庄内藩の戊辰戦争、その4
なぜ藩主・家臣・領民の深いきずながあったのか
なぜ、藩主と領民のきずなが深く結ばれていたのか。前にアップした「農民にとっての会津戦争・番外編」の中で、少し書いたことだ。
借金が膨らんだ藩は、1767年に始まる藩政改革で、酒田の大地主、本間家の当主・本間光丘に財政立て直しを委任した。光丘は、藩士・農民らの借財を一切肩代わりし、出費の無駄を削減して、借金返済を行った。飢餓に供えて備蓄米もたくわえた。
1795年にも、老中を中心に農政改革を実行し、富農に困窮与内米を課し飢餓時に農民を救うなどの政策も行なった。東北地方が大凶作になったときも、庄内藩では比較的、餓死者が少なかったそうだ。
「藩政改革(18世紀)以後、領民を手厚く保護する政策が基本姿勢となり歴代藩主はこれを踏襲した。領民もこれに感謝の念を抱いていた」という(ウィキペディア「庄内藩」)。
庄内藩では1840年11月、幕府が「三方領地替」と呼ばれる三藩の領地替を命じてきたことがある。庄内藩は越後長岡へ、長岡藩は武蔵川越へ、川越は庄内へ、転封させるというものだ。
庄内藩は、石高14万石(実質20万石)だったが長岡は石高7万4千石で、ほぼ半減である。この幕府の命令を知った農民たちは、村ごとに代表者を決めて、江戸に派遣して、幕府に領地替の取り下げを直訴した。
幕府への農民の直訴は本来なら死罪にも値する行為だ。「従来領民の直訴といえば藩政の非を訴えるものであるが、領民による藩主擁護の行動は前代未聞であり、逆に幕府役人より賞賛された」という(「ウィキペディア 庄内藩」)
本題から、相当ずれてしまったが、藩の一大事となった際、藩主・領民の深いきずなは、さまざまな形で大きな力となって発揮されたのではないだろうか。
戊辰戦争で、東北の各藩はそれぞれに悲哀を味わった。地獄のような結末を迎えたところところがあれば、領地を戦場として荒廃させることなく、比較的軽い被害で終わった藩がある。その結末は対照的である。
別に、庄内藩を賞賛するつもりはない。もともと東北諸藩と戊辰戦争の歴史は、まったくの門外漢だ。あれこれ意見を言うほどの見識もない。ただ、戊辰戦争のような各藩の存亡にかかわる重大事を迎えて、それぞれ各藩の対応が問われた。その結果として、こういう違いはどこから生まれてきたのだろうか。さまざまなことが考えさせられる歴史である。
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