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2013年9月

2013年9月30日 (月)

島唄に歌われた山桃

 沖縄の民謡にヤマモモ(山桃)が歌われている曲がある。その代表的なのが「桃売アン小」(モモウイアングヮー)。この曲をいま練習しているところだ。

 題名は、桃売りの娘さんのことを表している。桃売りといっても、いわゆる白桃、ピーチではない。白桃は沖縄では作っていない。山桃のことだ。山桃は、別名楊梅(ヨウバイ)という。

 山桃は、私の故郷の高知県では身近にあった。田舎の自宅の裏に大きな山桃の木があり、木に登ったり、食べた記憶がある。沖縄に住んで、山桃売りがあったことを知ると、なぜか懐かしさがこみ上げる。とくに、おいしいというわけではない。果実は、ちょっと甘酸っぱい。初夏に採れた。小粒で、表面にはちっちゃな粒々がたくさんある。ジャムや果実酒にも加工されるそうだ。

 Photo 日本では、関東以南に生育し、中国でも暖かい地方にあるというから、沖縄にもあるのは当たり前だろう。

 高知県では、県の花、徳島県では県の木に指定されている。

 山桃ですぐ思い出すのは、高知県出身の宮尾登美子さんの小説「櫂」の冒頭のシーンである。私は、小説よりも映画の出だしの場面が印象に残る。
 高知の十市(トイチ)の楊梅(山桃)売りが、天秤棒を担いで現れる。ザルに盛られた山桃の赤い実が目に焼き付いている。

 

 ところで沖縄でも山桃があるといっても、移住して8年たつが一度もお目にかかったことがない。知り合いに「山桃ってあるんですか?」と尋ねると「あるよ、山桃は」と答える。だが、スーパーだけでなく、各地のJAの直売所を見ても、市場をのぞいても、見たことがない。

 昔は、山桃といえば、いまの沖縄市の山内諸見里(ヤマチムルンザト)あたりはよく採れたらしい。「祖慶漢那(スウキカンナ)節」という曲がある。沖縄各地の物産を売り歩く様相を歌った曲だ。ザルやムシロ、山桃、魚、笠などそれぞれの産地が登場する、そのなかに山桃は次のように歌われている。

 「♪山内諸見里ぬ 桃売アン小やいびしが 山桃小や 買うみそうらに」
 (山内諸見里からきた桃売り娘ですが、山桃を買ってください)
 
 歌はこのあと「あなたの山桃はまだ青くて食べられないよ」と断ると「じゃあ、白桃を買ってください」と再度、ねばるというやり取りが描かれる。

 

 戦前は、嘉手納(カデナ)から那覇、与那原、糸満まで軽便鉄道が走っていたので、鉄道に乗って、山内諸見里から那覇、首里など山桃を売りに来ていたそうである。

 戦後、鉄道はなくなった。山桃の産地だった山内諸見里のあたりは、米軍基地になってしまっているという。残念なことである。山桃の木は、基地の中でいまも残っているのだろうか。花や果実をつけているのだろうか。でも、山内諸見里は沖縄南インターの近くだから、もう木はないだろう.。いま、山桃をまったく見ないのには、こんな事情もあるのだろう。
 

 「桃売アン小」の曲については、今月のアルテ・ミュージック・ファクトリーで歌う予定なので、その際に紹介したい。

 追記

「祖慶漢那節」の歌詞について、桃売りと買い手のやり取りと解釈して書いた。だが、アルテ三線仲間の玉那覇さんによると、売り手と買い手ではなく、売り手の商人が競い合って売る様子を描いているという。だから桃売り娘が「山桃を買ってください」というと、別の売り手が「あなたの山桃は青くてまだ食べられない。私の白桃を買ってください」と売り込むという歌意になる。なるほど。

2013年9月29日 (日)

モトブリゾートでライブを楽しむ

 沖縄北部の本部(モトブ)町にあるホテルモトブリゾートに出かけた。ホテルは、名護から海洋博公園に向かい、本部大橋を渡ったらすぐ左にある。

Img_3502 あまり大きなホテルではない。なぜ行ったのかというと、ホテルの夜空の下で、食べ放題、飲み放題を楽しみながら、沖縄で唯一のGSバンド、SSカンパニーのライブを聴くためである。前日も、ミノカズバースデイライブで聴いたばかり。連夜のライブというわけだ。

 沖縄は、すぐ身近にさまざまな音楽のライブがあり、楽しめるのがスゴイところ。前夜と同じバンドであっても、今度はリゾートホテルでの宿泊付き、運転の心配もなしに飲み楽しめる。これで、一人8000円だから安い!

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 予想された雨も心配なく、野外ライブにうってつけ。本部には、熱烈なSSファン、RBCラジオ「団塊花盛り」のリスナーがいる。「はれくも」さん夫妻、「本部のルーシー」さん、「アユナ」さん、「オキザリス」さん。糸満の常連さんや金武町、読谷村などからも、お仲間たちが駆けつけた。

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「はれくも」さんとは、なぜか同じ時期に「源氏物語」を完読したという不思議な縁。

  この夜は、なんと150人ほどの参加でライブは盛り上がる。Img_3523
 もう女性や男性、年齢も関係なく踊りだす。踊れば楽しさは「倍返し」となる。それが「沖縄の法則」であるようだ。

 同じSSライブでも、前夜とはまた違った曲目を交えて演奏した。Img_3525
 いつも人間電車で踊る「佐敷幼稚園」は、ここでは「もとぶ幼稚園」となる。幼稚園といえば、ホテルには幼稚園児が集団で「お泊り」にきていた。

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 ライブの後は、カラオケ2次会で自慢のノドを披露した。SSメンバーの2人参加してくれた。Img_3529
 さすがに午前様で疲れたが、朝のホテルからの眺めは素晴らしかった。


ライブの詳しい模様は,お気に入りにある「レキオいくぼー日記」をご覧ください。

2013年9月28日 (土)

箕田和男バースデイライブ

 箕田和男といっても、沖縄のラジオリスナーでなければ知らないだろう。RBCアナウンサーだが、9月26日、60歳誕生日で定年退職した。今回は、還暦祝いのバースデイプラスがあった。

 ライブは、おもろまちのイタリアレストラン「トップノート」で開かれ、リスナー、GSファンはじめ多数が集まった。Img_3465

 ミノさんといえば、「団塊花盛り」や「ホリデーインポップス」などの番組を担当している。なかでも、かつてのグループサウンズの熱烈ファンで、沖縄唯一のGSバンド「SSカンパニー」の応援団長のような存在だ。「団塊」の番組の中の「GSコーナー」で毎週、リクエストに応えて、GSナンバーを流す。それだけなら、フツーのアナウンサー。それだけでないところが、ミノさんの真骨頂だ。

 ミノさんは、自らGSやポップスの楽曲を歌手顔負けに歌いこなす。CDも出し、カラオケにも入っている。おまけに、SSカンパニーのリーダー、真ちゃんと組んで、「ピエロの恋」ほかGS曲を作詞している。

