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2013年8月16日 (金)

奄美諸島の農民一揆、その4。「勝手世」運動

砂糖の自由売買求める「勝手世」運動

薩摩藩は、長州藩とともに倒幕と明治維新に主導的な役割を果たした。一八七一年(明治四年)に廃藩置県が実現した後も、奄美諸島では抵抗のたたかいが起きている。
 一八七三年に、大蔵省が黒糖自由販売を許可した。ところが、鹿児島県はこの布達を人民に告知せず、ひそかに鹿児島商人と結んで、大島商社なるものを組織し、今まで藩庁や県が取り扱っていた砂糖取引一切の権限をこの商社に引き継いだのである。奄美島民はこの商社にだけ黒糖を売却することができ、商社を通してだけ物資を買うことができるというものである。この大島商社による利益で窮乏士族の救済を図るのが狙いであった。

 一八七五年(明治八年)には、黒糖を自由に売買できる「勝手世(カッテユ)」の実現を求める声と運動が全島にわき上がってきた。その頃、名瀬金久の出身で英国帰りの青年、丸田南里(ナンリ)が大島に帰ってきて、やがてこの運動の先頭に押し出される。Imagecarhulky 奄美市文化財・史跡案内では「丸田南里の墓碑」(写真)が紹介されている

 「人民が作る所の物産はその好む所に売り、また人民が要する品物はその欲する所に購入すべきはこれ自然の条理なり。なんぞ鹿児島商人一手の下に束縛をうくるの理あらんや。速やかにこれを解除し、勝手商売を行うべし」と唱えた。

南里の下に結集した人民派代表は、県に商社解体と自由貿易を求め請願書を提出した。南里は首謀者として拘留される。その後、島民代表がまた嘆願し、県は実情調査に動いたが、自由売買を受け入れない。一八七七年(明治一〇年)、砂糖自由売買を求め島民五五人が鹿児島へ請願した。おりしも西南戦争が始まったところで,島民は投獄された。年齢や病弱の二〇人を除き、三五人が西郷軍へ従軍させられた。

西南戦争の後、中央政府は県令に高知県出身の岩村通俊を任命した。人民派、役人派が陳情合戦を繰り広げた。県の裁定は「鹿児島商人の便利を図るべし」というもので、島民の願いは切り捨てられた。

 再び全島的な運動が繰り広げられた。丸田南里は再び投獄された。岩村県令の奄美巡視に人民派が大挙して押しかけ包囲する。一八七八年には、名瀬で大集会が開かれた。県は、大集会のあと、奄美の大島支庁長を解任、島役人を免職にし、新支庁長の着任時に大島商社を解体した。砂糖の自由売買が始まった。

 「(勝手世騒動)は官庁や商社につながる一部買弁層や封建的な忠義者を除き、全島民的(ヤンチュ=債務奴隷のような存在=も込めて)に闘われた一種の民権運動であり、反植民地闘争であった。そして島民によって押し進められた奄美経済における廃藩置県ともいうべき、最初のそして最大の反封建的闘争であった」。『名瀬市誌』はこう高く評価している。Imagecaqf3bju_2

この「勝手世運動」の部分は、文(カザリ)英吉氏著『奄美大島物語』と原井一郎氏著『苦い砂糖』を参考にして紹介した。原井氏は「薩摩藩が絶対的支配者として奄美に立ち現れ約二〇〇年、サトウキビ植民地にされ、悲惨な『収容所列島』とでも呼びたい歴史に終止符を打つ、奄美史の金字塔といえる画期的出来事」とその意義を強調している。

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