奄美諸島の農民一揆、その1
奄美諸島の農民一揆
薩摩藩の倒幕資金と奄美の砂糖政策について、紹介したので、薩摩藩によって苦しめられた奄美諸島の様相について少しふれておきたい。ただし、奄美の歴史そのものではなく、薩摩に対して勇敢にたたかった島民の誇り高い歴史についてである。
薩摩支配でサトウキビ植民地に
薩摩藩は、1609年に奄美諸島を攻略しながら琉球王国に侵攻し、支配下に置いた。琉球は、中国貿易で利益をあげる思惑もあって、形式的には独立国として存続させ、中国との冊封(サッポウ)体制を維持した。冊封とは、中国皇帝から国王として認証を受け、その臣下となる体制である。
しかし、薩摩は琉球王国の版図にあった奄美諸島は切り離し、薩摩直轄の植民地とした。奄美を統治するとともに、そこから最大限に搾取をする政策を推し進めた。
当初は稲作を奨励していたが、サトウキビ生産が軌道に乗り始めると、砂糖生産を拡大した。藩財政の窮乏化のもとで、砂糖生産のモノカルチャー化を進めた。
さながらサトウキビ植民地とされた。
年貢米もすべて砂糖で代納させ、さらに年貢に差し出した残りの黒糖もすべてお上に差し出させる「黒糖惣買入制」(砂糖専売制)をしくなど、黒糖収奪のあらゆる手段が強化された。
もはや限界にある島民に畑を強制的に割り当て、増産をあおった。黒糖の製法にいたるまで改善を求め、従わなければ労働刑、粗悪な黒糖を作った者は、首かせの刑罰にする。キビの切り株が高いだけで村中引き回しの処分にする例もあった。
単一作物の強制的栽培のもとで、1755年、徳之島では凶作により餓死者が3000人を超える惨状となった。台風や干ばつによる凶作、飢餓や流行病など災厄にたびたび見舞われた。
圧迫される農民は、借金が増え「ヤンチュ」と呼ばれる債務奴隷が急増した。農民が集団逃散する例も多かった。村がゴーストタウンになる「潰れ村」も発生した。
以上は松下志朗著『近世奄美の支配と社会』、原井一郎著『苦い砂糖』を参考にした。
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