 この日も、最初から立て続けに、4曲ほど歌った。歌うのは、7か月振りだとか。1昨年、病気で倒れて休職したが、回復した。その後は元気で活動している。Img_3477


 RBCアナウンサーといえば、「団塊花盛り」を担当していた5人のうち、4人まで県外出身者だ。なかでも、すでに定年を迎えた小山康昭、柳卓と箕田和男は同世代だ。3人そろって退職となったが、その後も番組は担当して仕事を続けている。ただ、、柳卓さんは、6月に脳梗塞で倒れた。ようやく、回復できて、週1回番組をこなすようになったばかり。アナウンサーは激務だから、人一倍、健康に気をつけてほしい。

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 「団塊」を担当するもう一人の県外出身者、高橋勝也君はまだ若い年代。かれも、ドラムをたたくのが好きだ。この日も、2曲たたいた。なかなかの腕だ。
 ギリギリまで出席してリスナーと交流したあと、放送局に帰り、夜10時からの「団塊」を担当し、さっそく「バースデイライブ」の模様を参加者の声をまじえて紹介していた。いま紹介したアナウンサーは、いずれも歌がうまい。商売柄、声がいいということもあるかもしれない。

Img_3493 ビートのきいたGSナンバーが続くと、糸満の「風は南から」でのライブの常連のお姉さんを中心に踊りまくる。

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 オリジナル曲「佐敷幼稚園」では、参加者のほぼ全員参加の踊りの列ができた。

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 アンコールに応えてのミノさんの「ピエロの恋」、「何も言えなくて、夏」で大盛り上がりのうちに終わった。

 GS全盛期には、まともに聴く音楽とは思っていなかった。でもいまライブで聴くと、なぜか、気分が若返るような気がするから不思議だ。








2013年9月25日 (水)

「半沢直樹」の魅力

 視聴率42%を超えて(関東)圧倒的な人気で終わったテレビドラマの「半沢直樹」。遅まきながら一言いいたい。

 なぜ、そんなに人気が出たのか。その答えとして、勧善懲悪で「水戸黄門」と同類のドラマだから、という評論家がいる。でも、それは極めて浅薄な見方であり、事実としても違う。

 なぜなら、水戸黄門は江戸幕府のときの副将軍である。爺さんの恰好をしていても、最後は葵の御紋を示し、副将軍の権威で悪い役人を糺すというものだ。でも、半沢直樹は、そんな地位はない。振りかざすような葵の御紋も権威もない。

 ただ、銀行の上司、幹部の不正、悪事を暴く証拠を徹底して調べ集めて、突き付けることでしか、追及はできない。悪事の証拠を集めるために、銀行の同僚、同期入行の友人、中小企業の親方など、高い地位ではない、下積みの人々も含めて、みんなで駆け回る。力の源泉は、不正を見過ごせないという深い思いで結ばれた強いきずなである。

 水戸黄門とは真逆である。

 それに、水戸黄門が役人の悪事を懲らしめるのは、幕府の権威を保つことに究極的な目的がある。

 半沢直樹が、悪事に立ち向かう立脚点は、大手銀行が本来の銀行の姿から逸脱していることに対する憤懣である。中小企業が危機にあるとき、資金を貸さないばかりか、引き上げる。倒産させても銀行の利益を守ろうとする。雨の日に傘を貸すのではなく、逆に傘を取り上げる。そんな理不尽なやり方をしてきた者が、銀行の中で出世する。幹部になる。

 銀行に殺された半沢の親父の姿は、彼の行動の原点である。人を人とも思わない、収益だけが至上命題のような、大手銀行の論理とそのもとで出世しながら不正に手を染める幹部。そんな銀行のあり方を変えたい、というところに半沢の究極の目標がある。

 ドラマでは、しばしば銀行のあり方を鋭く問いかける場面が登場する。最終回にも、半沢の大演説が際立った。

 日ごろ、利益至上という企業の論理や、そこでの無理が通れば通りが引っ込む上意下達の企業秩序、社員を道具のように使い捨てて顧みない社員管理ーー。そんな渦の中で苦い思いをしている圧倒的多数のビジネスマン、銀行員、その家族、そして中小企業の親方など、多くの視聴者が共感し、喝さいの拍手を送る。ウナギ登りの高視聴率には、そんな背景があるのではないだろうか。

 あとひとつ、付け加えたいのは主演の堺雅人である。半沢になりきった演技力はなかなかのものである。そのほかの出演者も、みんな個性的で魅力がある。なかなかの適役ぞろいで、ドラマに厚みを与えている。
 堺雅人に注目したのは、NHK大河ドラマ「篤姫」からだ。
 もう一つの注目ドラマが、フジテレビで10月9日から始まる堺雅人主演の「リーガルハイ2」である。主役の古美門研介は、正義の御旗を嫌い半沢とは、真逆の役どころだ。だが、堺雅人の演技がドラマの面白さを支えている。秋に始まるドラマでは「リーガルハイ2」が一押しのお楽しみである。

 半沢直樹のドラマの魅力は、さまざまな角度から論じられている。これ以上、語るつもりはない。ただ水戸黄門と同じという見方にだけ、一言「それは違う」と言いたかっただけである。

 

2013年9月23日 (月)

「あやぐ節」に歌われた渡地

「あやぐ節」に歌われた渡地

「あやぐ節」のなかで、宮古島から沖縄本島に船旅する夫に「落平の水で水浴びしないように」と歌われていることを書いた。なぜ女性は、本島に出かける夫の心配をするだろうか。それは、「あやぐ節」の別の歌詞をみれば、よく分かる。

「♪宮古(ナーク)から 船出ぢゃち 渡地(ワタンヂ)ぬ 前ぬ浜に 直(シ)ぐはいくまち」

(宮古から船を出して 渡地の前の浜に すぐ走り込ませた)

 これも、文言だけではよく分からない。渡地というのは、辻、仲島とならんで有名な遊郭だった。つまり、渡地に走り込むというのは、遊女のもとに走り込むことを意味する。

 島袋盛敏、翁長俊郎著『標音評釈琉歌全集』は次のように評釈している。

 渡地に走り込んで来ると、そこには…渡地小女郎波枕(遊女)たちが待ち受けている。それで船頭衆は渡地に向かうときは元気が出て、他の方向に行くときよりも倍の力を出して、舟足を急がせるのであった。そして海の男達は手荒く小女郎たちを愛撫するのであった」

 かなれ露骨な表現で、船が渡地に急ぐ意味を評釈している。

 ただし、この渡地には「宮古蔵」と呼ばれる施設があった。下の地図で見ると、渡地遊郭のすごそばに宮古蔵がある。
 宮古蔵は「宮古、八重山の貢物をつかさどった機関」で、貢布、特産品の貢物を扱った。「王府の各機関に納入するさいの窓口業務的な性格の機関であったようだ」。また、「貢使の宿館的な機能ももっていたらしい」(『沖縄大百科事典』)。

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 宮古から本島に向かう船といえば、貢納物の運搬が重要な任務の一つだったはずだ。まずは宮古蔵に貢布や特産品の貢物を納入することが大切な任務である。一仕事終わってから、遊郭で遊ぶことはたしかにあるだろう。宮古蔵が宿館的な役割もあり、その宿のそばに遊郭があれば、誘惑にさらされるだろう。
 宮古からの船といえば、貢物の運搬でなくても、何らかの用務があっただろう。ただ遊びのためにくるのではないはずだ。用務はそっちのけにして、まず渡地の遊郭に走り込むというのは、少しオーバーな表現かもしれない。

