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2013年8月

2013年8月30日 (金)

やっぱり墜落!オスプレイ

 アメリカのネバダ州で8月26日(現地時間)、米軍のМV22オスプレイが着陸失敗した事故は、どうやら実際には墜落同然のようだ。

 沖縄の普天間飛行場に配備されたのと同型機である。現場は、空軍基地の近くの公有地だという。米軍は「ハードランディング」(激しい衝撃をともなう着地)と説明している。乗員4人は無事脱出して死傷者はいなかった。

 しかし、脱出した後、機体は炎上したというから、よほど激しい着陸だ。炎上したということは、もはや「着陸」というのはおかしい。実際は墜落ではないか。
 「琉球新報」8月30日付は「炎上を招くほどの強い衝撃が機体に加わっており、事実上の墜落事故だったとみられる」と報じた。
 米軍は、今年4月16日、普天間基地所属のCH53E大型ヘリが、韓国で着陸に失敗し炎上した事故も「ハードランディング」と説明している。乗員21人が無事だったけれど、機体は真っ二つとなっていたそうで、墜落に近かったとのことだ(「琉球新報」29日付)。2893968716_a6c4022f4d1

 今回のネバダでの事故は、米軍基地の周囲には民間住宅が密集する沖縄の普天間飛行場とはまるで異なる。現場は、あらかじめ連邦政府の設けた「遠隔着陸地」だとか。だから被害は出ない。もし、これが普天間飛行場だったとしたら、考えただけでもゾッとする。

 米軍は、オスプレイが欠陥機であることを、なんとか覆い隠し、「安全」をアピールするばかりだ。だから、ネバダの事故も墜落とは認めないで、「着陸の失敗」でごまかそうと躍起だ。
 激しい衝撃を伴い、炎上までしていても、死傷者がいないのを幸いとして、事故を過小評価しているのではないか。そう思えて仕方ない。
 昨年も2回墜落したばかりだ。事故の再発をみると、オスプレイはやっぱり危険な欠陥機だと言わざるを得ない。

 オスプレイは、普天間基地にすでに23機配備された。残る1機はまだ来ない。1機だけ岩国に残されたままというのは、実は重大な故障か何かあるのではないか、と疑惑がもたれている。

 宜野座村でHH60ヘリが墜落してまだ一カ月もたっていない。この事故も原因さえまだ不明のまま、同ヘリの訓練が再開された。

 「命が軽視されている」という住民の声が上がるは当然だ。
 事故の真相と原因を究明し公表すること、オスプレイの飛行、訓練を中止することは当然だ。沖縄の空を24機もわがもの顔で飛びまわれば、かならず墜落を含め事故は起きる。「ハードランディング」であっても、住宅地に落ち、炎上すれば惨事をもたらすことは必至である。県民の命を危険にさらし続けることは、人道上も許されない。

 オスプレイはきっぱりと撤去すべきだ。普天間飛行場も即時閉鎖し、撤去すべきだ。

 

 

2013年8月29日 (木)

日本初の全身麻酔、琉球の高嶺徳明、その2

 琉球の高嶺徳明が、麻酔を用いて王孫の尚益の補唇術を施した。日本初とされる華岡青洲より115年前であることを書いた。ただし、麻酔を使ったという確実な記録がまだ明らかでないというのは、、この医術が秘法であり、「一世一伝」、他のものに伝授してはならないとされていたから、いわば当然のことである。だからといって、全身麻酔をしたことが、史実ではないということにはならない。

 歴史家の東恩納寛淳や金城清松は、中国における伝統的な麻酔薬の流れ、高嶺家に伝わる「魏姓家譜」(徳明は王府から魏姓を賜っていた)をもとに、徳明の手術は中国の麻酔法に由来すると考えた。

 
 中国では、後漢後期に華佗(カダ)が「麻沸散」という麻酔を使い手術を行ったことが『三国志』にも記されているという。17世紀の福州で黄會友が麻酔を用いて補唇術を行っていたことは、当然の流れである。
 琉球大学名誉教授の大鶴正満氏は、「高嶺徳明の補唇術に関する考察」で、次のようにのべている。

 中国では、西暦2世紀に華佗が出て麻沸散を開発し手術した。その後も多くの医家により、鎮痛、麻酔薬について豊富な医術と経験が積まれた。

 「高嶺家には、(尚益の補唇術を)痛くないように手術したという言い伝えがあるので、それは麻酔に関することを裏付けていると思われる。
 確証的文書が得られていないのは一世一代の秘法であることのほか、核心的部分が口伝とされたためとされる」

 徳明が伝授を受けた当時、もとより中国では伝統的方法により麻酔薬が使用されていた。『本草綱目』(薬学著作、1596年)などには、マンダラゲ、トリカブト、ツツジなどが手術用の麻酔薬として記載されている。
 「当時、11歳の尚益に対し、何らかの鎮痛ないし麻酔薬が使用されたと考える方が妥当である」
 「麻酔にはトリカブト類を用いた可能性が大きい」と大鶴氏は判断している。

 大鶴氏は、徳明の補唇術を「沖縄の歴史上画期的なこと」と高く評価している。
 徳明が薩摩藩医に教えた秘伝は京都方面に伝えられ、「青洲の麻酔法への影響の可能性も指摘されている」とものべている。

 麻酔を使った手術だからこそ、中国でも秘法として、「一世一代」の扱いを受けたのではないだろうか。
 まだ11歳の王孫に、麻酔なしで手術することはむしろ考えにくい。高嶺家の伝承をみても、徳明が琉球で初めて麻酔を使った補唇術を施したことは、確かなことだろう。
 さらに、当時の日本にはなかった麻酔の秘法であるから、薩摩も伝授を求め、藩医にも伝授されて、京都方面まで伝えられたのではないか。

 ともかく、いまから324年も前に、こうした医術を中国から習得して帰国し、琉球で治療を施し、それが薩摩をへて大和まで伝えられたことは、誇るべき沖縄の歴史である。

 

 

 

2013年8月28日 (水)

日本初の全身麻酔、琉球の高嶺徳明

 「飛び安里」のことを書いたついでに、日本最初の全身麻酔をしたのは、琉球の士族、高嶺徳明であることを紹介しておきたい。

 これも、沖縄では有名だが、県外ではあまり知られていないだろう。

 全身麻酔といえば、華岡青洲が日本初と言われている。有吉佐和子の『華岡青洲の妻』でも知られた。華岡が全身麻酔で手術をしたのは、1804年10月13日である。この日は「麻酔の日」とされている。
 しかしー。琉球ではそれより115年も前、高嶺徳明が1689年に行ったと伝えられる。

 徳明は、10歳の時、福州(中国・福建省)に渡り、3年間滞在して中国語を習熟した。後に、琉球王より魏姓を賜り、中国名を魏士哲と称し、王府の中国語通事(通訳)となった。
 時の王尚貞(第二尚氏の第11代国王)は孫の尚益に口唇裂(上唇が縦に裂ける)があることを深く憂慮し、これを整復する補唇術が福州にあることを知って、徳明にこの術の習得を命じた。

 徳明は、福州に赴き、補唇術を行う医師、黄會友を訪ねて、その術の教示を懇願した。會友はこれを秘伝として教示を固辞したが、徳明の熱意と真摯な人柄に心を動かされて徳明を身辺に置き、昼夜、補唇術を伝授した。徳明はついに13歳の童子の欠唇を師の面前で治療し、治癒させた。かくて、會友から傳方の一切を受け、秘書(秘伝書)一巻を授けられて1689年5月に帰国した。
 

 帰国後、沖縄で5人の欠唇を療治し、中国で学んだ通りに治癒することを確認し、同年11月23日、当時10歳の王孫、尚益に補唇術を施し、治癒させた。
 その後、徳明はこの補唇術を薩摩藩医、伊佐敷道與に伝授した。

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 右上の主旨は、高嶺家に現存する「魏氏家譜」に基づいている。
 以上は、琉球大学医学部正門を入ると建てられている「高嶺徳明顕彰碑」(写真)の裏側の碑文からあらましを紹介した。私が、この碑を見たのはもう、5,6年前になる。

 ただ、この碑文では、全身麻酔をしたという傍証は多数あるけれど、確証が明らかでないので、日中研究者が調査を続けているとしている。

 これまで、沖縄では著名な歴史家の東恩納寛惇や金城清松らが、この尚益への手術が全身麻酔を用いたことを明らかにしてきた。
 

 最近では、松本順司著『全身麻酔の魁ー高嶺徳明』で詳細に書かれている。徳明は、1689年2月、福州で黄会友から兔唇の治療法を学んだ。その際、麻酔の秘法も授けられたという。
 5月に帰国すると、大里間切(マギリ、現在の町村)の男女2人に手術を試み成功した。さらに3人にも試みた。
 11月には、王孫、尚益の手術を行った。在番奉行(那覇にあった薩摩の役所)の要請により、薩摩の医師に補唇の秘法を教え、秘書一巻を授けた。

 尚敬王の命で王府の医師、豊元達、柔良心に技法を伝えた。豊見城間切高嶺の地頭になり、高嶺親方(ウェーカタ)と称した。

 松本氏の著作は、手術をめぐる王府内でのドラマを描いている。
 王府で王位の後継者をめぐり争いがあった。尚益は長男だったが、薩摩は思い通りになる王をつくるため、尚益に難癖をつけた。欠唇の尚益は「江戸上りして将軍にお目見えするのに不都合」として、尚貞王の側室の子、尚綱を王につけようとした。
 後継者争いが大きな犠牲を出さずに収束できるかどうかは、初めて麻酔薬を使った外科手術の成果にかかっていたとする。

 この手術は「一子相伝」とされ、徳明は中国の医師との約束を守り、子孫に秘術や秘伝書を伝えず、長い間手術の成功は陽の目を見ることはなかった。ところが、薩摩藩の圧力により王命で、薩摩の医師に伝授したことが裏付けとなり、その名を歴史に残すことになったという。

