庄内藩の戊辰戦争、その2
小説『新徴組』で描かれた庄内藩
前置きが長かった。著者の佐藤賢一氏は、庄内藩の中心、鶴岡市の出身だ。小説は、浪士らで編成され庄内藩の支配下に置かれた新徴組をテーマにしている。新撰組の沖田総司の姉と結婚し、沖田家に婿入りした沖田林太郎を中心に描いている。といっても、小説は実際には「戊申戦争と庄内藩」が主題といってもよい。著者の藩の郷土への強い誇りと愛着が感じられる。
私の個人的な関心は、戊辰戦争の最後の結末のところにある。
藩主が降伏を決意し家臣にはかる場面が描写される。
「我ら武士だけの話ではない。領民のことも考えなければならないのです。武士が本懐を遂げられたところで、それが民人の迷惑になるならば元も子もない」
降伏の覚悟を決めた藩主・酒井忠篤(タダズミ)は家臣をこう説得する。
「先に負けた会津は、現に地獄をみております」「我が庄内も薩長の奴ばらに同じ目に遭わされるのですぞ」
反対する家臣。だが、藩主はその反対を制して、官軍への謝罪降伏を決断する。
降伏して庄内藩は、地獄を見たのか。そうではなかった。
明治元年12月、庄内藩への処分が下された。17万石から12万石へ減封、酒井家は藩主忠篤が隠居、その弟忠宝(タダミチ)が家督を継ぐ形で家名存続など。驚くほど軽い処分だった。
巧妙に立ち回った米沢藩が、18万石から14万石に減封、仙台藩は62万5千石から28万石に削られ、会津藩にいたっては23万石から一気に3万石に落とされ、下北半島の斗南藩に転封された。庄内藩も磐城平転封が命じられたが、その後取り消された。
なぜ、処分が軽かったのか。小説は、「全て西郷先生(隆盛)の御指示でごわした」と官軍側に語らせる。庄内藩は強かったから、「会津藩並みの厳罰を降すことも無理だったろう」。
江戸の薩摩屋敷が庄内藩によって焼き打ちされた経過がある。薩摩藩は恨みがあったはずだ。でも、西郷隆盛の判断で、軽い処分にされた。これに感激した庄内の人々は、その後、西郷に敬服して、交流を深めたという。
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