 とはいっても、この琉歌で歌われる「渡地ぬ前ぬ浜に直ぐはいくまち」という表現は、なんか喜び勇んで向かうという雰囲気がある。だから、運んできた貢物を納入するなど用務が終われば、遊べるということで、喜び勇んで渡地の浜に急いだのだろうか。
 そんなことも想像した。

 

追記

 

仲宗根幸市編著『琉球列島島うた紀行、第三集沖縄本島周辺離島那覇・南部』では、「あやぐ節」は宮古から旅してきた船乗りと遊女との問答歌だという。そうなれば、遊女のいるは渡地の前の浜に急ぐという意味も、おのずと明らかである。ただし、船乗りは、それなりの用務をもって船旅をしてことには変わりないだろう。

 

 

2013年9月22日 (日)

オリオンミュージックフェスタ

 沖縄ビールといえば、もちろん「オリオンビール」。この県産ビールは、毎年オリオンのコマーシャルソングを歌った歌手を一堂に集めた「オリオンミュージックフェスタ」を開催している。6本入りビールの空き箱のシールを張って応募し当選しないと、入場できない。なんと、今回初めて当選して、9月21日、宜野湾市の宜野湾海浜公園の野外劇場でのフェスタに行った。

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 出演は、沖縄を代表するミュージシャンたちだ。野外劇場は、3000人くらい入れるだろうか。いくら彼らの熱烈ファンだといっても入れない。「ここにいらっしゃる皆さんは抽選で選ばれた方々です」と何度も会場で強調していた。

 オリオンビールのCМといっても、大和的に考えるのとはまるで違う。いずれもその時々の沖縄でのヒットソングになって、愛されている。ミュージシャンにとっても、代表曲にもなっている。沖縄音楽の一ジャンルをなしているといってもいいかもしれない。

 午後4時スタートで、9時まで夜空に音楽が響き渡った。
 最初は、福岡出身で沖縄在住のイクマあきら。「ダイナミック琉球」(2008年)ほかを歌った。この曲なんか、いまやエイサーの定番曲となっている。なんと、彼のお母さんが車イスに乗って私のすぐ隣で観ていた。ビックリである。

 しおりさんは「ずっと君と」(2009年)ほかをキーボードの弾き語りで歌った。弟さんが作曲をするとか。一緒に出演した。

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 人気バンドのパーシャクラブは「東(アガリ)バンタ」(2007年)や「五穀豊穣」ほかで盛り上げた。新良幸人(アラユキト)は、ビールで乾杯しながら、三線を弾き鳴らす。

 manamiさんは「ベストフレンド」(2011年)など歌った。東京で活動していたが、沖縄を拠点にやっていくという。
 
 下地勇は、すべて宮古方言で歌うことにこだわっている。歌詞はまったくわからない。音楽もポップスでもない、ロックでもない、ラテンでもない。一種独特である。そんななかで「希望を注げ」(2011年)などCМソングだけは、共通語で歌われており、ようやく理解できる。

 最後のトリは、なんといってもdiamantesu。「ヘイ!二才達(ニセター)」からはじまり、「cebada amigo」までヒット曲をメドレーを含めて熱唱した。

 ラテンのリズムに会場の盛り上がりは最高潮だった。
 オリオンのCМソングといえば、私がもっとも好きなのは、beginの「オジー自慢のオリオンビール」である。沖縄社会の様相が見事に歌いこまれている。いまや県民愛唱歌の一つといえるだろう。ただ、彼らはメジャーになりすぎて、この種のフェスタにまでは来ないのが残念だ。自分たちで「うたの日コンサート」を開いている。

 会場は撮影禁止なので、ある人が撮った遠望の写真だけ使わせたもらった。

 diamanntesの素晴らしさを味わうために、ユーチューブにあった「勝利のうた」をアップする。これは、この日は歌わなかった。

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2013年9月21日 (土)

「あやぐ節」に歌われた落平

「あやぐ節」に歌われた落平(ウティンダ)

 

 沖縄民謡の「あやぐ節」は、宮古島から沖縄本島に来る様子など歌った民謡である。宮古民謡ではなく、本島で歌われる曲だと聞く。宮古民謡の「とうがにあやぐ」が元になっているともいわれるが、私は、あまり似ていないように思う。

 歌詞の中に「落平の水に浴びすな」という文言が出てくる。この「落平(ウティンダ)」がよく分からなかった。Img_3390           現在の落平の様子    

 那覇市のモノレール壺川駅前に史跡案内板があり、そこでこの附近の史跡が紹介されているなかに、落平の紹介がある。

 現在、沖縄セルラースタジアム(野球場)の南側の道路端に落平樋川(ウティンダヒージャー)がある。この湧水が歌に登場する落平だった。

 野球場のある奥武山(オウノヤマ)公園のあたりは、昔は海で、奥武山は島だった。埋め立てられた土地だ。

落平の湧水は、この付近を走るたびに、なにか拝所のような場所なので、「何を祀っているのかな」と前に見に行ったことがある。そこは、湧水であり、そこが拝所ともなっていた。その時は、水量はチョロチョロ出るくらいで多くなかった。まさか、この湧水が「あやぐ節」でうたわれる落平とは思いもしなかった。

 昔の那覇は、井戸は塩辛水で飲料水には使えなかった。そこで、対岸の落平から湧き出る水を水桶に積んだ伝馬船で那覇に運んだ。その水を飲み水として売り歩く「水売り」が見られたという。

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           落平に殺到し、順番待ちをする伝馬船


史跡案内板にある昔の写真を見ると、水桶を積んだ伝馬船が水汲みのために並んでいる。当時の雰囲気がよくわかる。

 話は「あやぐ節」の歌詞に戻る。落平は次のように歌われる。

「♪沖縄いもらば 沖縄の主 落平ぬ水に 浴みさますなよ 吾(バ)んたが香(カ)じゃぬ 美童(ミヤラビ)匂いぬ 落てぃがすゆら」

(沖縄本島に行けば 沖縄の旦那様 落平の水で水浴びしないように 私の匂い  若い女性の匂いも 落ちてしまうのではないかしら)

 琉歌の字面だけの和訳では、意味がよく分からない。島袋盛敏、翁長俊郎著『標音評釈琉歌全集』では、「あやぐ」ではなく「とうがに節」という題名で、「あやぐ節」と同じ歌詞(琉歌)が収録されている。この『琉歌全集』は、次のように評釈をしている。

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           落平の水を水桶に受ける伝馬船

 「落平の水に浴みないようにして下さい。そして私の匂、いとしい匂をいつまでも持っていて、他の人に移さないようにして下さい。お前の匂を他人に移してなるものか、いつまでも私が強く抱きしめて放さないから安心しておいで」

 夫が宮古島から本島に旅していけば、浮気をしないか心配だったのだろう。「落平の水」にかけて、「私の匂いを落とさないで、浮気しないで」と諭したのではないだろうか。

 

追記

 

仲宗根幸市編著『琉球列島島うた紀行、第三集沖縄本島周辺離島那覇・南部』によると、この歌詞は、夫と宮古の妻との関係ではなく、「宮古から那覇へ旅してきた船乗りと遊女の問答歌」だという。となれば、「落平の水で浴びてはいけない」と言っているのは、遊女となる。