 この著作は、小説であり、どこまでが史実の裏付けがあるのかは、私には定かでない。
 徳明の補唇術に全身麻酔については、長くなるので、もう少し書きたい。

2013年8月26日 (月)

世界初、空を飛んだ琉球鳥人、安里

 世界で初めて飛行機で空を飛んだ人間は、沖縄にいた! こう聞くと、だれも驚く。「ライト兄弟が初めてだろう」と。でも、沖縄では有名な話である。

 前から何度か話には聞いていたが、活字になったものを読んだことはなかった。「琉球新報」の小中学生新聞「りゅうPON!」(2013、8、25付)で、仲村顕氏(沖縄歴史教育研究会)が書いている。沖縄以外では、ほとんど知られていないと思うので、この機会にこの記事から紹介をしておきたい。

 ライト兄弟が空を飛んだのは1903年のことだ。だが、それより100年ほど早い1800年ごろ、安里という人物が飛んだ。この人は、安里周冨(シュウフ、1748~1799)か安里周当(シュウトウ、1765~1823)、安里周祥(シュウショウ、1797~1867)という3人のうちの誰かと考えられている。

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 ただ、私見では、飛んだのが1800年ごろが正確だとすると、周冨と周祥は該当しなくなる。年齢的には周当がもっとも適しているように思う。

 初めて空を飛んだので「飛び安里」のあだ名がついたそうだ。彼が造った飛行装置は、「弓の構造を採り入れた翼を持ち、その翼の端で結ばれた弦を操縦者の足で操作できるように工夫をしていて、ちょうど弓の弾力を利用するように翼を羽ばたかせるものだった」と言われている(写真参照)。

 弓の構造を採り入れた翼を考えたというのは、素晴らしい想像力ではないだろうか。

 
 空を飛ぶ実験をした場所もいくつか伝わっている。今の沖縄市泡瀬や南風原町津嘉山(ツカザン)だったと言われる。空を飛んで大きな騒ぎが起こったため、王府に捕まったという話も残っている。
 たんなる噂話や根拠のない伝承ではない証拠に、戦前まではこの飛行機の設計図や、その時に使われた道具もあったらしい。だけど、いまは残っていないという。沖縄戦で焼失か散逸したのだろうか。惜しいことである。

 「飛び安里」に関して伝わっているいろいろな話をもとに、1999年、飛行機が復元された。その復元機で実際に空を飛べるか、実験をしてみた。すると復元飛行機は風を受けて機体を浮かせ、およそ15メートル飛ぶことに成功したという。この当時、私は沖縄に住んでいなかった。沖縄では、大ニュースになったのだろう。

 これによって、安里が世界で初めて飛行機で飛んだことは、実証されたと言えるだろう。

 南風原町役場のロビーには、この復元機の2分の1サイズのレプリカが展示されている。飛行実験をしたと伝えられる高津嘉山という丘には、「飛び安里 初飛翔顕彰記念碑」が建てられているという。わが家から遠くない場所なのに、まで行ったことがない。写真だけお借りした。今度行ってみたい。

 なお、「飛び安里」は演劇にもなった。ラジオ・テレビで活躍する真栄平仁が率いる劇団O.Z.Eが「飛べ!琉球鳥人」を今年公演したばかりだ。

 

2013年8月23日 (金)

宜野座村民の心底からの怒り

 米軍ヘリの墜落に抗議する宜野座村民大会が22日、宜野座ドームで開かれ、1100人の村民が参加した。23日には、大会決議に基づき、沖縄防衛局などに要請に行った。

 宜野座村は、面積の50・8%を米軍基地が占める。これまで3回もヘリ墜落事故が起きている。同じ村内にこんなに墜落する村があるだろうか。

 HH60ヘリが墜落したのは、民家からわずか2キロの地点で、村民の水がめである大川ダムもある付近だ。水質汚染も心配されている。オスプレイが配備されて以降、とくに日常的に民間地の上空を、米軍ヘリ、オスプレイが飛行し、「村民は常に命と財産を脅かされている」(大会決議)状況にある。


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 村民がとくに怒りを強めているのは、事故原因の究明まで訓練中止を求めているのに、わずか2週間で原因も不明のまま、訓練を再開したことだ。大会のあったこの日も、HH60ヘリが、会場付近を飛行するという傍若無人さである。


 大会では「事故以来、村民はショットくと不安で夜も眠れない日々を送っている」(大城武宜野座区長)、「村内でも県内でも軍事訓練、飛行訓練が止まるまで声を上げ続けよう」(島田久美子松田区婦人会代表)など、心底からの不安と怒りの声が上がった。
(写真と発言内容は、「琉球新報」23日付けから)
 大会は、事故の原因究明と再発防止策を公表し、それまでの間、同機種の飛行を中止することやオスプレイの沖縄からの即時全機撤収を求めている。
 それにしても、情けないのは米軍が事故原因不明のまま「安全が確認された」と訓練再開を表明すれば、日本政府もこれをうのみにして、なんらの異議も述べないで受け入れたことだ。原因も不明のままで「安全」など確認できるはずもない。子どもでもわかる理屈だ。原因が究明されるまで飛行中止というのは、ギリギリの最低限の願いである。それさえも、一顧だにしないというのは、まったく宜野座村民、沖縄県民の命と暮らし、心からの叫びさえ、まったく無視するということ。これでは、人権も民主主義もないに等しい。

 山本一太沖縄担当相が22日、沖縄に来て、仲井真弘多県知事と会い、沖縄振興予算で要望を聞いた。山本氏は、ことあるたびに沖縄に来る。県民には「アメ」をしゃぶらせればよい、と思っているとすれば、思い違いもはなはだしい。

 同じ日に宜野座村では大会を開いているのだから、大会に出席して村民の声を聞き、その不安と怒りを皮膚感覚で感じ取ることこそ、沖縄担当相の務めではないだろうか。

 

奄美の債務奴隷「家人」、その3

明治に解放令が出たも

奄美諸島の「家人」(ヤンチュ)にたいする解放令が出されたのは、明治時代に入ってからである。

 明治4(1871)年、「膝巣立(ヒザスダチ)解放下人下女令」がようやく出された。といっても、借金帳消しによる解放ではない。身上砂糖1500斤を主家に納めるという条件がついていた。このため、解放は622人にとどまった。
 
 翌年の明治5年には政府から「娼妓解放令」(人身売買禁止令)が出た。このようなことから、奄美群島では下人や膝巣立の解放運動が起こり、膝巣立の逃亡などの動きもあった。
 
 明治8(1875)年、大島に遠島の経験をもつ伊地知清左衛門が来島し、島民に身上砂糖を払わなくても自由になれると説き、家人解放運動を展開した。これにより、主家との緊張が高まり、伊地知は大島監獄に投獄された。それ以降、解放への動きは強まったが、少なくない家人がなお残された(ネット「与論島クオリア」を参考にした)。
 
 明治10年頃は奄美全体で2335人を下らない人数とされた。明治24年には、また存在しているとの記録がある。必要な「養恩料」が払えず、小作化していく者もいた。

 以上は、主に麓純雄著『奄美の歴史入門』、原井一郎著『苦い砂糖』などを参考に紹介した。

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               宮古島の池間大橋

奄美の家人と同じような債務奴隷は、沖縄にもいた。とくに宮古島の名子(ナグ)が典型である。かれらも、宮古島で人頭税廃止運動が起きた明治中期でも、多数存在した。農民の運動が高まり、島役所や県庁は一八九三年(明治二六)三月、「名子」の廃止を打ち出したが、士族・役人らは猛烈に抵抗した。
 宮古島代表が上京し、当時としては画期的な国会請願まで行い、人頭税廃止が決まった。実際に、廃止されたのは、明治36(1903)年であり、名子も廃止された。名子も、稀代の悪税、人頭税の産物だったのだろう。

2013年8月22日 (木)

奄美の債務奴隷「家人」、その2

人格無視の 「モノ」扱い

なぜ奄美諸島では、債務奴隷のような家人(ヤンチュ)が大量に生まれたのか。
 そこには、奄美を植民地とした薩摩藩の砂糖収奪の政策がある。

薩摩は藩財政の悪化のなかで、値段の安い米作から黒糖生産への切り替えを進めた。サトウキビを強制割り当て栽培させ、黒糖の割り当て量を供出させた。その後、年貢に差し出す黒糖も、残りの黒糖もすべてを納入させ、個人の砂糖売買は禁止するなど、黒糖収奪のあらゆる手段を強めた。
 
 厳しい砂糖政策によって、農民は苦しみあえいだ。とくに、台風などによるサトウキビの不作などで、決められた貢納分が納められない農民は、借金せざるをえない。借金で首が回らなくなると、返済のために自分の体を豪農に売り、家人に転落するしかなかった。まさに、薩摩の奄美支配と砂糖収奪によって生み出された債務奴隷である。


 
 家人には三つの形態があった。「年季」家人(期限がある人)、「無年季」家人(無期限)、「膝巣立(ヒザスダチ)」(家人同士の間に生まれた子供で、一生家人)の3形態である。

年季(「身を売る」期間)は。5年か10年だったが、期限のない「無年季家人」もいた。身売り代価は、砂糖1500~2000斤が普通だった。砂糖1斤(=約600g)は米5合と交換されたので、米でいうと、砂糖2000斤は米10石にあたる。(米1石は米2俵半、約150㎏)。米5㎏=2000円としても、砂糖2000斤は今のお金で約60万円ということになる。

家人は、身上砂糖を償還すれば自由の身になれた。しかし、年3割の利息がつくので実際には抜け出せない。「膝巣立」と呼ばれた家人の子どもは、終身主家に従属し、苦役に服した。
 
