奄美の債務奴隷「家人(ヤンチュ)」、その1
奄美の債務奴隷「家人(ヤンチュ)」
奄美諸島の農民一揆を書いたついでに、ふれておきたいことがある。
琉球王国の支配下にあった奄美諸島は、1609年、薩摩藩の奄美・琉球侵攻によって、奄美は琉球から切り離され、薩摩直轄の植民地のようにされた。
薩摩支配となった奄美で、とくに砂糖生産による搾取の過酷さを象徴するような存在に、「家人(ヤンチュ)」がある。年貢が納められず借金が膨れ上がり、債務奴隷となった農民のことである。
奄美のことはまるで素人なので、その実態がよくわからない。でも、「家人」の存在を抜きにして、かつての奄美の社会と歴史は語れないと思う。それで、薩摩による支配の形態と奄美社会の構成について、アウトラインだけ学んでみたい。
麓純雄著『奄美の歴史入門』、原井一郎著『苦い砂糖』などを参考に紹介したい。
飢餓の時は沖縄でも奄美でもソテツを食べた。写真は文章とは関係ない。
借金かさみ身売り
薩摩は奄美を直轄の植民地にすると、各島々に行政を司る奉行(後に代官)や附役を2~3年任期で派遣し統治させた。しかし、小人数の藩役人で広い島に目を行き届かせるのには限界がある。だから、島民の中から与人(ヨヒト)、横目(ヨコメ)、掟(オキテ)、筆子(ヒッコ)などの島役人を登用して配置した。
薩摩の役人の数としては、18世紀後半以降で、代官や附役など、大島の8人を最高に喜界島5人、徳之島6人、沖永良部島と与論島で6人と、奄美全体で25人にすぎない。島民を薩摩の補助役として農民を支配したということだ。
薩摩藩は、奄美島民の身分を基本的にはみんな「百姓」としていた。しかし、奄美の社会は、由縁人(ユカリッチュ)、自分人(ジブンチュ)、家人(ヤンチュ)の3つ階層に分かれていた。
由縁人とは、琉球王府に支配された“那覇世”の時代に、琉球から派遣され、奄美に根付いた役人や奄美出身で役人となった家柄や、“大和世”(薩摩藩の支配)で藩に協力する人を名家(衆達=シュウタ)として新たに取り立てた人などである。由緒人の一族が島役人になり、特権層を形成していた
家人とは、借金のために身売りし、由縁人等に所有されている人である。
自分人とは、由縁人や家人以外の人で、大部分は自分人となる。一般の農民である。
島役人はどれくらいいたのか。その最高位である与人(ヨヒト)が奄美全体で28人、目指(メサシ)・横目(ヨコメ)などは大島だけで140人以上、さらに下級の村役人(村数は144)は大島だけで728人にのぼる。
名越佐源太の記録では、1852年の大島の「島役人」の数は1089人、大島の総人口3万9203人で約2・8%が「島役人」となる。
「島役人」らが中心となり、薩摩の支配を補佐していた。
由縁人は、大土地所有者となっていた。所有する広い土地を家人に耕作させ、利益を上げるとともに、「島役人」にもなる。最も功績のあった由緒人は郷士格、つまり地方武士に準じた身分に取り立てられた。
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コメント
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このことを薩摩の人はどれぐらい知っているでしょうか。沖繩の人はもちろん知らないです。
投稿: さだ | 2021年11月17日 (水) 09時56分
さださん。コメントありがとうございました。
奄美のこんな実態は、鹿児島でもあまり知られていないかもですね。
沖縄でも、宮古島では「名子」という債務奴隷がいたそうです。
投稿: 沢村昭洋 | 2021年11月17日 (水) 22時24分