奄美諸島の農民一揆、その3。犬田布村一揆
犬田布村で百姓一揆
一八六二年(文久二年)には、やはり徳之島で犬田布(イヌタブ)村の百姓一揆が起こる。
薩摩は厳しい黒糖政策を行ない、個人の自由売買を厳禁し、もしこれを犯せば死罪、自家用に隠し持っても遠島処分にされ、製造粗悪なものは首かせ、足かせの刑を科すというほどだったという。
犬田布部落の為盛という正直な農夫の産糖が、見積高に不足をきたしたため、隠匿したという嫌疑をうけ、島の詰役であった寺師次郎衛門がみずから出張して取り調べに当たり、為盛を丸裸にして割木の上にひざまずかせ、その膝の上に大きな石を乗せて苦しめながら拷問に附して白状を迫ったことから、村民が為盛に同情を寄せてその罪なきことを弁じ、なお寺師の理不尽な仕打ちを責めようとして蜂起した大事件であった(文=カザリ=英吉氏著『奄美大島物語』)。
為盛の救出のため農民一五〇人余が仮屋を包囲し、役人を追い、森にたてこもった。首謀者は遠島処分(三人)で決着したという(ネット「ウィキペディア」から)。
「momo太郎日記」ブログで、「犬田布騒動記念碑」(写真)が紹介されている。
徳之島の1964年建立「犬田布騒動記念碑」は下記のように記している。
「薩藩の苛酷なる砂糖政策の犠牲となり、無実の罪で拷問を受ける為盛救出のため、犬田布農民150余名は、元治元(1864)年旧3月18日、悲壮なる団結のもと、仮屋を包囲、役人を追い、戦いの準備を整え、積石付近に集結、遂になす所なく解散せるも、その首謀者と目された下記の内6人は、明治9年まで13年間の遠島処分、残りの者は3年の体刑を受け、犬田布・阿権原・鹿浦・阿三の農道労役を命ぜられた。これが世にいう犬田布騒動であり、事後徳之島の砂糖取締りは緩和されるに至った。いまその当時をしのび、百年祭を挙行するに当たり、茲に記念碑を建て、その挙を思い冥福を祈る」(知名町教育委員会編『江戸期の奄美諸島 「琉球」から「薩摩」へ』の「用語解説)から)
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