うと、サザンのにぎやかな演奏とは違って、バラード曲のようにしっとりと聴かせてくれた。声ものびやかに出ていたと思う。Img_2872
 2部の演奏は聞けなかった。打ち上げにも出れず、残念だった。次に機会に楽しもう。


 

2013年7月11日 (木)

動画でバリガムランを聴く

" 沖縄県立芸大でのジャワガムランの演奏をアップしたので、比較して聴いていただきたいので、バリガムランもアップする。

 これは、2010年11月の芸大学園祭のときの演奏である。

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 打楽器の響きは強く、時に激しくなる。踊りも素晴らしい。

実際に動画で比べてみると、その違いは一目瞭然だ。どちらがよいのかは、それぞれの受け止めと好みの問題である。私の個人的な好みでいえば、より庶民的で、リズムと響きの躍動感があるバリガムランが好きだ。

 県立芸大のガムランは、ジャワとバリの両方のアンサンブルがあり、精力的な活動を続けて、日本の大学でも有名だという。とくに、バリのアンサンブルは、日本における代表的なガムラン奏者の一人と言われる梅田英春准教授の指導の下で意欲的な活動が行われているとのこと。

 

 

2013年7月10日 (水)

動画で聴くジャワガムラン

 沖縄県立芸大のガムラン演奏を先日アップした。でも、写真だけではその音楽はわからない。ユーチューブを見ていると、2012年11月の県立芸大の学園祭の際の、ジャワガムランの演奏がアップされていた。

 私が昨年、学園祭で見たのは、バリ島のガムランだったので、ジャワは見ていない。それで、この動画をアップしておきたい。

 ジャワガムランは、宮廷で発達したといわれ、ゆったりとしたテンポだ。ガムランの楽器は主に青銅でできている。打楽器なので、打ち鳴らすのだけれど、その音もとても柔らかだ。癒しの音楽である。

 バリのガムランもアップされているけれど、バリの方は、またの機会としよう。

 アルテのギターサークルのメンバーであるまゆゆさんの顔も見える。ジャワでも、バリでも出演している。この時はまだ芸大1年生。なのにスゴイ活躍である。

 ジャワガムランは、この時の演奏でも、踊りはない。なぜだろうか。それに、ジャワは、自分たちで歌いながら演奏する点でも、バリとは異なる。

 また、三線を加えて沖縄民謡「てぃんさぐの花」を演奏している。三線とのコラボが好きらしい。これも、バリとは異なる。バリだと、三線とのコラボは難しいだろう。ジャワは、ゆったりしているからコラボしやすいのではないだろうか。

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2013年7月 8日 (月)

「ねじれ」を考える

 参議院選挙でマスメディアは「衆参ねじれの解消が争点」と盛んに唱えている。はたしてそうなのか。衆議院で自民・公明与党が圧倒的多数を持ち、参議院では野党が過半数をもつことは、二院制のもとで何ら不思議なことではない。むしろ、参院で野党がまともな野党らしい態度をとれば、与党の数の横暴にブレーキをかける役割をもつ。民主主義にとっては健全なことだ。

 あえて「ねじれ解消が争点」というのは、自民党の立場から見た「争点」である。マスメディアまで、そのような争点づくりをすること自体、偏向報道に値するだろう。

 「ねじれ解消」とは、衆議院で多数を握る自民党が、参議院でも過半数を握りたい。かれらが狙う憲法改悪、自衛隊を「国防軍」にしたいなど、こんな野望をスムースに進めるためには「ねじれ解消が必要だ」と言うだけのことである。

 「ねじれ」というなら、むしろ国民世論と自民党が多数を握る国会との間が「ねじれている」という主張がある。その方が当を得ているだろう。なぜなら、危険な原発の再稼働反対、憲法9条の改悪は反対、などの声は、世論調査でも国民の多数を占めている。にもかかわらず、自民党は、原発再稼働に走ろうとしている。改憲も公約である。
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      普天間基地に配備されたオスプレイ(テレビ画面から)

 

 「ねじれ」といえば、沖縄でも問題になっている。それは、普天間飛行場の閉鎖問題だ。自民党本部は、「日米合意」に基づく「辺野古への移設を推進する」と明記した。しかし、自民党沖縄県連は「県外移設」を地域版公約に掲げている。

 しかし、これを「ねじれ」というのは皮相な見方である。普天間飛行場の閉鎖・移転は、国政上の問題であり、政権党の自民党本部の公約しか意味を持たない。現に安倍内閣は、辺野古移設を推進し、埋め立て申請まで行っている。