 

2013年9月19日 (木)

怪物と恐れられたガーナー森

怪物と恐れられたガーナー森(ムイ)

真玉橋の石獅子を前にアップしたとき、一基はガーナー森に対する魔除けの意味で設けられたものであることを紹介した。毎月朔日(ツイタチ)と15日には石獅子に赤いまん頭を三つ供えて『ガーナー森(悪魔)がこの村に来たら追い払ってください』と祈願する習慣があったという。

このときは、ガーナー森がどこにあるのかよくわからなかった。アルテ三線仲間である玉那覇宗造さんから教えてもらった。那覇の古波蔵方面から那覇大橋を渡りすぐ左手にある居酒屋「能登の海」の裏側に小山がある。これがガーナー森である。

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 昔は、国場川河口(漫湖)の中にある小さな島だった。

 現在の河口付近は大半が埋め立てられてしまい、ガーナー森も地続きになっている。かつて、奥武山(オウノヤマ)からガーナー森にかけての景色は名勝地として有名だった。

 案内板があり、次のように説明していた。

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 この森にはナハキハギが群落をなして生育しています。ナハキハギは、アフリカ・オーストラリア・インド・東南アジア・太平庄諸島・中国大陸・台湾などに分布するマメ科植物です。沖縄県では、西表島、石垣島、沖縄島などの海岸に生育しています。沖縄島はナハキハギの北限地になっています。この森は、歴史的にも名勝として知られ、ナハキハギ群落のある大切な記念物です。Img_3402

              現在の漫湖。とよみ大橋を渡った左手にガーナー森がある   

 尚敬王の冊封使の徐光(ジョホコウ、1719年来琉)は、那覇港から国場川河口にかけての景色のよさを「漁舟夕照」とほめています。

 また、尚温王のときの冊封使李鼎元(リテイゲン、1800年来琉)も、二度奥武山に遊び、ガーナー森を「鶴頭山」と詠んだ詩を残しています。

 名前の由来は、ガーナーとは「たんこぶ」のことで、形が似ているからといわれる。ガーガーとうるさい鵞鳥(ガチョウ、雁の仲間)が棲んでいたからという説もある。

玉那覇宗造さんによると、伝説ではガーナー森は怪物だったという。漫湖を我が物顔で暴れ回り、したい放題、狼藉三昧を繰り返していた。漫湖に接する村々を襲い、村人を食い荒らしていた。とくに豊見城市の真玉橋、嘉数、根差部(ネサブ)の村の被害が大きかったようだ。襲ってくると、村人総出で五尺棒や鎌、鍬など農具で武器として仕える物を持ち防戦したが、怪物にはとても勝てなかった。後は、神頼みしかない。村人たちは一生懸命に神様に祈願したら、天に通じたよう。神様も「ガーナー」の悪行を天から眺め、苦々しく思っていた矢先でしたので「もういいでしょう」と3個の大岩を天から投げつけた。それが見事にガーナーの尻尾に命中した。ガーナーは暴れようとしても動けない。とうとう力尽きていつしか時が経過し、怪物は小島に変身させられた。

             

 被害の大きかった真玉橋、嘉数は漫湖に注ぐ国場川に面しており、根差部も漫湖に注ぐ饒波(ノハ)川に面している。この3村とも石獅子があり、漫湖のガーナー森に向かって設置されている。石獅子の霊力でガーナーの悪行を止めてもらいたいとの昔の人たちの切実な願いの現れと思われる。

 「ガーナーの悪行とは洪水による水害のことではなかったのか?」、真玉橋の石獅子を見学した時、ふと思ったそうだ。漫湖周辺の村々は、豪雨のたび洪水による甚大な被害を被ったと思われる、と推理している(「アルテ・ウォーバ」2013年9月号、「タマさんの沖縄話あれこれ」から)。

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                        小島だったガーナー森(史跡案内版から)

 埋め立てられる前の小島だった時代のガーナー森の写真が、那覇市壺川駅前の史跡案内板にある。これを見ると、なるほど。大きな頭と胴体があり、そこから長い尻尾が伸びている感じだ。まるでネス湖の怪獣の写真に似ている。ガーナー森は、湖に浮かぶ怪物のように見える。たびたび水害に襲われた村人たちは、水害はこの怪物が暴れるから引き起こされているのではと受け取ったということも、ありうる話だ。尻尾の先の岩は天から投げつけられたという大岩だろう。そういう伝説が生まれるのも、写真を見れば納得できる。

 埋立てによって、伝説を生んだ昔の姿が様変わりしたのは、ちょっと残念な気がする。

050           ガーナー森に向かって建つ真玉橋のイリヌ・シーサー(西の石獅子)


             

 

 

             

 

2013年9月17日 (火)

山之口貘・沖縄に思いをよせ

 

故郷・沖縄に思いをよせた詩

 

 那覇市に生まれ、上京して詩人として活動してきた山之口貘は、故郷の沖縄をテーマにした詩がたくさんある。沖縄のなつかしい風景や思い出をテーマとした詩もあるが、沖縄戦で様変わりした故郷に思いを寄せたいくつもの詩は胸をうつ。

「不沈母艦沖縄」

 

 「守礼の門のない沖縄 崇元寺のない沖縄 がじまるの木のない沖縄 梯梧の花の咲かない沖縄 那覇の港に山原船のない沖縄 在京30年のぼくのなかの沖縄とは まるで違った沖縄だという」
 
「まもなく戦禍の惨劇から立ち上り 傷だらけの肉体を引きずって どうやら沖縄が生きのびたところは 不沈母艦沖縄だ いま80万のみじめな生命達が 甲板の片隅に追いつめられていて 鉄やコンクリートの上では 米を作るてだてもなく 死を与えろと叫んでいるのだ」

 沖縄を占領した米軍によって、父祖伝来の宝の土地は強奪された。「不沈母艦」の「甲板の片隅」に追いつめられ県民。戦後沖縄の姿を見事に描き出している。「死を与えろと叫んでいる」というのも、生きる糧である土地を奪われては生きていけない。その血を吐くような叫びがここにある。

「島」

「おねすとじょん(ミサイル)だの みさいるだのが そこに寄って 宙に口を向けているのだ 極東に不安のつづいている限りを そうしているのだ とその飼い主は云うのだが 島はそれでどこもかしこも 金網の塀で区切られているのだ 人は鼻づらを金網にこすり 右に避けては 左に避け 金網に沿うて行っては 金網に沿うて帰るのだ」

 ここにも、島は金網で囲われ、住民は「金網に沿うて行き、帰る」しかない現実をえぐっている。ミサイルが宙に口を向け「極東に不安のつづいている限り」居座るというのは、現代もそのままあてはまる。「北朝鮮の脅威」や尖閣諸島をめぐり「中国の脅威」をあおり、米軍基地も海兵隊もオスプレイも沖縄に必要だと叫ぶ。「飼い主」も「飼い犬」も口をそろえて叫んでいるのではないか。

 

「沖縄よどこへ行く」

 