 家人は年貢を免除されるが、モノとして位置付けられた。主家に隷属しており、売買もされ、主家の嫁入りには伴われる。存在自体が非人間的である。幕末には、全人口の3分の1が家人だったといわれる。驚くべき比率である。いかに奄美農民が呻吟したのかを端的に示している。


 
 奄美全体で家人が多数発生する一方で、大土地を所有する由縁人たちは、家人を労働力として吸収して黒糖生産を拡大し、豪農化していった。

 中には、数十町歩(数十ha)の土地と300人の家人を持っていた島役人もいた。奄美における政治的・経済的支配者といえる。奄美諸島の中で、著しく貧富の差が拡大した。

 

2013年8月21日 (水)

奄美の債務奴隷「家人(ヤンチュ)」、その1

奄美の債務奴隷「家人(ヤンチュ)」

 

奄美諸島の農民一揆を書いたついでに、ふれておきたいことがある。
 
 琉球王国の支配下にあった奄美諸島は、1609年、薩摩藩の奄美・琉球侵攻によって、奄美は琉球から切り離され、薩摩直轄の植民地のようにされた。
 
 薩摩支配となった奄美で、とくに砂糖生産による搾取の過酷さを象徴するような存在に、「家人(ヤンチュ)」がある。年貢が納められず借金が膨れ上がり、債務奴隷となった農民のことである。
 
 奄美のことはまるで素人なので、その実態がよくわからない。でも、「家人」の存在を抜きにして、かつての奄美の社会と歴史は語れないと思う。それで、薩摩による支配の形態と奄美社会の構成について、アウトラインだけ学んでみたい。

麓純雄著『奄美の歴史入門』、原井一郎著『苦い砂糖』などを参考に紹介したい。

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  飢餓の時は沖縄でも奄美でもソテツを食べた。写真は文章とは関係ない。

 

借金かさみ身売り

薩摩は奄美を直轄の植民地にすると、各島々に行政を司る奉行(後に代官)や附役を2~3年任期で派遣し統治させた。しかし、小人数の藩役人で広い島に目を行き届かせるのには限界がある。だから、島民の中から与人(ヨヒト)、横目(ヨコメ)、掟(オキテ)、筆子(ヒッコ)などの島役人を登用して配置した。
 
 薩摩の役人の数としては、18世紀後半以降で、代官や附役など、大島の8人を最高に喜界島5人、徳之島6人、沖永良部島と与論島で6人と、奄美全体で25人にすぎない。島民を薩摩の補助役として農民を支配したということだ。
 
 薩摩藩は、奄美島民の身分を基本的にはみんな「百姓」としていた。しかし、奄美の社会は、由縁人(ユカリッチュ)、自分人(ジブンチュ)、家人(ヤンチュ)の3つ階層に分かれていた。
由縁人とは、琉球王府に支配された“那覇世”の時代に、琉球から派遣され、奄美に根付いた役人や奄美出身で役人となった家柄や、“大和世”(薩摩藩の支配)で藩に協力する人を名家(衆達=シュウタ)として新たに取り立てた人などである。由緒人の一族が島役人になり、特権層を形成していた

 
 家人とは、借金のために身売りし、由縁人等に所有されている人である。
 
 自分人とは、由縁人や家人以外の人で、大部分は自分人となる。一般の農民である。
 
 島役人はどれくらいいたのか。その最高位である与人(ヨヒト)が奄美全体で28人、目指(メサシ)・横目(ヨコメ)などは大島だけで140人以上、さらに下級の村役人(村数は144)は大島だけで728人にのぼる。

 名越佐源太の記録では、1852年の大島の「島役人」の数は1089人、大島の総人口3万9203人で約2・8%が「島役人」となる。

 「島役人」らが中心となり、薩摩の支配を補佐していた。

 由縁人は、大土地所有者となっていた。所有する広い土地を家人に耕作させ、利益を上げるとともに、「島役人」にもなる。最も功績のあった由緒人は郷士格、つまり地方武士に準じた身分に取り立てられた。

2013年8月20日 (火)

旧盆「中ぬ日」で交通渋滞に

 8月20日は、旧盆の「中ぬ日」。沖縄では、「中ぬ日」には、お中元を持って、親戚などの家を回る。大和では、お盆とお中元はもう関係なくなっている。
 だが、もともとは「上元」が1月15日、「中元」が7月15日、「下元」が10月15日のことをさしていた。それが、中元はお盆と結びつき、贈りものをすることになったらしい。だから、中元はお盆に贈るのが本来の姿だ。Img_3246


 わが家は、お盆用にオードブルを注文したので、それを取りに市内の小禄方面に出かけた。受け取りだけだからと、バイクで行った。行きはよかったが、帰りはなんと幹線道路が大渋滞だ。赤嶺から、国道330号の与儀交差点方面まで、車がつながりノロノロ運転ばかりだ。午後3時過ぎだから、通勤時間帯ではない。普段はスキスキの時間帯のはず。なぜ、いまこんなに渋滞しているのか? 疑問だった。

 でもすぐ思い当ったのは、旧盆だということ。「中ぬ日」は、お中元を持って車で出かける人が多い。多い人は10軒、それ以上回るという。
 ラジオを聞いていると、やはり「すごい交通渋滞だよ」「お中元を持って回ってきました」という声が寄せられていた。
 中には「オバーのかめかめ攻撃で、もうお腹いっぱい。カメカメ攻撃をかわす方法はないのか」という声も。「カメカメ攻撃」とは、オバーが「食べなさい、食べなさい」とすすめること。かくして、ウチナーンチュの肥満がまた進むことになる。

 とにかく旧盆は、家族・親戚が実家、本家に集まる。親戚一同が揃って、仏壇にウトートー(拝み)をするのが習慣だ。いやはや、こんな渋滞まで引き起こすとは、ウチナー旧盆恐るべし!

2013年8月19日 (月)

旧盆に虹が出た

 旧盆入りのウンケー(お迎え)の日、七色の虹が漫湖公園の上にかかった。よく見ると、上の方にも薄く、もう一つ虹がかかっているようだ。
 沖縄の天候はいま、毎日、片降り(カタブイ)が一日に何回も降る。晴れていたかと思えば、急に強い雨が降る。降ったかと思えば、すぐに太陽がさす。虹が出やすい条件がそろっている。Photo まあ、旧盆とはなにも関係がない。沖縄は、スコール、片降りが多いので、虹が出やすい。「虹の王国」とも言われるくらいだ。

 旧盆のウンケーといえば、沖縄は「ウンケージューシー」を食べるのが習わしだ。ジューシーとは、沖縄風炊き込みご飯だ。

 わが家は、沖縄に移住しても、お盆だからといって、とくに料理は沖縄風ではなかった。でも、今年は、ツレの父と私の叔母の初盆にあたるので、沖縄風の旧盆にしてみようと思った。

 といっても、少しの量しか食べないので、スーパーの総菜売り場を見ると、美味しそうな「フーチバージューシー」があったので、それを買った。「フーチバー」とは、ヨモギのことである。とても、よいフーチバーの香りがした。P41816451
                写真は普通のジュージー

 ジューシーを食べるお汁ものとしては、中味汁をよく食べる。中味汁とは、内臓を煮た汁だ。でも、わが家は、「イナムドゥチ」とした。これは、豚肉やシイタケ、大根、コンニャクなど具たくさんの汁。正月によく食べる。一種の豚汁といってもよい。美味しい汁である。

 お供え物も、青バナナ一房、スイカ、パイナップルの果物と、お菓子いろいろ、それにジューシーなど。仏壇は小さいので、テーブルを出してお供えし、ウトートー(祈り)した。
 旧盆は、先祖を大切にするウチナーンチュにとって、とっても大事な行事だ。家族、親族一同が集まり、そろってウトートーする。

 20日は、旧盆の「中ぬ日」で、お中元を配る。青年会のエイサーも地域を3日かかりで回る。わが家の付近も、例年、中ぬ日に来るので、今年も来るだろう。天気が少し心配だ。エイサーの時間は、降らないでほしい。

エイサー曲は面白い。仲順流れ

エイサーといえば、いまは沖縄を代表する芸能の一つだが、もともとはお盆に先祖を供養する念仏歌に踊りがついたものだといわれる。古くは「にんぶちゃーうどぅい(念仏者踊)」とも呼ばれた。 沖縄のお盆は、旧暦7月15日。だからお盆のことを「しちぐゎち」とも言われる。

 いまちょうどエイサー曲を練習しているところである。最近はいろいろな曲がエイサーに使われるが、昔からのエイサー曲といえば、「仲順(チュンジュン)流れ」「久高マンジュ主」があげられる。歌ってみると改めて歌詞が難しい。でもなにかいわれのありそうな歌詞だ。

019          2011年青年ふるさとエイサー祭りで

 手元にある工工四(楽譜)では「仲順流れ」は、6番まである。
 「仲順流れや七流れ 黄金のはやしや七はやし」
 (仲順の川の流れは七流れ 黄金の林や七林)。
 「はやし」とは民謡の「囃子」のことかと思ったが、「林」のことだという。後から紹介する伝説の「黄金の林」にかかわるくだりが出てくる。
 3番の歌詞は、「仲順大主や果報な者 産し子(ナシグヮ)や三人産し出ぢゃち」
 (仲順大主は幸せ者だ 可愛い子どもを3人産み育てた)。
 大主(ウフシュ)とは、地域を支配者である按司(アジ)の家来の中の頭職のことをいう。いわれがありそうな歌詞だ。
 5,6番の歌詞には「アケズ(蜻蛉)の飛ばば親と思り ハベル(蝶)の飛ばば母と思り」
 「父御(グ)の御恩や山高し 母御の御恩や海深し」と歌われる。
 明らかに、父母の恩や親や先祖への感謝が意味されている。