 県連が公約に掲げたからといって、何ほどの意味を持つのだろう。県民の目をごまかす欺瞞でしかない。なにより、参院選で、「県外」を掲げて、辺野古移設問題が選挙の一大争点になることをそらせる役割を持つ。この間の沖縄の各種選挙で、自民党は一貫して「県外」を唱えることで、争点をそらせようとしてきた。

 そればかりか、「県外」を公約して当選した自民党のN衆院議員、S参議院議員は、安倍内閣が誕生するやいなや、いとも簡単に公約をかなぐり捨てて、辺野古移設賛成に転じた。
 「県内移設反対」という県民の総意に背を向けて、公約破りをした自民党議員に、新聞の投稿欄でも、激しい怒りの声が相次いで掲載された。

 そういう点でも、自民党の本部と県連の異なる公約は、「ねじれ」でもなんでもない。辺野古移設推進への県民の批判をかわすための「いちじくの葉」にすぎない。県民は、きっぱりとした審判を下すだろう。

2013年7月 6日 (土)

ジャワとバリのガムランを聴く

 沖縄県立芸大で、インドネシアの民族音楽ガムランの演奏会があった。7月7日は七夕だから、前日に七夕演奏会ということらしい。

 昨年11月の芸大祭では、バリ島のガムランだけを聴いた。今回はジャワとバリの双方が聴けるので楽しみだ。

 夏の暑い日差しがやっと没したころ、演奏がスタートした。
 初めはバリのガムラン。3人の踊りで始まった。アルテギターサークルのメンバーで芸大生の真由さんが出ている。衣装も踊りもあでやかで、妖艶でもある。

Img_2832 ガムランとは、「たたく」という言葉からきていて、すべて打楽器で演奏する。お鍋や鉄琴のような楽器を棒やハンマーで叩く。太鼓も打つ。軽快なテンポでリズミカルに打ち鳴らす。最後の曲は、激しく打ち鳴らし、大音響となる。躍動感があり、魅了される。

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 ガムランは踊りと演奏が分業となっていない。踊った人が次は演奏に入る。それも楽器も交代して演奏する。芸能の島と言われる沖縄でも、踊りと伴奏の地謡(ジカタ)は完全に分かれている。考えられない。スゴイ。これも厳しい練習があってのことだろう。

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 身体をくねらせながらの独特の舞いだ。身体全体を使うが、特に手指をかすかにふるわせたりする。繊細な表現が素晴らしい。

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 年に2,3回しか見られないだけに、たくさんの人たちが見に来ている。
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 ジャワのガムランが始まった。同じガムランでもバリとまったく異なる。曲のテンポがゆったりしている。音色も違う。叩く棒が、木の槌や柔らかいもので包んだ棒でたたく感じ。すごく柔らかな響きだ。

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 ジャワは踊りがない。踊り手が今回はいないのか、それともジャワはもともと踊りがないのだろうか。そのあたりはよくわからない。衣装もジャワは地味だ。

 真由さんら、何人かバリに出たメンバーが、ジャワにも出ている。両方やれるとは驚きだ。
 ジャワのガムランはゆったりと流れるような優雅な響きに特色がある。宮廷の音楽として発達したからだという。バリのガムランは、躍動的なリズムと音色に特徴がある。民衆の暮らしから生まれたのだろう。

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 三線も登場した。ガムランを演奏していた人が、今度は三線を持つ。ジャワガムランと沖縄民謡とのコラボレーション。「じんじん」(ホタルのこと)、「安里屋ユンタ」など演奏した。ガムランは、メロディ楽器がないので、歌三線がメロディを奏でる。それなりに、一体となった演奏で、違和感はない。

 そういえば、ガムランと沖縄音楽では、なんか共通するものがある。それは、琉球古典音楽は、王府で発達したので優雅でゆったりしている。庶民の間で発達した民謡と踊りは、軽快なテンポの曲と踊りが多いからだ。初めて、両方の演奏を聴けて、うれしい演奏会だった。

Img_2851 終わった時はもう日暮れ。ガムランを演奏した中庭には、クモの巣のように糸を張り巡らしていた。これも何かの芸術作品のようだ。光を浴びて、少し糸が光っている。

2013年7月 5日 (金)