「蛇皮線の島 泡盛の島 詩の島 踊りの島 唐手の島 パパイヤにバナナに 九年母(クニブ)などの生る島 蘇鉄や竜舌蘭や榕樹の島 仏桑花や梯梧の真紅の花々の 焔のように燃えさかる島 いま こうして郷愁に誘われるまま 途方に暮れては また一行づつ この詩を綴るこのぼくを生んだ島 いまでは琉球とはその名ばかりのように むかしの姿はひとつとしてとめるところもなく 島には島とおなじくらいの 舗装道路が這っているという その舗装道路を歩いて 琉球よ 沖縄よ こんどはどこへ行くというのだ」 

 詩はこのあと、かつて中国に服属し薩摩に支配された琉球が、廃藩置県により琉球王国が廃され、「日本の道」に踏み出した歴史を振り返る。
 
「おかげでぼくみたいなものまでも 生活の隅々まで日本語になり めしを食うにも詩を書くにも泣いたり笑ったり怒ったりするにも 人生のすべてを日本語で生きて来たのだが 戦争なんてつまらぬことなど 日本の国はしたものだ」

 

「それにしても 蛇皮線の島 泡盛の島 沖縄よ 傷はひどく深いときいているのだが 元気になって帰って来ることだ 蛇皮線を忘れずに 泡盛を忘れずに 日本語の 日本に帰ってくることなのだ」

 日本に組み込まれた沖縄が伝統ある民俗・文化も言語も「昔の姿」を失ってきた。その沖縄は戦争と異民族の支配下によって「傷はひどく深い」。沖縄はどこへ向かうのか憂う。深い傷を負った故郷への痛切な思いと祖国復帰を願う心情にあふれている。

「弾を浴びた島」

「島の土を踏んだとたんに ガンジューイ(お元気か)とあいさつしたところ はいおかげさまで元気ですとか言って 島の人は日本語で来たのだ 郷愁はいささか戸惑いしてしまって ウチナーグチマディン ムルイクニ サッタルバスイ(沖縄方言までもすべて戦争でやられたのか) 島の人は苦笑したのだが 沖縄語は上手ですねと来たのだ」

 貘さんの詩は、共通語で書かれている。だが、ウチナーグチとそこに込められたウチナーンチュの肝心(チムグクル)をとても大切にしているのだろう。
 
 砲弾ですべてが破壊された故郷。「方言までやられたのか」という表現には、すっかり変わってしまった故郷への戸惑いとわびしさが感じられる。

 

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   高田渡が歌う「鮪と鰯」

「島からの風」

 

「そんなわけでいまとなっては 生きていることが不思議なのだと 島からの客はそう言って 戦争当時の身の上の話を結んだ ところで島はこのごろ そんなふうなのだときくと どんなふうもなにも 異民族の軍政下にある島なのだ 息を喘いでいることに変りはないのだが とにかく物資は島に溢れていて 贅沢品でも日常の必需品でも 輸入品でもないものはないのであって 花や林檎やうなぎまでが 飛行機を乗り廻し 空から来るのだと言う 客はそこでポケットに手を入れたのだが これはしかし沖縄の産だと たばこを一箱ぽんと寄越した」

 ここにも、異民族の支配下での沖縄の暮らしの様相が描かれている。

「基地日本」
 「ある国はいかにも 現実的だ 歯舞・色丹を日本に 返してもよいとは云うものの  つかんだその手はなかなか離さないのだ」
 
「ある国はまた もっと現実的なのだ 奄美大島を返しては来たのだが 要らなくなって返したまでのこと つかんだままの沖縄については プライス勧告(※)を仕掛けたりするなどが 現実的ではないとは云えないのだ 踏みにじられた 日本」
 
「あちらにもこちらにも 吹き出す吹出物 舶来の 基地それなのだ」
 
(※米軍基地の軍用地料を一括払いにして土地を接収するもの)

 

 沖縄だけでなく、吹き出物のような米軍基地が各地におかれた「基地日本」。要らなくなった奄美諸島は返しても、「つかんだままの沖縄」は絶対手放さない。そればかりか、軍用地料の一括払いで土地接収を企むアメリカに、異議の一つも言えない。「踏みにじられた日本」を鋭く風刺している。
 
 

 このブログで紹介した貘さんの詩は、戦争と原水爆、基地問題などなんか政治のテーマばかりになってしまった。これは、貘さんがこういう詩ばかり作っているということではないので、誤解のないように。貘さんの詩作のなかでは、大河のなかの一支流にすぎない。

  貘さんの詩は、難渋な言葉や観念の遊びのような表現とは無縁だ。平易な言葉で、なにか飄々としてユーモアがある。思わずニヤッと笑ってしまう。それでいて人生と社会の真実を深くすくいとっている。
「貧乏が人間を形態して僕になっている」と歌うように、貧しい日々の暮らしの現実にしっかり立ちながら、「地球の頂点」に立って眺めて、その時代と世相を風刺する。

  そんな作品群のなかで、戦争や原水爆にかかわる詩は、特異なものではなく、貘さんの詩作の重要な一分野を成していると思う。フォークシンガーの佐渡山豊、高田渡らが、その詩を歌にしているように、人々の共感を呼んだのだろう。沖縄県民だけでなく、民衆に愛され続ける詩人だと思う。

2013年9月16日 (月)

原水爆を食うバク

 

 原水爆をテーマとした詩

 

 山之口貘の詩集に『鮪に鰯』がある。1964年12月に刊行された。この詩集には、原爆、水爆をテーマにした詩作が数多くある。詩集の表題からして、それがテーマである。

 

 

「鮪に鰯」

 

「鮪の刺身を食いたくなったと 人間みたいなことを女房が言った」「死んでもよければ勝手に食えと ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ」
 
「亭主も女房も互いに鮪なのであって 地球の上はみんな鮪なのだ 鮪は原爆を憎み 水爆にはまた脅かされて 腹立ちまぎれに現代を生きているいのだ」

 

 1954年3月1日、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験で、日本の第五福竜丸をはじめ多数の漁船が死の灰を浴びるなど被災した。漁獲したマグロは放射能に汚染され、ガイガー計数器を当てると「ガーガー」と異常な音を響かせた。「マグロ汚染ショック」は日本中を騒がせた。季節風にのって放射能を含んだ雲は日本列島に到着し、放射能雨を降らせた。ビキニ事件は、国民の恐怖のどん底に突き落とした。

 貘さんにも計り知れない影響を与えたことだろう。

「死んでもよければ勝手に食え」「鮪は原爆を憎み…腹立ちまぎれに現代を生きている」。獏さんらしい表現で、心底からの憤りが込められているようだ。

 

「雲の下」

「ストロンチウムだ ちょっと待ったと ぼくは顔などしかめて言うのだが ストロンチウムがなんですかと 女房が睨み返して言うわけなのだ 時にはまたセシウムが光っているみたいで ちょっと待ったと 顔をしかめないではいられないのだが セシウムだってなんだって 食わずにはいられるもんですか 女房が腹を立ててみせるのだ かくして食欲は待ったなしなのか 女房に叱られては 眼をつむり カタカナまじりの現代を食っているのだ」

 

 ここにも、これまでなじみのなかった「カタカナ語」のストロンチウム、セシウムに脅かされる日々の暮らしが描かれている。汚染に食卓や健康がおびえかされる不安。だが、生きていくため、不安を感じながらも、完全に逃れることはできない現実がある。貧しい暮らしのなかで、「カタカナ語」が忍び寄っていても食べざるを得ない現実がある。