 興味をひくのは、3番目の歌詞だ。北中城村仲順に伝わる「仲順大主」の伝説があるとのこと。次のようなお話だという。いろんな人の話を参考にさせてもらった。

 学者だった仲順大主は、妻を早く亡くした。3人の子どもがいた。財産を一番親思いの息子に譲りたいと思い、3人の息子を呼んだ。「私は年老いて物が食べられない。お前の嫁の乳を飲ませてくれ、子は捨ててくれ」と言った。長男も次男も「頭がおかしくなったのか、子は宝ではないか。それはできない」と断り出ていった。
 三男は「子どもはまた産めばよいが、親は一人しかいない。子を捨てて乳をあげましょう」と同意した。大主は「息子よ、子を捨てるなら東の森の三本松の下に三尺穴を掘って埋めよ」と言った。
 三男が、涙を流しながら穴を掘っていると、鍬の先に堅いものが当たった。小さなカメが出てきた。中には金が詰まっていた。大主が埋めたカメだ。大主は「ひどいことを言ってすまなかった。黄金はお前にやる」と言った。その後、仲良く暮らしたというお話だ。
 これも、親を大切にすることを諭す内容である。

022         福島県いわき市の上高久青年会のじゃんがら念仏踊り

 こんな伝説をベースにした「仲順流れ」は、各地のエイサーに取り入れられている。
もともとエイサーは、17世紀に琉球に来た福島出身の袋中上人が、いわき市のじゃんがら念仏踊りを伝えたとか、、もともとあった踊りと合わさってエイサーが出来上がったといわれる。

 それにしても、なぜお盆に演舞するエイサーで、先祖供養だけでなく、親への感謝が歌われるのだろうか。それは次にしたい。

2013年8月18日 (日)

お盆の語源は?

お盆の語源は?

 沖縄では、2013年の旧盆は、8月19日が「ウンケー」(お迎え)、20日が「中の日」、21日が「ウークイ」(お送り)である。4日やるところもある。
 わが家も、今年はツレの父と私の叔母が亡くなり初盆を迎える。「ウンケー」に先祖を迎えて、家で過ごしてもらい、「ウークイ」にお送りする。お迎えは、早く迎えてもいいが、送るのはゆっくりしてもらい、遅く送ることになるらしい。

旧盆が迫ったので、そもそもお盆とは何なのか。その語源について、以前書いたものを再度アップしておく。
 なぜお盆と呼ばれるのだろうか?盂蘭盆(うらぼん)という言葉が省略されて、盆になったという。すでにブログで書いたように、お盆のもとになっているのは「盂蘭盆経」である。

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       写真は金武観音堂。文章とは関係ない

 問題は、盂蘭盆の語源である。ネットで語源についての解説を見ると、お寺のホームページの解説を含め、正しくは烏藍婆拏(うらんばな)がなまったもので、その意味は倒懸(とうけん)であると書いている。倒懸とは、逆さ吊りのこと。

  インドには子孫のない者は、あの世でも飢えと乾きに苦しむ餓鬼となって逆さ吊り(倒懸)の苦しみを受けるという言い伝えがあり、この考えが定説として伝えられてきたとのことだ。

仏教にはまるでド素人だが、盂蘭盆経の原文を読むと、少し疑問がわいてくる。
 藤井正雄著『お盆のお経 仏説盂蘭盆経』によると、仏教学者の岩本裕氏が、盂蘭盆の起源が「倒懸」だという説に反論しているという。

なにより『盂蘭盆経』の本文には「倒懸」を示唆する語句がみられない。この経典における餓鬼は、祀るべき子孫を欠く餓鬼ではなくて、生前の罪深い亡者という意味である、ということだ。

この反論は、盂蘭盆経を読むと説得力がある。

目連尊者のお母さんは、餓鬼道に堕ちて苦しめられている。飢えと渇きに苦しみ、ご飯を供養してもすぐ火炎となって食べることができないとされる。これは逆さ吊りにされているのではない。倒懸の言葉そのものも見られない。

 もう一つ。どういう人が倒懸にされるのか、といえば子どもを生んでない、子孫のない人である。でも目連はお母さんに生み育てられている。そもそも倒懸の対象にはならない。盂蘭盆経では、お母さんが餓鬼道に堕ちているのは、生前の犯した罪の根が成長して深く根を張っているからだとされている。子孫を残さない罪ではない。
 
ついでに、子孫を残せないのは不幸なことではあるが、責められる罪ではないだろう。世の中には、さまざまな罪悪を犯す人はたくさんいる。なぜ、子孫のない人が倒懸にされるのかも、疑問である。これは、まったくの門外漢の感想である。 

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           首里観音堂の鐘楼。文章とは関係ない 

岩本裕氏はまた、盂蘭盆の起源について、イラン民族間で営まれていた死者を祀る祭祀が農耕儀礼と結合して、ゾクド人(ゾロアスター教を奉ずるイラン系民族)の中国進出によって中国にもたらされたとみたそうだ。それが麦作地帯の収穫祭としての中元と結びつき、しかも自恣の日(僧が修行の最終日に犯した罪を告白し懺悔する)と中元の日が同じ日(7月15日)ですから、今日に伝わる盂蘭盆会の原型が成立したと推論したとのこと。

藤井氏は、盂蘭盆供養がもともと、「衆僧への供養によって母の亡魂が餓鬼道から救い出されるという間接的な死者・祖霊供養であったわけですが、中国に入ってから孝道を重んずる中国の風潮の影響を受けて死者・祖霊供養の意味を強めたということ。さらに7月15日は中国の中元で、俗にいう鬼節(死者がこの世にもどってくる時季)にあたりますから、盂蘭盆会は中国的変容をとげたものであろうとみられることでは多くの学者の一致するところなのです」とのべている。

ド素人ながら、お盆に興味があるので、語源についてさまざまな意見があることを紹介したかっただけである。 

 

        

2013年8月17日 (土)

奄美諸島の農民一揆、その5。「三方法」運動

「三方法」運動

砂糖の自由売買ができる時代が到来した。全国から大小の商人が押し寄せた。 商人は、先を競って契約先の取り込みに躍起となった。
 台風の影響や砂糖の質が悪くなったため、島民は高利の借金で苦しむようになった。
 わずか4,5年で膨大な借金が積み残り苦境に立った。
 明治19(1886)年、大島島司の新納(ニイロ)中三は、流通に問題があると考え、大坂商人と砂糖一手販売の契約を結び、島民を守ろうとした。鹿児島商人の反感を受け、免職された。

明治20(1887)年、県令39号大島群島糖業組合規則が定められた。サトウキビを栽培し黒糖を製造販売する者はすべて組合を設け、島庁の認可を受ける。樽詰された砂糖は監査証を付す、という内容だった。
 これは、黒糖自由販売を禁じ、行政に従属させ、一気に近世以前に逆戻りさせることになる。また、大坂商人を締め出し、鹿児島商人の南島興産商社の独占利潤を守るねらいだった。
 これに立ち向かうため、組織された有志総代会は、「三方法」運動を提起した。それは①不当な借金支払いを拒否する②栽培方法を工夫して生産量を増やす③質素な生活で倹約するという内容である。

借金は、島民が直接多くの借金をしたわけではなく、金品の返済は黒糖という契約だったが、台風の影響で生産量が少なくなり、商人たちは貨幣で返済する契約に変えた。その際、黒糖で返す時には黒糖の値段を低くした(返す黒糖の量は多くなる)のに、貨幣で返すとなると、今度は黒糖の値段を高くした(返すお金が高くなる)。裁判が多かった背景には、このような事情もあった。
 喜界島では、有志同盟がつくられた。農民が警察派出所を襲うという事件も発生した。県令39号反対の運動は全群5島に広がり、裁判も多く行われ、県議会でも問題になった。県令39号は発布1年で撤回に追い込まれた。
 以上は、原井一郎著『苦い砂糖』、麓純雄著『奄美の歴史入門』を参考にして紹介した。

 

奄美ではなぜ一揆が起きたのか

奄美諸島では、農民のたくましい抵抗とたたかいがあったことがわかる。薩摩は、奄美以外には、百姓一揆がなかったといわれる。ではなぜ奄美諸島では、農民の一揆、抵抗の闘争が起きたのだろうか。原口虎雄氏は『鹿児島県の歴史』で次のようにのべている。

奄美の一揆は「本土に比べて数が多く、越訴、強訴などの積極的反抗の形をとった事件が多い。原因は島民の極度の貧窮と本土のような郷士制度の圧力を欠くところにあった」。
 原井一郎氏も、奄美以外に薩摩で一揆がないことを次のように指摘している。「農民を集落のグループ単位にしばりつける特有の門割(カドワリ)制度と、平時は農民でいざ鎌倉の時に武士として出勤する郷士を散らばらせていたことで、百姓一揆や世直し一揆は押さえ込まれていたという」。つまり、島民の耐えがたい「極度の貧窮」に加えて、奄美には一揆を抑えつけていた門割制度や郷士制度がないことに、一揆が起きた要因の一つと見ている点で、両者の見方は共通している。

そのなかで、紹介したような民衆の力強い抵抗のたたかいが刻まれていることは、奄美諸島に生きる人々の誇りある歴史と伝統であると思う。Photo

なお、沖縄でも、鹿児島本土と同様に、「一揆がなかった」といわれる。しかし、狭義の意味で一揆とは呼ばなくても、苛烈な抑圧と搾取にもとで、民衆の抵抗とたたかいが幾度も起きている。宮古島では「島燃ゆ」と呼ばれた人頭税廃止闘争の輝かしい農民のたたかもあった(上)。関心のある方は、「沖縄民衆の抵抗の歩み」をブログにアップしてあるので読んでいただきたい。

  

2013年8月16日 (金)

