奄美諸島の農民一揆、その2。徳之島の母間騒動
奄美諸島では、薩摩藩による過酷な圧迫と搾取への島民の抵抗を事前に排除するために、刀狩りがたびたび繰り返された。そんな統制の強化のもとでも、奄美では島民による抵抗が何度も噴き上がった。薩摩藩では、農民を集落のグループ単位に縛り付ける特有の門割(カドワリ)制度があり、武士でありながら平時は農民として働く郷士が各地に散らばっていて、百姓一揆は抑え込まれていたといわれる。ただし、百姓一揆がなかったのは九州本土でのこと。奄美諸島では百姓一揆が幾度も起こっているのである。有名な一揆を紹介する。
徳之島の母間騒動
一八一六年(文化一三年)に、徳之島で名高い一揆である母間(ボマ)騒動が起きている。松下志朗氏著『近世奄美の支配と社会』、知名町教育委員会編『江戸期の奄美諸島』)からあらましを紹介する。
徳之島
徳之島では、一八一四年に台風で死者八人、一〇〇〇棟近い家屋の流出・倒壊の被害を受け、一八一五年、疱瘡が流行し九六七二人がかかり、一八九一人が死亡するという惨たんたる状況にあった。そこに年貢米のきびしい通告がされた。
一八一六年五月、母間村の農民は隣村の轟木村に二〇五石ほどの土地を入作にして耕作していた。轟村から出米(ダシマイ、税外の部落運営米)を要求され、これを拒絶した。そこで仮屋(代官所)の詰役は、首謀者である村の掟役(役人)の喜玖山を捕え、一室に監禁した。
激高した母間村の農民六三〇人余が六月九日、鉄砲、竹槍、魚突などで武装して喜玖山のとじこめられた「格護所」を打ちこわし、村へ連れ帰ったのである。そして、一二人が板附船に乗り込んで、鹿児島の藩庁へ訴え出たが、いずれも入牢させられた。
結局、一八一九年、一二人のうち、四人は許されて帰島し、一人病死、喜玖山ら五人が翌年、七島へ遠島処分となる。寛大な措置をとった。厳罰に処することは、徳之島の騒動を一段と激化させることを怖れたからであろう。
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