 これを読むと、60年近い前の事件というだけではなく、福島の原発災害による現実とも重なってくる。大地も海も地下水まで汚染された。震災から2年半たっても、福島はじめ関東首都圏からも多数の住民が避難を余儀なくされている。食料や住環境への不安もある。そのもとでも、人々は大地に根を張り、懸命に生きて働き、暮らしていかざるを得ない。「カタカナまじりの現代を食って」「腹たちまぎれに生きている」現実は今もあるからだ。
 
 

 

 「羊」

「食うや食わずの 荒れた生活をしているうちに 人相までも変って来たのだそうで ぼくの顔は原子爆弾か 水素爆弾みたいになったのかとおもうのだが」
 
「地球の上には  死んでも食いたくないものがあって それがぼくの顔みたいな 原子爆弾だの水素爆弾なのだ」。そんななかで、羊は「紙など食って やさしい眼をして 地球の上を生きているのだ」

 「死んでも食いたくない」原爆や水爆。貘さんが現代に生きていれば、そのなかにきっと「原発」も加えたのだろう。

 

 

「貘」という詩は、代表的な作品である。

「悪夢はバクに食わせろと むかしも云われているが 夢を食って生きている動物として バクの名は世界に有名なのだ」で始まる。

 「ところがその夜ぼくは夢を見た 飢えた大きなバクがのっそりあらわれて この世に悪夢があったとばかりに 原子爆弾をぺろっと食ってしまった 水素爆弾をぺろっと食ったかとおもうと ぱっと地球が明るくなったのだ」で終わる。

 ビキニ事件への不安と怒りがきっかけとなり、日本と世界で、「原水爆をなくせ」「核実験を禁止せよ」という原水爆禁止の声と運動が大きく巻き起こった。
 
 いま「悪夢」の最たるものと言えば原爆、水爆だった。「ぺろっと食べるバク」がいれば、すべての核兵器を食べてなくしてほしい、という貘さんの願いが込められている。なくせば地球と人類の未来が明るくなる。この願いは、21世紀の人類にとっても、切実な願望である。

 ユーチューブに、佐渡山豊、高田渡らが歌う「貘」がアップされていたので紹介する。

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「雲の上」

「たった一つの地球なのに いろいろな文明がひしめき合い 寄ってたかって血染めにしては つまらぬ灰などをふりまいているのだが 自然の意志に逆ってまでも 自滅を企てるのが文明なのか なにしろ数ある国なので もしも一つの地球に異議があるならば 国の数でもなくする仕組みの はだかみたいな普通の思想を発明し あめりかでもなければ それん(ソ連)でもない にっぽんでもなければどこでもなくて どこの国もが互に肌をすり寄せて 地球を抱いて生きるのだ」 

 かつての米ソ対立の冷戦時代、核兵器やミサイルの軍備拡張の競争により、地球破滅の瀬戸際を歩いていた愚かさを痛烈に風刺する。ソ連が崩壊し、米ソ対立が終わっても、地球上の戦火はやまない。新たな戦争、テロや民族紛争が続く。
 
「どこの国もが互に肌をすり寄せて 地球を抱いて生きるのだ」という「普通の思想」は実現しない。その思想は、いまだ人々の頭の中にしか存在しない。

2013年9月15日 (日)

アルテで「伊良部トーガニ」を歌う

 恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーの9月のテーマは「行」。今回は、エントリーが16組と少なかった。少し寂しい。とくに三線のエントリーは、私以外にはない。

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 糸数秀子さんのソプラノ「私のお父さん」で始まった。夫の剛さんがいつもギターで伴奏する。夫婦デュオとしてデビューしたそうだ。剛さんは「昴」を歌った。テノールで歌いあげ、喝さいを受けた。

 「伊良部トーガニ」は宮古民謡の名曲だ。想いを寄せる彼女が伊良部島にいて、宮古島から逢うために通って行く情景を歌っており、テーマに合うと思った。
 歌詞は、伊良部島は遠いので、島に渡る瀬があればいいのに、途中で休める瀬があればいいのに。夕方になり、愛しい彼女の家に忍び込むのに、開けると板戸の音が高いので、親に知られる。鳴らない戸、ムシロの戸を下げて待っててください。こんな歌意である。

Img_3360 歌い始めると、肝心の高音を伸ばすところで声が出ない。なんだこれは! 昼間練習した時は、「今日はかなれ声が出ているな」と思った。本番まで6時間ほどたち、声出しをしていなかったら、なんということか。
 一番を歌ったところで、「もう一度初めからやり直します」と出直した。それでも、あまり変わらない。なんとか歌いきったが、予想外の事態に慌てた。もう2年近くアルテに出ているのに初めてのことだ。そのうちもう一度、挑戦したい。

Img_3364_5 ギター演奏では、ベテランによるギターカルテット「ふぇーぬかじ(南風)」が、「ラ・クンパルシータ」など3曲演奏した。プロフェッショナルな演奏で聴きごたえがった。

 ツレは、新田君と組んで、「奇跡の地球(ホシ)」を歌った。桑田圭佑とミスターチルドレンが組んで歌った曲だ。声もよく出て、新田君とのハモリもよくあっていた。何回も練習した成果が出ていた。カッコいい演奏だった。Img_3375
 このところ恒例になった、あにたまきこと、南亭こったいの「アルテ寄席」。今回は、エントリーの演奏が終わったあとになった。「死神」を披露して、拍手喝さいを受けた。Img_3381
 この落語は、どうオチをつけるのかと思い聞いていたら、さすが有名な演目だけあって、面白かった。

 エントリーしたみなさん。ご苦労様でした。

2013年9月14日 (土)

山之口貘の詩碑を再訪する

山之口貘の詩碑が那覇市内の与儀公園にある。公演のど真ん中にある。すぐ近くでよく三線の練習をサークル仲間のおじいらとやった。貘さんの詩碑であることは知っていたが、詩集を読んだので改めて訪ねた。Img_3350 詩碑は40年近く前に建てられているが、見過ごす人も多いので、詩碑の案内標注が建てられている。
 詩碑が建立された経過と山之口貘の人と作品を紹介する案内板も碑の前に建てられた。

Img_3354 案内文は次のように紹介している。


 1975年7月、貘の13回忌に合わせ、山之口貘歌碑建立期成会(代表宮里栄輝)により建てられて詩碑。碑文には、1935年に発表された「座布団」が刻まれている。

 

 

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 山之口貘は、本名を山口重三郎といい、父重珍、母カマドの三男(四男三女の第五子)として1903年9月11日、那覇市東町(当時)に生まれた。沖縄県立第一中学校(首里高等学校の前身)在学中から新聞などに詩を投稿。その後、山城正忠、国吉真哲等とともに「琉球歌人連盟」の結成に参加し、この頃から「山之口貘」のペンネームを使用した。1925年2度目の上京を果たし、職を転々としながらも文学者佐藤春夫や金子光晴等の支援を受け詩を発表した。