動画で聴く「艦砲ぬ喰ぇー残さー」

 読谷村楚辺にできた「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の歌碑を訪ねたことをブログにアップした。この曲を「でいご娘」が歌碑建立準備コンサートの際、歌った模様がユーチューブで見れるので、紹介したい。

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「艦砲ぬ⋯⋯」の歌詞は5番まである。8886字でつくる琉歌ではなく、75調の歌詞である。戦争の時代を生きた人ならではの強烈な平和のメッセージが込められている。

「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の歌詞

1、若さる時ねー戦争ぬ世 若さる花ん咲ちゆーさん 
 
 家ん元祖ん親兄弟ん 艦砲射撃ぬ的になてぃ
 
 着る物喰ぇー物むる無ーらん 
 
 スーティーチャー喰でぃ暮らちゃんやー
 
 ※うんじゅん我んにん いゃーん我んにん 艦砲ぬ喰ぇー残さー

2、神ん仏ん頼ららん 畑や金網銭ならん
 
家小や風ぬうっとぅばち 戦果かたみてぃすびかってぃ
 
うっちぇーひっちぇーむたばってぃ 肝や誠るやたしがやー
 
 ※繰り返し

3、泥ぬ中から立ち上がてぃ 家内むとぅみてぃ妻とぅめーてぃ
 
産子ん生まりてぃ毎年産し 次男三男チンナンビー
 
 哀りぬ中にん童ん達が 笑い声聞ち 肝とぅめーてぃ
 
※繰り返し

4、平和なてぃから幾年か 子ぬ達んまぎさなてぃ居しが
 
 射やんらったる山猪ぬ 我が子思ゆる如に
 
 潮水又とぅんでぃ思れー 夜の夜ながた眼くふぁゆさ
 ※繰り返し

5、我親喰ゎたるあぬ戦争 我島喰ゎたるあぬ艦砲
 
生まり変わてぃん忘らりゆみ 誰があぬじゃましー出ちゃら
 
恨てぃん悔やでぃん飽きじゃらん 子孫末代遺言さな
 ※繰り返し

 訳文を紹介する。

♪若い時は戦争の世 若い花は咲くことができなかった
 家の先祖、親兄弟も艦砲の的になり 着る物食べ物なにもない
 ソテツ食べて暮らした ※あんたも私も艦砲の喰い残しだ
♪神も仏も頼りにならない 畑は基地に囲われ 金にはならない
 家は風で吹き飛ばされ 戦果(米軍物資を持ちだす)担いでしょっ引かれ 
 ひっくり返されも てあそばれて 心は誠実だったのに
 
♪泥の中から立ち上がって 家族求めて妻をめとり
 子どもが生れ毎年生れ 次男、三男カタツムリみたい
 苦労のなかでも子どもたちの 笑い声を聞き心を取り戻す ※繰り返し」
♪平和になったから幾年たつか 子どもたちも大きくなっているが
 射られたイノシシがわが子を思うように 
 戦争がまた来るのではと思って 夜中も眠れなくなる 
♪わが親を奪ったあの戦争 わが島を破壊したあの艦砲
 たとえ生まれ変わっても 忘られようか 誰があのような戦争を強いたのか
 ああ恨んでも悔やんでもあきらめきれない
 子孫末代まで遺言してしっかり伝えなければならない 

2013年7月 3日 (水)

久米孔子廟を訪ねる

那覇市若狭にあった久米至聖廟(孔子廟)が、久米の松山公園内に新たに建設されたので、訪ねた。6月15日に落成式があった。

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儒学の祖、孔子を祭る大成殿や明倫堂などがある。明倫堂とは、久米村の子弟の学問所として設けられ、役所の機能もあったところだ。現在は集会所として利用される。

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 正門には「至聖堂」の扁額が掲げられている。前の孔子廟に比べると、とっても立派だ。門の脇の通用口を入ると、正面に大成殿が建っている。

青空に、朱塗りの建物、赤瓦が映える。

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久米至聖堂は、もともと600年ほど前、明国から琉球に渡ってきた「久米三十六姓」と呼ばれた人々が、1676年、国王の許可を受けて、久米村に建てた。毎年2回、春秋に孔子をお祭りする釈奠(セキテン)を催してきた。

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 第二次大戦中、1944年10月10日、米軍の大空襲により、孔子顕彰の至聖廟、学問所の明倫堂などの建物、聖像、蔵書が灰燼に帰した。戦後、敷地も軍用道路一号線(現在の国道58号線)が貫通していて、跡地での再建は不可能となった。久米三十六姓の子孫でつくる久米崇聖会は、1975年に若狭の天尊廟(道教の最高神を祀る)敷地内に建設した。

