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2013年8月 4日 (日)

与那原開拓の祖、東名大主

与那原開拓の祖、東名大主

 与那原町といえば、8月4日には、400年余の伝統がある与那原大綱曳きがあった。でもその話ではない。
 前に与那原を歩いていた時、よく由来がわからない史跡があった。伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山時代の謎を解く』を読んでいると、意外な伝承が記されていた。少し紹介したい。

       町役場のすぐ前に、東名大主(アガリナウフシュー)の史跡がある。ここは、町中から少し離れた丘の上にあり、町の全体が眺められる場所だ。与那原開拓の祖である東名大主が祀られている拝所だという(下写真)。とても由緒ある拝所のようだ。
 本書によると、なんと今帰仁から逃れてきたらしい。031

東名大主は、今帰仁城主、本部大主の三男で、1340年に丘春(今帰仁按司)が今帰仁城を奪還した時、姉の息子2人を連れて今帰仁城から島尻(南部)に落ち延びてきた。
 本部大主というのは、源為朝の子の伝説がある舜天王の王統3代目の義本王の系統。「先今帰仁」と言われる古い北山時代に義本王系統が城主だった。義本王が王位を追われて英祖王が中山王に就くと、その二男、湧川王子が北山世之主と称し、「仲北山」初代として今帰仁城に入り山原を治めていた。
 1322年、本部大主が策をめぐらし、湧川按司の留守中に城を乗っ取った。湧川王子の孫にあたる丘春は、北谷城下の砂辺村に逃れていたが、本部大主が亡くなり、今帰仁城主の後継者争いに乗じて、旧臣たちとともに城を奪い返した。本部大主の一族は四散していった。


 本部大主の息子、東名大主と謝名大主(ジャナウフヌシ)の兄弟は、平安座島を経て上与那原村に来た。東名大主の子孫は、与那原に住み、屋号新里の祖となった。姉の息子2人のうち打ち1人は謝名大親と称し東大里按司(アジ)に仕え、屋号謝名(照屋姓)の祖となった。もう一人の息子は、与那原大屋子と呼ばれ与那原に住み、屋号照屋(ティーラ)の祖となった。与那原大屋子の子、古堅大主(フルゲンウフシュ)は、大里間切(マギリ)古堅村照屋門中(ムンチュウ)の祖となった。


034
            東名大主のそばにあった小さな拝所     


 与那原役場の前の広場に東名大主を祀った拝所があり、その東側下方に謝名門中元屋(ムートゥヤ)がある。周辺は小高い丘になっていて、与那原発祥の地で、明治時代まで上与那原村と称していた。東名大主の妻は初代の与那原ヌル(神女)になった。謝名門中は福地姓・新垣姓もあり、平安座島の屋号謝名や今帰仁城を7年おきに参拝しているという。

 東名大主を祀る拝所のある高台から降りて、与那原の商店街を歩いていると、史跡、阿知利世之主の拝所がある。この史跡も、どういういわれがあるのかが、まったく分からなかった。この本を読み、やっと分かった。
 
 


 16世紀に入り、東名大主の7代目、謝名比屋が阿知利世之主(アチリユヌヌシ)と協力して与那原湾を埋め立てて、与那原村を創った。当時は、現在の与那原商店街付近一帯は阿知利口(アチリグチ)と呼ぶ浅瀬の湾であったといい、竿を立てて埋め立てしたので竿之増(ソーヌマシ)という地名になった。

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 与那原はいま、広大な埋め立て地の東浜があり、新しい住宅地や大型ショッピングセンターがある。そのこともあって、商店街のある附近は、昔から陸地のように見える。もとは浅瀬で埋め立て地とは予想もしなかった。

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