 
 処女詩集『思辨の苑』(1938年)、『山之口貘詩集』(1940年)、太平洋戦争後には、『定本山之口貘詩集』(1958年)を発表した(第二回高村光太郎賞受賞)。1958年11月、34年振りに帰郷し、親族・友人等の歓迎を受け、2カ月近く滞在した。

 

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          詩碑には「座布団」が刻まれている

1963年7月19日、胃ガンのため死去、享年59歳。千葉県松戸市の八柱霊園に葬られた。死後4冊目の詩集『鮪に鰯』(1964年)が発表され、金子光晴はその本の中で、「貘さんは第一級の詩人でその詩は従って第一級の詩である」と称賛した。

 未発表作品を含む直筆元号約7500点余りは、遺族により沖縄県立図書館へ寄贈され、2010年11月「山之口貘文庫」として開設された。Img_3351


2013年9月13日 (金)

詩人・山之口貘の「紙の上」

山之口貘「紙の上」

 

 

 

 沖縄を代表する詩人、山之口貘(1903年9月11日―1963年7月19日)の生誕110年の今年、さまざまな企画がある。9月7日には、琉球新報社主催「貘さんありがとう」も催しがあった。

 

 すでに死後半世紀がたつ。「人々の心に生き続ける貘」「平易な言葉で地球を呼吸した詩人」(「琉球新報」10日付)と評され、愛されている。

 

 この催しでは、フォークシンガーの佐渡山豊が、貘の詩「紙の上」をギターを弾きながら歌った。これまで、ほとんど貘の詩を読んでいなかったので、改めてかれの全集の第1巻「詩集」を読んでみた。佐渡山が歌った「紙の上」を紹介する。

 

 

 紙の上

 

戦争が起きあがると

 

 飛び立つ鳥のやうに

 

 日の丸の翅(ハネ)をおしひろげそこからみんな飛び立つた

 

 

 

 一匹の詩人が紙の上にゐて
 
 群れ飛ぶ日の丸を見あげては

 

 だだ

 

 だだ と叫んでゐる

 

 発育不全の短い足 へこんだ腹 持ち上がらないでつかい頭

 

 さえづる兵器の群れをながめては

 

 だだ

 

 だだ と叫んでゐる

 

 だだ

 

 だだ と叫んでゐるが

 

 いつになつたら「戦争」が言へるのか

 

 不便な肉体

 

 どもる思想

 

 まるで砂漠にゐるやうだ

 

 インクに乾いたのどをかきむしり熱砂の上にすねかへる

 

 その一匹の大きな舌足らず

 

 だだ

 

 だだ と叫んでは

 

 飛び立つ兵器の群れをうちながめ

 

 群れ飛ぶ日の丸を見あげては

 

 だだ

 

 だだ と叫んでゐる。

 

 この詩は、1940年12月20日、刊行された『山之口詩集』の中の一篇である。日本が軍国一色に染め上げられ、戦争へこぞってなびいて行く時代である。「飛び立つ兵器の群れをうちながめ」ながら、「だだ、だだ」と叫び、あがらう詩人の精神が感じられる。

 

 佐渡山豊が旋律をつけた歌が、ユーチューブにあったので、アップしておきたい。

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2013年9月12日 (木)

チャーリーレストランでランチする

「チャーリーレストラン」の名前を聞いたのは、もう4年ほど前だった。民謡サークルで一緒のHおじいが言った。「親戚の新年の集まりは、チャーリーレストランでやったよ」「えっ、チャーリーってどこですか?」「あの玉城に行くところにあるだろう」。大雑把な説明だ。でも、湧水で名高い垣花樋川(カキノハナヒージャー)やニライカナイ橋方面に行く際、道路わきにかなれ大きなレストランがあるのを思い出した。それが「チャーリー」だった。名前から、アメリカっぽい。

Img_3328 急に行くことになったのは、フォークユニットの「F&Y」ライブに一緒に行ったOさんから「垣花樋川の近くにパイが美味しいレストランがあるのよ。米軍基地内で料理を作っていた人が、経営している店。私たちはアメリカーの味で育っているから、アメリカー味の料理を食べたくなるといつも行くのよ」とツレに話してくれたからだ。

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 場所は、南城市玉城字親慶原(オヤケバラ)の交差点を過ぎて少し行くと県道86号線沿いにある。店内に入ると、すぐパイがたくさんなら並んでいる。アップルパイ、チェリーアップルパイ、ブルーベリーパイの三種類。

 なぜ、都市部でもない、米軍基地も今はないこの場所に大きなレストランがあるのだろうか。戦後、1946年から1949年ごろ、米軍政府がこの親慶原の地に移転してきて、沖縄民政府もこの付近に移転してきた。それで、親慶原のある知念半島は、戦後の一時期、沖縄の政治の中心だったそうだ。

 いまは近くに琉球ゴルフ倶楽部、ユインチホテルがある。3月には日本女子ゴルフ「ダイキンオーキッド」がここで開幕する。航空自衛隊知念分屯基地も近い。

 そんなことで少し興味もあった。チャーリーでアメリカー的な味といえば、やっぱりチャーリーステーキでしょう。迷わず注文した。Img_3338
 けっこうなボリュームだ。ソースはアメリカーといえばAIソース。ウチナーンチュはみんなこの味が好みだそうだ。でも食べ慣れてないナイチャーにとってはなじめない。Img_3335
 お手製のステーキソースをかけて食した。ただこれが、なんというか焼肉のタレそっくりの味。だから、ステーキを食べても、なんか焼肉を食べている感じになってしまう。良くも悪くも。牛肉は食べやすく切り込みを入れているが、肉質はそれほどジョートーとは思えない。でも、ペロッと食べてしまった。満腹感はいっぱい。Img_3337_2

 ツレはサンドウィッチにスープと軽めだった。スープも当然、アメリカー味だが、しょっぱいと半分も飲めなかった。

Img_3343 デザートはやっぱりパイを食べてみないことには、ここに来た甲斐がない。私はチェリーアップルパイ、ツレはアップルパイを食べたが、チェリーもたくさん入っていて、評判通りの美味しさだった。お土産にも買った。
 沖縄は、けっこうパイをよく売っているし、みんなよく食べる。これも、アメリカーの影響なのだろう。

 この日は、デイサービスのお年寄りがバスで大挙店に押し寄せていた。観光客の走る通りなので、そんな親子連れ客もいる。地元のおじい、おばばのグループもいる。

 なにしろ、アメリカー的料理だけではなく、沖縄料理もたくさんあり、メニューはバラエティーに富んでいる。幅広い年代層が来るようだ。ただし、誰かが言った。「いかにも昭和のレストラン。進化は止まっている感じだ」と。それはそれで、またファンがいるのだろう。

 

2013年9月11日 (水)

北山王国をめぐる興亡、その9

北山監守一族の世替り

第一尚氏時代の北山監守は、初代護佐丸、二代尚忠、三代具志頭王子までの52年の間、北山地方を統治した。第一尚氏の尚徳王を追放し、金丸がクーデターで王位についた際、今帰仁城はどうなったのか。『琉球王国の真実』は、次のように記している。
 今帰仁城では具志頭按司が北山監守(代官)として「今北山」を守っていたが、金丸による“世替り”で一族は方々に逃げ隠れた。具志頭按司と長男の若按司は具志頭間切新城村に逃げて、屋号仲村渠(ナカンダカリ、仲村姓)の養子になり仲村渠門中(ムンチュー)の祖になった。
 次男岡春(ウカハル)の子孫は今帰仁城から諸志村に移り住み、屋号原屋(ハラヤー)の祖になった。
 瀬底島に逃げた一族は内城を築き、大底(ウフスク)門中と称した。
 伊江島に逃げた一族は東江上(アガリーウィ)の屋号石橋の祖になった。