奄美諸島の農民一揆、その4。「勝手世」運動

砂糖の自由売買求める「勝手世」運動

薩摩藩は、長州藩とともに倒幕と明治維新に主導的な役割を果たした。一八七一年(明治四年)に廃藩置県が実現した後も、奄美諸島では抵抗のたたかいが起きている。
 一八七三年に、大蔵省が黒糖自由販売を許可した。ところが、鹿児島県はこの布達を人民に告知せず、ひそかに鹿児島商人と結んで、大島商社なるものを組織し、今まで藩庁や県が取り扱っていた砂糖取引一切の権限をこの商社に引き継いだのである。奄美島民はこの商社にだけ黒糖を売却することができ、商社を通してだけ物資を買うことができるというものである。この大島商社による利益で窮乏士族の救済を図るのが狙いであった。

 一八七五年(明治八年)には、黒糖を自由に売買できる「勝手世(カッテユ)」の実現を求める声と運動が全島にわき上がってきた。その頃、名瀬金久の出身で英国帰りの青年、丸田南里(ナンリ)が大島に帰ってきて、やがてこの運動の先頭に押し出される。Imagecarhulky 奄美市文化財・史跡案内では「丸田南里の墓碑」(写真)が紹介されている

 「人民が作る所の物産はその好む所に売り、また人民が要する品物はその欲する所に購入すべきはこれ自然の条理なり。なんぞ鹿児島商人一手の下に束縛をうくるの理あらんや。速やかにこれを解除し、勝手商売を行うべし」と唱えた。

南里の下に結集した人民派代表は、県に商社解体と自由貿易を求め請願書を提出した。南里は首謀者として拘留される。その後、島民代表がまた嘆願し、県は実情調査に動いたが、自由売買を受け入れない。一八七七年(明治一〇年)、砂糖自由売買を求め島民五五人が鹿児島へ請願した。おりしも西南戦争が始まったところで,島民は投獄された。年齢や病弱の二〇人を除き、三五人が西郷軍へ従軍させられた。

西南戦争の後、中央政府は県令に高知県出身の岩村通俊を任命した。人民派、役人派が陳情合戦を繰り広げた。県の裁定は「鹿児島商人の便利を図るべし」というもので、島民の願いは切り捨てられた。

 再び全島的な運動が繰り広げられた。丸田南里は再び投獄された。岩村県令の奄美巡視に人民派が大挙して押しかけ包囲する。一八七八年には、名瀬で大集会が開かれた。県は、大集会のあと、奄美の大島支庁長を解任、島役人を免職にし、新支庁長の着任時に大島商社を解体した。砂糖の自由売買が始まった。

 「(勝手世騒動)は官庁や商社につながる一部買弁層や封建的な忠義者を除き、全島民的(ヤンチュ=債務奴隷のような存在=も込めて)に闘われた一種の民権運動であり、反植民地闘争であった。そして島民によって押し進められた奄美経済における廃藩置県ともいうべき、最初のそして最大の反封建的闘争であった」。『名瀬市誌』はこう高く評価している。Imagecaqf3bju_2

この「勝手世運動」の部分は、文(カザリ)英吉氏著『奄美大島物語』と原井一郎氏著『苦い砂糖』を参考にして紹介した。原井氏は「薩摩藩が絶対的支配者として奄美に立ち現れ約二〇〇年、サトウキビ植民地にされ、悲惨な『収容所列島』とでも呼びたい歴史に終止符を打つ、奄美史の金字塔といえる画期的出来事」とその意義を強調している。

2013年8月15日 (木)

奄美諸島の農民一揆、その3。犬田布村一揆

犬田布村で百姓一揆

一八六二年(文久二年)には、やはり徳之島で犬田布(イヌタブ)村の百姓一揆が起こる。

薩摩は厳しい黒糖政策を行ない、個人の自由売買を厳禁し、もしこれを犯せば死罪、自家用に隠し持っても遠島処分にされ、製造粗悪なものは首かせ、足かせの刑を科すというほどだったという。

犬田布部落の為盛という正直な農夫の産糖が、見積高に不足をきたしたため、隠匿したという嫌疑をうけ、島の詰役であった寺師次郎衛門がみずから出張して取り調べに当たり、為盛を丸裸にして割木の上にひざまずかせ、その膝の上に大きな石を乗せて苦しめながら拷問に附して白状を迫ったことから、村民が為盛に同情を寄せてその罪なきことを弁じ、なお寺師の理不尽な仕打ちを責めようとして蜂起した大事件であった(文=カザリ=英吉氏著『奄美大島物語』)。

為盛の救出のため農民一五〇人余が仮屋を包囲し、役人を追い、森にたてこもった。首謀者は遠島処分(三人)で決着したという(ネット「ウィキペディア」から)。

Momo   「momo太郎日記」ブログで、「犬田布騒動記念碑」(写真)が紹介されている。

 徳之島の1964年建立「犬田布騒動記念碑」は下記のように記している。
「薩藩の苛酷なる砂糖政策の犠牲となり、無実の罪で拷問を受ける為盛救出のため、犬田布農民150余名は、元治元(1864)年旧3月18日、悲壮なる団結のもと、仮屋を包囲、役人を追い、戦いの準備を整え、積石付近に集結、遂になす所なく解散せるも、その首謀者と目された下記の内6人は、明治9年まで13年間の遠島処分、残りの者は3年の体刑を受け、犬田布・阿権原・鹿浦・阿三の農道労役を命ぜられた。これが世にいう犬田布騒動であり、事後徳之島の砂糖取締りは緩和されるに至った。いまその当時をしのび、百年祭を挙行するに当たり、茲に記念碑を建て、その挙を思い冥福を祈る」(知名町教育委員会編『江戸期の奄美諸島 「琉球」から「薩摩」へ』の「用語解説)から)

2013年8月14日 (水)

大雨警報が出たら雨がやむ

 沖縄本島では、13,14日と続けて大雨警報が出た。2か月も雨が降らなかったのに、大気が不安定だとか。14日も朝は、ガンガン照りだった。001 歯医者に行くのに、近くだけど、暑いので汗をかくからバイクで出かけた。1時間ほど治療して、終わって出ようとすると大雨だ。バケツの底をひっくり返したような雨とはこのことだ。

 夏のスコールは15分ほどで止む。そう思って待合室で高校野球を見ていた。しかし。何回も外を見るが、豪雨は続く。10メートル歩いても、びしょ濡れになるだろう。待つしかない。

 50分近くもたったころ、テレビ画面に本島南部から中部、読谷村まで大雨警報が出た。これは大変だ!と思うのは素人だ。

 というのは、前日の午後も、ツレがピアノ教室に通うのに豪雨の中を車で走った。1時間程して、迎えに行く時もまだ降っている。カーラジオが「大雨注意報が出ました」と告げた。すると、ほどなくして雨は小やみになった。というより、ほとんど降らなくなった。その体験をしたばかりだ。011
               愛用バイク

 「うーん。気象台は大雨が降りだしてから、あわてて大雨警報を出した。でも、前日も大雨注意報が出たらすぐに雨が止んだ。今日も、警報が出るのは、もうすっかり大雨が降ってからだから、多分もう止むだろう」と勝手に推理した。

 5分もたたないで、外をうかがうと、なんと、やっぱり雨はほとんど降っていない。「やっぱり慎重派の気象台は警報を出す頃は、もう大雨は降り止むころだ」と思ったのは、見事的中していた。まあ、多分、雨雲は中部方面に移動したのかもしれない。

 ほとんど濡れないでバイクで帰ることができた。こんな経験則がいつもあたるとは限らないが、今回は的中したのだ。気象台にも、思考法則みたいのものがあるようだ。それを、把握するのも、気象予報を見るうえでは必要なことだ。

2013年8月13日 (火)

ジョン万次郎の足跡をたどるバスツアー

 沖縄ジョン万次郎会が主催する、「ジョン万次郎が辿った宿道を訪ねるバスツアー」が8月3日、行われた。案内をもらったが、都合がつかず、残念ながら参加できなかった。

 12日付の「琉球新報」で報道された。Img021 ツアーには約70人が参加した。万次郎がアメリカから日本に帰国する際、上陸の地として選んだのが当時の琉球だった。ツアーは、万次郎が最初に上陸した糸満市小渡浜(大渡浜)からスタート。とよみ史跡友の会の新里輝吉会長が、当時の海岸は未整備だったため上陸に手間取ったことなどを解説。「非常に難渋したが、万次郎の努力があったから上陸できた」と説明したそうだ。

 万次郎は、上陸したあと、豊見城間切(マギリ、いまの市町村)翁長の高安家に半年ほど拘留された。その間、地元の住民との交流もあった。方言も学んだ。
 その後、万次郎は日本の夜明けに多大な影響を与えた。
 参加者は、万次郎と沖縄の関わりや幕末、明治期の沖縄の歴史を学んだという。

 
 なお、万次郎のことについて、関心のある方はこのブログで「沖縄で愛される中浜万次郎」などアップしてあるので、お読みください。

やっと雨が降った沖縄

 猛暑で日照り続きだった沖縄。那覇市では、12,13日午後、やっと強い雨が降った。農作物や公園の花や樹木も少しお湿りがあっただろう。

 スコールでまだ本格的な雨ではない。それに「片降り」で、限られた地域だけ。といっても、スコールさえ降ったのは、ほとんど2カ月ぶりだ。久米島では、町主催の雨乞い儀式が11日に15年ぶりに行われた。なにしろ7月は降水量ゼロだったから。儀式のすぐ後、少し雨が降ったらしい。雨乞いの効果なのか、はたまた偶然か。久米島はその後、雨は降ってないらしい。
本島では、大雨注意報が出たらすぐ雨は止んだ。

 猛暑といえば、わが郷里の高知県では、四万十市で日本最高となる41・0度を12日記録した。それに10日から13日まで4日連続で40度以上の暑さとなり、これも初めての記録だという。Img_3028

 四万十市は、わが青春の思い出がある街だ。青春の6年間を高知県西部の地方で過ごした。四万十市も数えきれないほど行った。41度を記録した江川崎は、かつては西土佐村だった。この地にも行った記憶がある。

