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2013年8月23日 (金)

奄美の債務奴隷「家人」、その3

明治に解放令が出たも

奄美諸島の「家人」(ヤンチュ)にたいする解放令が出されたのは、明治時代に入ってからである。

 明治4(1871)年、「膝巣立(ヒザスダチ)解放下人下女令」がようやく出された。といっても、借金帳消しによる解放ではない。身上砂糖1500斤を主家に納めるという条件がついていた。このため、解放は622人にとどまった。
 
 翌年の明治5年には政府から「娼妓解放令」(人身売買禁止令)が出た。このようなことから、奄美群島では下人や膝巣立の解放運動が起こり、膝巣立の逃亡などの動きもあった。
 
 明治8(1875)年、大島に遠島の経験をもつ伊地知清左衛門が来島し、島民に身上砂糖を払わなくても自由になれると説き、家人解放運動を展開した。これにより、主家との緊張が高まり、伊地知は大島監獄に投獄された。それ以降、解放への動きは強まったが、少なくない家人がなお残された(ネット「与論島クオリア」を参考にした)。
 
 明治10年頃は奄美全体で2335人を下らない人数とされた。明治24年には、また存在しているとの記録がある。必要な「養恩料」が払えず、小作化していく者もいた。

 以上は、主に麓純雄著『奄美の歴史入門』、原井一郎著『苦い砂糖』などを参考に紹介した。

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               宮古島の池間大橋

奄美の家人と同じような債務奴隷は、沖縄にもいた。とくに宮古島の名子(ナグ)が典型である。かれらも、宮古島で人頭税廃止運動が起きた明治中期でも、多数存在した。農民の運動が高まり、島役所や県庁は一八九三年(明治二六)三月、「名子」の廃止を打ち出したが、士族・役人らは猛烈に抵抗した。
 宮古島代表が上京し、当時としては画期的な国会請願まで行い、人頭税廃止が決まった。実際に、廃止されたのは、明治36(1903)年であり、名子も廃止された。名子も、稀代の悪税、人頭税の産物だったのだろう。

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コメント

家人の話  なるほど  知らない歴史でした。
たまーに 覗いてます。 右から左に抜けますが、 勉強になります。

コメントありがとうございました。
お役に立てなのなら、幸いです。たまに、覗いていただいているとは感謝です。
 「右から左に抜ける」のは、当然ですよ。書いている私も、前に書いたことはすっかり忘れているくらいですから。

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