奄美諸島の農民一揆、その5。「三方法」運動
「三方法」運動
砂糖の自由売買ができる時代が到来した。全国から大小の商人が押し寄せた。 商人は、先を競って契約先の取り込みに躍起となった。
台風の影響や砂糖の質が悪くなったため、島民は高利の借金で苦しむようになった。
わずか4,5年で膨大な借金が積み残り苦境に立った。
明治19(1886)年、大島島司の新納(ニイロ)中三は、流通に問題があると考え、大坂商人と砂糖一手販売の契約を結び、島民を守ろうとした。鹿児島商人の反感を受け、免職された。
明治20(1887)年、県令39号大島群島糖業組合規則が定められた。サトウキビを栽培し黒糖を製造販売する者はすべて組合を設け、島庁の認可を受ける。樽詰された砂糖は監査証を付す、という内容だった。
これは、黒糖自由販売を禁じ、行政に従属させ、一気に近世以前に逆戻りさせることになる。また、大坂商人を締め出し、鹿児島商人の南島興産商社の独占利潤を守るねらいだった。
これに立ち向かうため、組織された有志総代会は、「三方法」運動を提起した。それは①不当な借金支払いを拒否する②栽培方法を工夫して生産量を増やす③質素な生活で倹約するという内容である。
借金は、島民が直接多くの借金をしたわけではなく、金品の返済は黒糖という契約だったが、台風の影響で生産量が少なくなり、商人たちは貨幣で返済する契約に変えた。その際、黒糖で返す時には黒糖の値段を低くした(返す黒糖の量は多くなる)のに、貨幣で返すとなると、今度は黒糖の値段を高くした(返すお金が高くなる)。裁判が多かった背景には、このような事情もあった。
喜界島では、有志同盟がつくられた。農民が警察派出所を襲うという事件も発生した。県令39号反対の運動は全群5島に広がり、裁判も多く行われ、県議会でも問題になった。県令39号は発布1年で撤回に追い込まれた。
以上は、原井一郎著『苦い砂糖』、麓純雄著『奄美の歴史入門』を参考にして紹介した。
奄美ではなぜ一揆が起きたのか
奄美諸島では、農民のたくましい抵抗とたたかいがあったことがわかる。薩摩は、奄美以外には、百姓一揆がなかったといわれる。ではなぜ奄美諸島では、農民の一揆、抵抗の闘争が起きたのだろうか。原口虎雄氏は『鹿児島県の歴史』で次のようにのべている。
奄美の一揆は「本土に比べて数が多く、越訴、強訴などの積極的反抗の形をとった事件が多い。原因は島民の極度の貧窮と本土のような郷士制度の圧力を欠くところにあった」。
原井一郎氏も、奄美以外に薩摩で一揆がないことを次のように指摘している。「農民を集落のグループ単位にしばりつける特有の門割(カドワリ)制度と、平時は農民でいざ鎌倉の時に武士として出勤する郷士を散らばらせていたことで、百姓一揆や世直し一揆は押さえ込まれていたという」。つまり、島民の耐えがたい「極度の貧窮」に加えて、奄美には一揆を抑えつけていた門割制度や郷士制度がないことに、一揆が起きた要因の一つと見ている点で、両者の見方は共通している。
そのなかで、紹介したような民衆の力強い抵抗のたたかいが刻まれていることは、奄美諸島に生きる人々の誇りある歴史と伝統であると思う。
なお、沖縄でも、鹿児島本土と同様に、「一揆がなかった」といわれる。しかし、狭義の意味で一揆とは呼ばなくても、苛烈な抑圧と搾取にもとで、民衆の抵抗とたたかいが幾度も起きている。宮古島では「島燃ゆ」と呼ばれた人頭税廃止闘争の輝かしい農民のたたかもあった(上)。関心のある方は、「沖縄民衆の抵抗の歩み」をブログにアップしてあるので読んでいただきたい。
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