与那原・御殿山にまつわる伝説
御殿山にまつわる伝説
与那原町を歩くと、御殿山(ウドゥンヤマ)も有名な史跡だ。「山」とついているが、山ではない。海辺近くだ。ここも、見に行った時は、どういう伝承があるのか、知らなかった。首里王府の祭祀をつかさどる最高位の女神官、聞得大君(チフジン、キコエオオキミともいう)にまつわる伝承があるらしい。伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山時代の謎を解く』から、あらましを紹介する。
御殿山と呼ばれる祠がある。そこは、浜の御殿(ハマヌウドゥン)とも呼ばれ、昔聞得大君が隠居した跡だと伝えられ、当時は民家は無く、浜田山という小さな丘になっていたという。琉球王国の聞得大君職は、尚真王の中央集権により設けられた女神官の名称で、それ以前は最高女神官のことを国司(クニチャサ)大君とも呼ばれていた。
察度王の4男本部王子には五男二女がおり、次女は、首里城の祭祀を司る聞得大君職であった。1402年に久高島に参詣に行った帰り暴風にあって舟が流され行方が分からなくなった。
1405年に、武寧王は佐敷小按司尚巴志に滅ぼされている。新しく中山王になった尚思紹(ショウシチョウ)は、3年間も聞得大君職を継ぐ者がいないので、首里城での即位式ができなくて困っていた。
各地の神職を集め協議した結果、行方不明になった聞得大君を探し出し、首里城に連れ帰らなければならないという「君真物(チンマムン)」という神からお告げが下された。神のお告げで、「聞得大君は大和(薩摩)の国に元気でいるから、早く迎えに来るように」ということであった。馬天ヌルをはじめ7名の神職による船団で、大和(薩摩)に向かった。
いったん、紀伊国に漂着した聞得大君は薩摩国で元気に暮らしていたが、すでに薩摩の殿様の子を宿していた。迎えに行った皆は薩摩の殿様に連れ戻したいと願ったが、美しい聞得大君を愛していて良い返事がもらえなかった。そこで馬天ヌルが聞得大君の両手にハジチ(針突き=刺青)をしたので、やっと殿様も帰国を許した。
聞得大君は穢(ケガ)れた身では首里城の祭祀を行うわけにはいかないと、与那原の浜に庵を結んで住むようになった。そこで男の子を生み、この地を御殿山と呼ぶようになったという。産湯に使った井泉は親川(ウェーカー)と呼ばれ、代々の聞得大君が久高島参詣のとき参拝するようになったという。生んだ男の子は、生後間もなく亡くなったとも、成長して後の城間親雲上(グスクマペーチン)であるとも伝えられている。
この伝説も事実を隠した物語となっている。実際は、聞得大君は尚巴志が中山を攻める前に首里城を抜け出し、熊野権現の本拠地である紀伊国に逃げたのだと考えられる。交易のあった薩摩に援軍を頼む武寧王の使者として、紀伊国の坊さんと共に薩摩に向かったものと考えられる。
この事件以来、聞得大君の就任儀式である「御新降」(ウアラウリ)は、久高島ではなく、斎場御獄(セーファウタキ)で行われるようになった。
以上が、同書からの紹介である。
琉球王朝の時代、国王が聖地・久高参詣や王府の神女の聞得大君の即位式である御新下り(オアラオリ)の際、首里を出て通るのが与那原だった。
「親川」(下)は、国王、聞得大君が首里を出て最初の拝所とし、休憩の用水を献じた所と伝えられる。
聞得大君は、この親川の水に中指を浸し、額をなでることで、霊力を獲得する「お水撫」の儀礼がされたと伝えられている。
御殿山(ウドゥンヤマ)も、本島南部の拝所を回る「東御廻り(アガリマアイ)」の巡礼地の一つで、聞得大君の御新下りの際の休憩所があった場所である。
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