 今回は、38年を経て、老朽化が進み、久米崇聖会は那覇市から土地を借りて、久米の地に新たに建設した。Img_2796
 大成殿に登る石段には、龍を彫った立派な石版がある。龍を彫った石柱も見事だ。これら石柱、石版は、孔子の生地、曲阜(キョクフ)の現地に、孔子廟と同様に製作するように依頼して取り寄せたものだとのこと。

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 スゴイのは、龍の爪が5本描かれていること。5本爪は、中国皇帝と孔子だけが使うことを許されていた。首里城の龍柱は4本爪だという。

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 正門を入ってすぐ右側に、石碑がある。沖縄戦で破壊され修復不能となった。それで、大戦前に残されていた拓本、古文書を基に復元したものだという。久米至聖廟の創建修葺(修繕)
年月など刻まれているようだ。

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 隣は、中国式の庭園、福州園がある。ちょうどいい場所に建設されたと思う。

沖縄と中国の古くて長い交流を知らせてくれる場所だ。

 

2013年7月 1日 (月)

ボクネン美術館で版画を鑑賞する

 沖縄で著名な版画家、名嘉睦稔(ナカボクネン)さんの作品を展示する「ボクネン美術館」を訪ねた。北谷町美浜のアメリカンビレッジにある。

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 美術館が入っている建物は「うねる赤瓦屋根」と呼ばれる「AKARA」。これもボクネン設計の建築だ。「アカラー」とは、「赤いもの」の意味がある。直線のない、すべて曲線。赤瓦
が美しくうねっている。とてもユニークな建築物だ。2010年に開館した。Img_2697
 2階には、わざわざうねる赤瓦屋根を見る展望台がある。先だって、この建築が「琉球新報」の特集で紹介されていた。各地から見学者もあるそうだ。
 
 1階は、アカラギャラリーがある。ボクネン作品の展示と販売、彼のデザインによるTシャツや著作、仲良しの照屋林賢のCDなどを販売するショップにもなっている。

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 ボクネンさんは、RBCラジオで番組を持っていて、よく聴いていた。風や波、草木や森など、日ごろ見慣れたような何気ない自然について、その豊かな感性で感じるままに語っていた。自然を愛し、そこからさまざまなインスピレーションやエネルギーももらっている感じがした。

 しかも、彼は自分で三線を弾き歌う。それが、とても味わいがある。もうプロ顔負けの唄者だった。そんなこともあり、一度、美術館を訪ねようと思った。

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 ギャラリーでも、たくさんの版画
が見られるが、せっかくなので2階の美術館に入った。

彼は、1953年、沖縄の伊是名島で生まれた。絵画、イラスト、デザインの仕事を経て版画と出会った。

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 展示室はあくまで、曲線を描いて広がっている。膨大な作品群に圧倒される。
 

「自由にならない不定線、一気呵成の彫り上げ着色。瞬間性の彫りと裏手彩色の技法は、森羅万象をテーマとする作品世界を怒涛のごとく押し広げた」(オフィシャルサイト)

 展示されていたのは、この「万象連鎖シリーズ1、心のゆくえ」

 

Img_2702 写真撮影は、個々の作品はダメということで、看板のチラシから撮影したもの。版画の雰囲気がわかるのではないだろうか。

 

 「万象連鎖シリーズ」は、1997年3月に彫られた最初の版画作品「一本道の福木」をスタートに、次々「繋ぎ絵」として生みだしていった作品群で、あしかけ17年におよぶという。

 ボクネンさんは「ひらめくイメージをつかまえるためになるべくすばやく彫り込んでいくことを旨としている。ボクネン作品すべてに共通している」そうだ。

Img_2701

 「作家が目に見えない世界を描くという試みがなされており、鑑賞者は摩訶不思議な世界へと誘われる」。

 彼は、依頼されるテーマをもとに作品を制作することはほとんどない。作家にとって作品は「いただくもの」であり、決して「もぎとるもの」ではないとのこと。
 版画を見ていても、彼の頭脳に浮かんだイメージを、時をおかずに一気に彫り上げた作品であることがよくわかる。色彩豊かで、勢いがすごい。情熱がほとばしっている。

 版画も建築もともに楽しめる「摩訶不思議」な場所である。

 

 

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