 暑さの記録は、日本の中部や関東甲信越地方の内陸部が多い。四国の高知県は、かつてはそんな記録の場所ではなかった。
 暑さ日本一となって、喜ぶことではない。これも地球温暖化と関係がある気候異変の一つだろうか。

2013年8月12日 (月)

奄美諸島の農民一揆、その2。徳之島の母間騒動

 奄美諸島では、薩摩藩による過酷な圧迫と搾取への島民の抵抗を事前に排除するために、刀狩りがたびたび繰り返された。そんな統制の強化のもとでも、奄美では島民による抵抗が何度も噴き上がった。薩摩藩では、農民を集落のグループ単位に縛り付ける特有の門割(カドワリ)制度があり、武士でありながら平時は農民として働く郷士が各地に散らばっていて、百姓一揆は抑え込まれていたといわれる。ただし、百姓一揆がなかったのは九州本土でのこと。奄美諸島では百姓一揆が幾度も起こっているのである。有名な一揆を紹介する。

 徳之島の母間騒動

 

一八一六年(文化一三年)に、徳之島で名高い一揆である母間(ボマ)騒動が起きている。松下志朗氏著『近世奄美の支配と社会』、知名町教育委員会編『江戸期の奄美諸島』)からあらましを紹介する。

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           徳之島

徳之島では、一八一四年に台風で死者八人、一〇〇〇棟近い家屋の流出・倒壊の被害を受け、一八一五年、疱瘡が流行し九六七二人がかかり、一八九一人が死亡するという惨たんたる状況にあった。そこに年貢米のきびしい通告がされた。

 

一八一六年五月、母間村の農民は隣村の轟木村に二〇五石ほどの土地を入作にして耕作していた。轟村から出米(ダシマイ、税外の部落運営米)を要求され、これを拒絶した。そこで仮屋(代官所)の詰役は、首謀者である村の掟役(役人)の喜玖山を捕え、一室に監禁した。
 激高した母間村の農民六三〇人余が六月九日、鉄砲、竹槍、魚突などで武装して喜玖山のとじこめられた「格護所」を打ちこわし、村へ連れ帰ったのである。そして、一二人が板附船に乗り込んで、鹿児島の藩庁へ訴え出たが、いずれも入牢させられた。
 結局、一八一九年、一二人のうち、四人は許されて帰島し、一人病死、喜玖山ら五人が翌年、七島へ遠島処分となる。寛大な措置をとった。厳罰に処することは、徳之島の騒動を一段と激化させることを怖れたからであろう。

 

2013年8月11日 (日)

アルテで「与那国ションカネー節」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーの8月のテーマは「帰」。すぐに頭に浮かんだのは「与那国ションカネー節」だった。

 琉球王府の時代、与那国島に派遣される王府の役人は、単身で赴任するので、島で賄い女を置いた。現地妻であり、子どもも生み、家庭をきずいていた。任期が終わると役人は島を去り帰る。現地妻や子どもとは生き別れになる。歌は、船の出るなんた浜に見送りに行く情景を描いている。

 「帰」のテーマからいえば、役人が「帰る」意味と、残される女性が再び役人が島に「帰ってほしい」という願いが込められているので、テーマにぴったりだろう。

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 エントリーの演奏が始まる前に、南亭こったいさんが落語「六尺棒」を披露した。今回は短い小話のようだ。といっても、落語の面白さが味わえる。

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 音楽のエントリーは19組と少ない。三線では、Tさんが「二見情話」を歌った。4番の歌詞に、名護市二見にあった収容所から、待ちかねた首里に戻ることになるが、美しい二見の自然と人情あつい人々との別れの寂しさを歌っているので、テーマに合っている。
 いつものように、味わいある三線と歌だった。

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 「与那国ションカネー節」は、八重山の三大叙情歌ともいわれるが、まったくの自己流である。昼間に自宅で練習していると、それなりに声が出ていると思ったが、本番では高音がのびない。なんとか歌い終えた。

「与那国ションカネ」は、こう歌う。
♪暇乞(イトマグ)いとうむてぃ 持ちゅる盃や 目涙(ミナダ)あわむらし  
 飲みぬならぬ
♪片帆(カタフ)持たしば 片目ぬ涙落し 諸帆(ムルフ)持たしば 
 諸目ぬ涙落し
♪与那国ぬ渡海(トゥケ)や 池(イチ)ぬ水(ミジ)ぐくる 心安々とぅ
 渡てぃいもり
 歌意は次のとおり。
♪お別れの盃は胸に迫り 涙があふれて とても飲めません
♪片帆を上げたら片目から涙が落ち 諸帆を上げたら 両眼から涙が落ちてきます
♪与那国に海を渡るのは 池の水を渡るようなもの 心易々と渡ってきて下さい

 

 終わると「よくこんな難しい歌を歌えるね」「とても悲しい歌ですね」「よく譜面を見ないで歌えるね」など、声が寄せられた。

Img_3175 ツレは、井上陽水の「帰れない二人」を新田君のギター伴奏で歌った。声がよくのびていて、ギターも味わいがあって、「この日のトリにふさわしい演奏でした」と主宰者の越智さんからも好評価だった。

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2013年8月10日 (土)

奄美諸島の農民一揆、その1

奄美諸島の農民一揆

 

薩摩藩の倒幕資金と奄美の砂糖政策について、紹介したので、薩摩藩によって苦しめられた奄美諸島の様相について少しふれておきたい。ただし、奄美の歴史そのものではなく、薩摩に対して勇敢にたたかった島民の誇り高い歴史についてである。


 薩摩支配でサトウキビ植民地に

薩摩藩は、1609年に奄美諸島を攻略しながら琉球王国に侵攻し、支配下に置いた。琉球は、中国貿易で利益をあげる思惑もあって、形式的には独立国として存続させ、中国との冊封(サッポウ)体制を維持した。冊封とは、中国皇帝から国王として認証を受け、その臣下となる体制である。


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 しかし、薩摩は琉球王国の版図にあった奄美諸島は切り離し、薩摩直轄の植民地とした。奄美を統治するとともに、そこから最大限に搾取をする政策を推し進めた。
 当初は稲作を奨励していたが、サトウキビ生産が軌道に乗り始めると、砂糖生産を拡大した。藩財政の窮乏化のもとで、砂糖生産のモノカルチャー化を進めた。 さながらサトウキビ植民地とされた。


 年貢米もすべて砂糖で代納させ、さらに年貢に差し出した残りの黒糖もすべてお上に差し出させる「黒糖惣買入制」(砂糖専売制)をしくなど、黒糖収奪のあらゆる手段が強化された。
 もはや限界にある島民に畑を強制的に割り当て、増産をあおった。黒糖の製法にいたるまで改善を求め、従わなければ労働刑、粗悪な黒糖を作った者は、首かせの刑罰にする。キビの切り株が高いだけで村中引き回しの処分にする例もあった。

単一作物の強制的栽培のもとで、1755年、徳之島では凶作により餓死者が3000人を超える惨状となった。台風や干ばつによる凶作、飢餓や流行病など災厄にたびたび見舞われた。
 圧迫される農民は、借金が増え「ヤンチュ」と呼ばれる債務奴隷が急増した。農民が集団逃散する例も多かった。村がゴーストタウンになる「潰れ村」も発生した。
 以上は松下志朗著『近世奄美の支配と社会』、原井一郎著『苦い砂糖』を参考にした。

 

2013年8月 9日 (金)

薩摩の倒幕資金と奄美の砂糖、その2

薩摩藩の倒幕資金について原口泉氏(志學館大学教授)が、奄美の砂糖は「とるにたりない」というだけでなく、「上海貿易からの収益」が基本的な収入であったと、のべていることにも、先田光演氏は『奄美諸島の砂糖政策と倒幕資金』で反論している。
 
上海貿易というのは、幕府の厳禁した密貿易にあたる。原口氏は「薩摩は、上海貿易であまりにもやりすぎたもんだから、これはあぶないということで、(坂本)龍馬をつかうわけです。それが商社、亀山社中です」とのべている。
 
この論議は、私的にはあまり関心がない。上海貿易で収益があったとしても、奄美諸島の砂糖が薩摩藩の財政にとって相当の比重を占め、倒幕の軍資金としても、重要な役割を果たしたことは変わりがないと思うからである。
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                 奄美大島

 
 
 先田氏は、史料を調べても、上海貿易の収益を裏付ける史料は見つからなかったようで、原口氏と同じ座談会に出席した2人の論者も「上海貿易の利益に関する史料が発掘できていない」のべており、それは「史料そのものが存在しないためではないか」と上海貿易(継続した貿易体制)の利益説に疑問を呈している。
 
 薩摩藩が奄美大島で生糸、米などの産物を購入し、グラバー商会が上海などで販売、損益は折半するという「大島スキーム」(大島商会)にもとづく、上海貿易については「実現しなかった可能性が高い」とのべている。

 
 奄美の砂糖生産や上海貿易についての原口氏の主張を詳細に検証したうえで、「原口説は史料的根拠が明確に出来ない学説であり、道之島の砂糖政策に関しては、全く逆の史実である」と結論付けている。

 1609年に薩摩藩が琉球に侵攻し、奄美諸島は薩摩の直轄の植民地のようにされてきた。「奄美が薩摩支配下で収奪され、ただひたすら『第一御産物』の増産に追い立てられてきた、苦難苦闘の歴史を否定する発言である」と先田氏は厳しく指摘している。
「薩摩藩によって収奪されながらも、奄美の人々が誇りとさえ思ってきた黒砂糖生産」を、鹿児島本土の研究者に「とるにたりないもの」と評価されたことにたいする、著者の耐えがたい思いが強くにじんだ著作である。

 
 先田氏は、自分の説が正しいか、原口説が正しいか、「他の研究者の論考を俟ちたい」とのべている。沖縄では、情報が乏しいが、注目しておきたいと思う。

 

