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2013年7月18日 (木)

庄内藩の戊辰戦争、その3

庄内藩はなぜ強かったのか

 

ここで興味が湧くのは、なぜ庄内藩は戊辰戦争でそんなに強かったのだろうか、ということ。小説ではあまり突っ込んだ解明はない。庄内藩の歴史と特質についても、詳述していない。背景には、大地主の本間家の資金提供で新式銃を購入するなど軍備の増強をはかっていたことなどがあるだろう。
 
 庄内藩といえば、その特質として「藩主・家臣・領民の結束が固い」ことがあげられる。戊辰戦争にあたって、藩主・武士と領民が一体となって、向かってくる敵に立ち向かう体制があったという。
 
 そのひとつの表れに民兵がある。戊辰戦争で庄内藩の動員した兵士は、約4500人といわれるが、そのうち約2200人は農民や町民といった領民たちで構成されていた。「この民兵の割合は非常に異例なもの」(「西郷隆盛のホームページ・敬天愛人」)。藩の未曾有の危機に対して、藩士・領民がこぞってたたかう「挙藩体制」がとられていた。

 たんに数だけ整えるということではない。民兵の教練にも藩は力を入れていた。それに、藩主・家臣も領民も一体となり、いわば「自国を守る」という意識が浸透されていれば、戦闘に際してのモチベーションも高い。藩士・領民の強い協力関係もさまざまな場面で力を発揮したことだろう。

 会津藩に進攻した官軍が出会った光景とは、明らかに大きな違いがある。

会津は天下屈指の雄藩である。政善く民富んで居る。若し上下心を一にし、力を戮わせ国に尽くしたならば、我三千未満の官軍だけで、どうして容易に之を降すことが出来ようぞ。唯だ此上は若松城下を墳墓と心得て斃れて後ち已むの外ないと覚悟した。然るに漸く馳突して其境土に臨んで見ると、豈に科らん一般の人民は妻子を伴ひ、家財を携へ、尽く四方に逃げ散り、一人の来って我に敵する者がないばかりか、漸次翻って我手足の用を為し、賃銀を貪って恬として恥ぢざる有様となった。予は深く其奇観なるを感じ、今日に至るまでも牢記して忘れなかった」(『板垣退助君伝記第一巻』宇田友猪著 公文豪校訂)

 板垣退助は、会津は雄藩だから,藩主・領民が心を一つに力を合わせて戦ってきたら、容易に倒せない。覚悟して入った。しかし、一般人民は妻子を伴い、家財を持って逃げ散るばかり。官軍に敵対する者がいないばかりか、官軍の「手足の用を為し、賃銀を貪って」恥じない有様だったと述べている。

 これだけで一面的に判断することはできないが、同じ官軍とたたかった藩でありながら、一般人民の対応には、相当な違いがあることは確かだ。

 

 一方、庄内藩では、官軍が清川附近に攻め入ろうとした時、戦況は圧倒的に新政府軍に有利に展開していた。だが、「近隣の多数の農民たちが庄内軍に協力、旗や幕を持ち出して総督府軍(新政府軍)の背後の山に登り、大声をあげて驚かせた」。庄内軍の増援も到着し、官軍はとうとう撤退した(『戊辰戦争全史上』)。こうした事例も、藩士と領民の一体の協力関係があってこそだろう。

 

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