2013年8月 8日 (木)

薩摩の倒幕資金と奄美の砂糖、その1


明治維新で重要な役割を果たした薩摩藩の倒幕を支えた財源が、奄美諸島のサトウキビ生産と黒糖にあることは、これまで通説となっていた。

 先田光演著『奄美諸島の砂糖政策と倒幕資金』(南方新社発行)を見たとき「通説なのに、いま何を明らかにしようとしているのだろうか」と、思いながら手にした。

 著者によると、執筆のきっかけは、「黒糖の収益なんて、(薩摩の倒幕資金としては)もうとるにたりません。…基本的な収入は、上海貿易からの収益です」という主張にふれたからだという。この主張は、南方新社が2011年に刊行した『江戸期の奄美諸島』の座談会でなされた原口泉氏(志學館大学教授)の発言である。

 「これまでの通説を覆す重要な発言を、奄美の歴史研究者として看過できなかった」という動機で執筆されたのが本書である。Imagecace10cb
             サトウキビ畑

 著者は、薩摩藩の公文書や奄美諸島の古文書など史料を精査して、黒糖がいかに幕末の薩摩藩の倒幕のための財源として活用されたのかを例証している。

 たとえば、木場傅内から家老中への書簡(慶応4年1月11日)では、次のように記している。
 
「鳥羽伏見戦などのため1万5000両を京都に送り、残り砂糖の収益金が10万両あるから当座の金談は程よく出来るが、さらに戦費がかかるので、今年の砂糖も早々と蒸気船で大坂に送って欲しい」(著者による要約)。
 
 「明らかに軍資金の一部として砂糖益金が使われているのである」と著者は解説している。

 奄美諸島の名瀬方間切横目(役人)ら14名からの口上覚(明治2年3月提出)は、「鹿児島においては近年数多くの人数が諸国へ御出兵され、莫大な費用がかかっていること、追々と承知しています。…軍用資金の端(些細な足し)にもなりはしないか…今春の余計糖をもって差し上げたい」と砂糖30万斤の献上を願い出た文書である。
 
 30万斤の砂糖は当時の与論島の生産高に相当するもの。「これだけ多額の砂糖を14名の郷士格が献上したことは奄美の歴史にとって、明治維新と直接関わった重要な史実として評価する必要がある」と著者はのべている。

 「喜界島代官記」(明治2年8月4日付)では、薩英戦争以来の戦争にたいし、「孤島においては、生死に関わるほどの御奉公は出来ないが、とにかく御産物(砂糖)を増産することが肝要であり、島中が昼夜心掛けなければすまない時勢柄となっている。…島役は自らも事情を汲み取って夫々の役職に尽力しなければならない時」と強調している。兵役には「御奉公」出来ない代わりに、砂糖の「御産物の増産」が肝要だと喜界島の島役に命じたものである。

 沖永良部島与人(役人)担晋が書き残した「上国日記」(安政5年10月15日)にも、家老新納久仰が、砂糖増産に励むよう命じたことが記されている。

016               黒糖づくり(沖縄の離島フェアー)

 

 砂糖の増産に「油断なく島民を指導」すること、「今後は大砲製造や台場の建設で大変な御物入となる」ので、「島民末々まで洩らさず申し諭すこと」。
 
 「この文面には、薩摩藩が兵力を強化するためには、道之島(奄美諸島)の砂糖増産が不可欠であったことが記されている」と著者はのべている。

 

 徳之島の旧郷士格(島役人で特別功績のあった者に与えられた身分)38家の「嘆願書」(明治12年)では、「戊申ノ役ニハ士族格以下二十万斤ヲ出シ軍資ヲ助ケ」たと記されている。
 
「徳之島の郷士格38家の献上糖20万斤に大島の献上糖30万斤を加えると、実に50万斤の砂糖が奄美から直接明治維新敢行のための軍資金として差し出されている」

 本書は、さらに多数の史料を収集して、奄美の砂糖が薩摩藩の財政にとって相当な比重を占め、「しかも、兵事費用として重要な財源であった」ことを証明している。

 倒幕費用として「黒砂糖収益なんて、とるにたりない」と評価されることは、「奄美の島民は先祖の苦労が一蹴されてしまったという空しさを感じないわけにはいかない」と奄美出身者としての思いをのべている。

2013年8月 6日 (火)

与那原・御殿山にまつわる伝説

御殿山にまつわる伝説

与那原町を歩くと、御殿山(ウドゥンヤマ)も有名な史跡だ。「山」とついているが、山ではない。海辺近くだ。ここも、見に行った時は、どういう伝承があるのか、知らなかった。首里王府の祭祀をつかさどる最高位の女神官、聞得大君(チフジン、キコエオオキミともいう)にまつわる伝承があるらしい。伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山時代の謎を解く』から、あらましを紹介する。

 御殿山と呼ばれる祠がある。そこは、浜の御殿(ハマヌウドゥン)とも呼ばれ、昔聞得大君が隠居した跡だと伝えられ、当時は民家は無く、浜田山という小さな丘になっていたという。琉球王国の聞得大君職は、尚真王の中央集権により設けられた女神官の名称で、それ以前は最高女神官のことを国司(クニチャサ)大君とも呼ばれていた。

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 察度王の4男本部王子には五男二女がおり、次女は、首里城の祭祀を司る聞得大君職であった。1402年に久高島に参詣に行った帰り暴風にあって舟が流され行方が分からなくなった。
 1405年に、武寧王は佐敷小按司尚巴志に滅ぼされている。新しく中山王になった尚思紹(ショウシチョウ)は、3年間も聞得大君職を継ぐ者がいないので、首里城での即位式ができなくて困っていた。
 各地の神職を集め協議した結果、行方不明になった聞得大君を探し出し、首里城に連れ帰らなければならないという「君真物(チンマムン)」という神からお告げが下された。神のお告げで、「聞得大君は大和(薩摩)の国に元気でいるから、早く迎えに来るように」ということであった。馬天ヌルをはじめ7名の神職による船団で、大和(薩摩)に向かった。041



 いったん、紀伊国に漂着した聞得大君は薩摩国で元気に暮らしていたが、すでに薩摩の殿様の子を宿していた。迎えに行った皆は薩摩の殿様に連れ戻したいと願ったが、美しい聞得大君を愛していて良い返事がもらえなかった。そこで馬天ヌルが聞得大君の両手にハジチ(針突き=刺青)をしたので、やっと殿様も帰国を許した。
 聞得大君は穢(ケガ)れた身では首里城の祭祀を行うわけにはいかないと、与那原の浜に庵を結んで住むようになった。そこで男の子を生み、この地を御殿山と呼ぶようになったという。産湯に使った井泉は親川(ウェーカー)と呼ばれ、代々の聞得大君が久高島参詣のとき参拝するようになったという。生んだ男の子は、生後間もなく亡くなったとも、成長して後の城間親雲上(グスクマペーチン)であるとも伝えられている。040

 

  この伝説も事実を隠した物語となっている。実際は、聞得大君は尚巴志が中山を攻める前に首里城を抜け出し、熊野権現の本拠地である紀伊国に逃げたのだと考えられる。交易のあった薩摩に援軍を頼む武寧王の使者として、紀伊国の坊さんと共に薩摩に向かったものと考えられる。
 この事件以来、聞得大君の就任儀式である「御新降」(ウアラウリ)は、久高島ではなく、斎場御獄(セーファウタキ)で行われるようになった。
 以上が、同書からの紹介である。

 

 

 
 琉球王朝の時代、国王が聖地・久高参詣や王府の神女の聞得大君の即位式である御新下り(オアラオリ)の際、首里を出て通るのが与那原だった。
「親川」(下)は、国王、聞得大君が首里を出て最初の拝所とし、休憩の用水を献じた所と伝えられる。
 


 聞得大君は、この親川の水に中指を浸し、額をなでることで、霊力を獲得する「お水撫」の儀礼がされたと伝えられている。
 御殿山(ウドゥンヤマ)も、本島南部の拝所を回る「東御廻り(アガリマアイ)」の巡礼地の一つで、聞得大君の御新下りの際の休憩所があった場所である。

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2013年8月 5日 (月)

また米軍ヘリが墜落

 米軍嘉手納空軍所属のHH60ヘリコプターが、宜野座村松田の米軍キャンプハンセンの基地内に墜落し、炎上した。墜落関係の写真は、琉球朝日放送の画面から使用させてもらった。

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 日米両政府は、県民がこぞって反対するオスプレイの12機追加配備をすすめ、2機が飛来し、さらに10機が来る計画だ。その真っ最中の米軍ヘリ墜落である。県民からは、「もしも街中だったら」「この上オスプレイの配備は許されない」と怒りの声が噴き上がっている.

Img_3123 墜落した現場は、住宅地から2キロしか離れていない。近くを高速道路も走っている。煙が見えて、住民は墜落を近くに感じ、不安と恐怖を感じている。

 乗組員4人のうち3人は脱出し、1人は不明と聞く。現場確認のため、宜野座村役場の職員が同基地に向かったが、武装米兵が立ち入りを拒んだ。沖縄県警の警察車両、消防も拒まれて入れないという。住民を不安に陥れながら、こんな事故のさい、立ち入りも拒むとは、何事だ。

  米軍ヘリの墜落といえば、2004年8月13日、沖縄国際大学への墜落事故の恐怖がよみがえる。まだわずか9年しかたっていないのに、またもや墜落事故である。
 キャンプハンセンでは、米海兵隊が都市型戦闘訓練を行い、実弾の射撃訓練も行っている。住宅地に流れ弾が着弾する事件も起きた。高速道路には、「米軍の流れ弾に注意を」の看板が掲げられているほどだ。ヘリの離着陸の訓練もやっている、オスプレイも訓練しているそうだ。基地内では、山火事はしょっちゅう発生している。Img_3122

 今回も、山火事の消火にあたっていて墜落したという報道も流れたが、HH60は救難ヘリだから、消火活動をするだろうか?。疑問だ。米兵の救出訓練をしていて、墜落したようだ。原因はまだ不明。

 5月28日には、F15戦闘機が沖縄北部の沖合で墜落事故を起こしたばかりだ。F15も、原因もはっきりしないうちから、すぐに訓練を再開した。その後も、緊急着陸を繰り返している。

 米軍のヘリや戦闘機など日常茶飯に沖縄の上空を飛び回り続ける限り、このような墜落など事故は不可避となる。

 ましては、世界で一番危険な軍用機といわれるオスプレイを、世界で一番危険な普天間飛行場に追加配備するのは、もってのほかだ。12機が24機に倍加すれば、騒音被害も墜落など事故の危険も倍加するだろう。2893968716_a6c4022f4d1_2


 今回のヘリ墜落を見ると、機種は違っても、「オスプレイもいつかこんな墜落事故を起こすのでは」と肌身で感じる県民は多いだろう。

 オスプレイ配備は中止し、すべて撤収すべきだ。県民の命と健康を守るためには、米軍基地を撤去するしか根本的な解決の道はないことを改めて感じる。 
 

 

2013年8月 4日 (日)

与那原開拓の祖、東名大主

与那原開拓の祖、東名大主

 与那原町といえば、8月4日には、400年余の伝統がある与那原大綱曳きがあった。でもその話ではない。
 前に与那原を歩いていた時、よく由来がわからない史跡があった。伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山時代の謎を解く』を読んでいると、意外な伝承が記されていた。少し紹介したい。

       町役場のすぐ前に、東名大主(アガリナウフシュー)の史跡がある。ここは、町中から少し離れた丘の上にあり、町の全体が眺められる場所だ。与那原開拓の祖である東名大主が祀られている拝所だという(下写真)。とても由緒ある拝所のようだ。
 本書によると、なんと今帰仁から逃れてきたらしい。031

東名大主は、今帰仁城主、本部大主の三男で、1340年に丘春(今帰仁按司)が今帰仁城を奪還した時、姉の息子2人を連れて今帰仁城から島尻(南部)に落ち延びてきた。
 本部大主というのは、源為朝の子の伝説がある舜天王の王統3代目の義本王の系統。「先今帰仁」と言われる古い北山時代に義本王系統が城主だった。義本王が王位を追われて英祖王が中山王に就くと、その二男、湧川王子が北山世之主と称し、「仲北山」初代として今帰仁城に入り山原を治めていた。
 1322年、本部大主が策をめぐらし、湧川按司の留守中に城を乗っ取った。湧川王子の孫にあたる丘春は、北谷城下の砂辺村に逃れていたが、本部大主が亡くなり、今帰仁城主の後継者争いに乗じて、旧臣たちとともに城を奪い返した。本部大主の一族は四散していった。


 本部大主の息子、東名大主と謝名大主(ジャナウフヌシ)の兄弟は、平安座島を経て上与那原村に来た。東名大主の子孫は、与那原に住み、屋号新里の祖となった。姉の息子2人のうち打ち1人は謝名大親と称し東大里按司(アジ)に仕え、屋号謝名(照屋姓)の祖となった。もう一人の息子は、与那原大屋子と呼ばれ与那原に住み、屋号照屋(ティーラ)の祖となった。与那原大屋子の子、古堅大主(フルゲンウフシュ)は、大里間切(マギリ)古堅村照屋門中(ムンチュウ)の祖となった。


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            東名大主のそばにあった小さな拝所     


 与那原役場の前の広場に東名大主を祀った拝所があり、その東側下方に謝名門中元屋(ムートゥヤ)がある。周辺は小高い丘になっていて、与那原発祥の地で、明治時代まで上与那原村と称していた。東名大主の妻は初代の与那原ヌル(神女)になった。謝名門中は福地姓・新垣姓もあり、平安座島の屋号謝名や今帰仁城を7年おきに参拝しているという。

 東名大主を祀る拝所のある高台から降りて、与那原の商店街を歩いていると、史跡、阿知利世之主の拝所がある。この史跡も、どういういわれがあるのかが、まったく分からなかった。この本を読み、やっと分かった。
 
 


 16世紀に入り、東名大主の7代目、謝名比屋が阿知利世之主(アチリユヌヌシ)と協力して与那原湾を埋め立てて、与那原村を創った。当時は、現在の与那原商店街付近一帯は阿知利口(アチリグチ)と呼ぶ浅瀬の湾であったといい、竿を立てて埋め立てしたので竿之増(ソーヌマシ)という地名になった。

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 与那原はいま、広大な埋め立て地の東浜があり、新しい住宅地や大型ショッピングセンターがある。そのこともあって、商店街のある附近は、昔から陸地のように見える。もとは浅瀬で埋め立て地とは予想もしなかった。

2013年8月 3日 (土)

動画で聞く「ジョン万次郎の歌」

 このブログでも紹介した「ジョン万次郎の歌~忘れはしない肝心~」が、ユーチューブにアップされている。是非、一度聴いてみてほしい。

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歌っているのは、三田りょうさん。フォーク調の歌で、歌詞には、万次郎の生涯が凝縮されて歌われている。

「ジョン万次郎の歌 忘れはしない~肝心(いむぐくる)~」

  歌 三田りょう 作曲 かでかる さとし 日高博作詞

1、土佐の男は「いごっそう」、黒潮育ちの万次郎。
  

 
14の時に海に出て 嵐に遭って流されて
 
 助けられたが捕鯨船 自由あふれるアメリカへ。

 2、ジョン万と呼ばれ、学ぶ日々、首席で卒業、万次郎。
  七つの海をめぐりつつ 瞼にうかぶは、土佐の母。
 
 あふれる知識を身につけて、ふるさと帰ると決めたのさ

 3、 鎖国ニッポンそれならば、琉球めざす万次郎。
  アレに見えるは糸満の、白波上げる小渡(うどぅ)の浜。
 
 ふるさと離れて10年目、たどり着いたは豊見城(とみぐすく)。

 4、島の人々優しくて、ここでも人気の万次郎。
 
 三線の音(ね)に誘われて、夜が明けるまで、毛遊(もーあし)び。
 ここも俺のふるさとよ、忘れはしない、肝心(ちむぐくる)。

 5、坂本龍馬も驚いた、スゴイ男よ万次郎。
  アメリカ帰りのあの男 世界のすべてを知っている。
 
 幕末動乱、夜明け前 時代がお前を待っていた。

  新しい ニッポンの礎(いしずえ)築いた 万次郎。
 
 その名は中濱万次郎。 

2013年8月 2日 (金)

心地よいプールサイドのビアガーデン

 沖縄は、連日最高気温35度を記録する。まさに猛暑。こんな猛暑日が続くのは、移住してから初めて。雨はまだ8月末ごろまで降りそうにない。

 そんな真夏の夜はビアガーデンが一番。毎年行っているハーバービューホテルのプールサイドビアガーデンに出かけた。Img_3100
 午後6時半オープン。ちょうど日陰になり、プールを渡る風が心地よい。県庁や市役所の近くなので、役所や企業のグループで来る人たちが多い。

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 前は3500円だったが、今年は3900円に値上がり。今年は、黒ビールが登場した。たいして美味しいわけではないが、珍しいのでけっこう飲む人がいる。料理は、シェフの焼き立てバーベキューが美味しい。Img_3101
 ビールがすすむ。でもなぜか、オリオンビールのサーバーは調子がよくない。泡ばかり出て、半分以上泡になることしばしば。飲んでいて、何杯飲んだか勘定できなくなる。どうでもいいけれど。Img_3106 今年は、舞台でフラダンスショーが始まった。団地祭りでも、フラダンスを見たけれど、熟女ばかりだった。こちらは、まだ若い女性が多い。われわれの座ったそばを通って舞台に上がった。Img_3105
 ダンスが始まると、カメラを向ける人が多い。でも、拍手する人はほとんどいない。われわれのすぐ後ろで、先生が見守っている。だからというわけではないが、民謡ショーで舞台に上がっても、誰も聞かない、拍手もないでは寂しい。踊りはあまり上級者とは思えないが、精いっぱい拍手を送った。

 夜空はいつの間にか、星が輝く。プール上空に夏の大三角形の星たちが光っていた。「あっ、流れ星」とツレの声。見上げた時はもう遅い。
 暑さを忘れるひと時だった。





  

2013年8月 1日 (木)

真夏の花が咲かない

 真夏に咲く花といえば、沖縄ではなんといっても、街路樹のホウオウボクが代表的だ。夏の始まり頃から、燃え立つように花開く。ところが、今年は33度という高温続きで、今日はついに35度まで達した。沖縄では、35度は極めて珍しい。下の写真は、一昨年に狂おしいほど咲いた時だ。

 

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 にもかかわらず、オウホウボクは、チラホラと咲いている程度だ。例年だと、那覇市内の各所に、ホウオウボクの街路樹通りが、真っ赤に彩られるのに、今年は見られない。咲いていても、チラホラだ035

 真夏に咲く花といえば、可憐なオオバナサルスベリがある。わが家の近くの街路樹は、毎年暑さに負けずに花開かせていた(右写真)。ところが、今年はさっぱり、花は見かけない。ただ、緑の葉っぱが茂るばかりだ。寂しい。

 なぜだろうか。暑さで雨が降らないせいではないだろう。多分、昨年、台風が沖縄本島を何度も直撃して、花木を痛めつけたことが原因ではないだろうか。

 そういえば、街路樹のトックリキワタもあまり咲かなかった。それに、例年だと春先に野球ボールのような実をつけるのに、今年はまったく実がつかなかった。街路樹は異変ばかりだ。台風恐ろしい。
 でも今年は、もう一ヶ月半、まったく雨が降らない。台風も寄り付かない。ままならない気候である。

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