『古琉球三山由来記集』は、つぎのようにのべている。
「尚徳王が亡んだ時に、今帰仁城もともに破れ、その子孫は各所に離散しました。この子孫だと称する旧家が、小禄間切、豊見城間切、摩文仁間切。東風平間切、羽地間切、宜野湾間切等にあります」
 第二尚氏の始祖となった尚円王は、重臣のなかから北山監守を選任し、輪番にこれにあたらせた。三代目の尚真王は、北山監守は重要な守護職として、三男尚昭威を任じ、北山地方の統治を強化した。尚真王は、地方の按司たちを首里に集居させ、武器を取り上げ、中央集権を強めたが、北山だけは、今帰仁城にいて監守していた。七代監守の際、今帰仁城から首里に引き上げ、その後は首里に居住して監守の役をつとめた。052


「元は今帰仁」

『琉球王国の真実』に戻る。
 「仲北山」の遺児の今帰仁子から広がった伊覇按司一族の発展は、尚巴志王と姻戚を結んでことにより発展し、沖縄中に子孫を残した。それで、後世の人は「ムートゥヤ・ナキジン」(元は今帰仁)というようになったが、「仲今帰仁城主」や「後今帰仁城主」も元をただせば浦添城の英祖王の子孫でさらに大元は大里天孫氏や玉城アマミキヨの先祖に結びつく。結局、「ナキジンヌムートゥヤ・タマグスク」(今帰仁の元は玉城)なのである。
 
 
 

以上が北山の今帰仁城をめぐる興亡の伝承のあらましである。伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山時代の謎を解く』は実際には三山全体の歴史について、詳細な伝承を集め、体系的に記している。
 北山関係だけ抄録すると、系図の説明をしているようで、面白みに欠ける。ただ、これまでよく知らなかった北山の歴史、それも古い時代からの「先北山」「仲北山」「後北山」さらには「今北山」という王統の交代に応じた時代区分がされているので、理解しやすい。
 

 それにしても、北山の支配をめぐる攻防だけを見ても、戦国史をみるような激しさである。今帰仁城主が交代するたびに、前の城主と一族、家臣らは北部から中南部に落ち延びた。本島各地に今帰仁から逃れた人たちの子孫が住み、たくさんの伝承が残されていることは、もっともである。
 逆に、南山では、幾度もの争いと南山滅亡によって、勝連半島や周辺離島、さらには久米島、先島、朝鮮半島にまで逃げ延びたという伝承がある。
 いうまでもなく、記述はあくまで言い伝えられてきたことであり、そこには脚色された物語もある。伝承といっても同じ事柄でいくつもあって、どれが真実に近いのかもよくわからないこともある。
 ただ、史実が詳細に分からない以上、伝承を調べることは、史実に接近する糸口になるだろう。また、伝承はかつて、つわものたちが争った時代と歴史への想像をかきたててくれる。そこには、歴史のロマンがある。

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  各地を歩いていると、今帰仁から逃れた話や今帰仁にかかわる人物の墓所もある。今帰仁に向かって祈願する今帰仁遙拝所がある。伝承は、たんなる言い伝えにすぎないとしても、各地の北山の興亡にかかわる史跡は、物言わないけれどたしかな歴史の重みを感じさせてくれる。そんな史跡などに出会った時、北山をめぐる攻防の伝承と歴史を思い起こしたい。これまでとは、また違った目で見ることができるだろう。(おわり) 

 

2013年9月10日 (火)

北山王国をめぐる興亡、その8

護佐丸と伊覇按司系統の発展

 伊覇(イハ)按司初代の長男は伊覇按司二代目を継ぎ、次男の山田按司は、読谷山(ユンタンザ)村に山田城を築いた。山田按司の次男・護佐丸(ゴサマル)は父の跡を継いで読谷山按司になった。座喜味(ザキミ)城を築いた後に中城に移り、中城按司になった。護佐丸は1416年の北山攻めの時は26歳の青年将校だった。1429年の南山進攻には41歳になっていて中山軍の大将として全軍を指揮した。


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           護佐丸父祖の墓



 1439年に尚巴志の死去により、護佐丸は第一尚氏王統の一番の功労者として娘婿の尚泰久王にも遠慮しない目付け役的存在になったのである。また護佐丸は、北山滅亡時に北山太子を山田城で匿い、南山滅亡後には南山王の甥の国吉之比屋を家来にしたりする勝手な行動に、異を唱える重臣も多かったことが推察される。

 1453年頃、阿麻和利(アマワリ)が10代目勝連按司になると、中城按司・護佐丸と互いに牽制し合う状況になった。
 1454年、婿の越来按司が尚巴志王統6代目として王位に就き尚泰久となってからは、もはや護佐丸の天下のごとくであった。
 阿麻和利は「護佐丸は中城を増強し、城内の鍛冶屋で武器を増産して、首里城を攻める準備をしている」と、尚泰久王に讒言した。
 1458年、尚泰久王は阿麻和利に護佐丸討伐の許可を与え、王府軍は中城を攻めた。月見の宴の最中に攻め上がってき来たので、不意を衝かれた護佐丸は、多勢に無勢で、むなしく自刃したという。

 長男と次男の消息は不明である。護佐丸は自害する時、三男の盛親(幼名は亀寿)はまだ赤子なので殺すに忍ばれず、国吉之比屋に頼んで乳母と共に東の崖から帯を命綱にして逃した。真栄里村の乳母の実家で匿ってもらって育てていたという。
 後に、尚巴志王統を倒して即位した尚円王は「護佐丸の遺児が健在なら名乗り出るように」という御触れを出したので、国吉之比屋が13歳の盛親を伴なって首里城に出頭した。盛親は叔父の安里大親のもとで養育を受け、成人して豊見城間切総地頭となり豊見城親方と称した。盛親は毛氏始祖となり、豊見城毛氏は首里王府で出世を重ね子孫も繁盛して、その数は5万人ともいわれる。Img_1478

           護佐丸の墓    
            

伊覇按司初代の次男・山田按司の長男、伊寿留(イズルン)按司は中城山頂に伊舎堂村を創り護佐丸を補佐していたが、護佐丸が滅んだあとに百姓になり、伊舎堂村も海岸近くに移動し、富豪の屋号・伊寿留安里の祖になった。
 三男の大城掟は護佐丸滅亡後、中城間切大城村から那覇に移り住み、金丸の革命を成功させた人物で、安里村を拝領し安里大親(アサトゥウフウヤ)と名乗った人物である。
 
 

護佐丸は逆賊として成敗されたので、その一族は方々に隠れたが、第二尚氏になって政権に復活し、子孫の毛氏は沖縄各地に繁盛してその数は3万とも5万ともいわれている。
 伊覇按司二代目は、尚巴志の義兄弟となって北山攻めや南山攻めで活躍し、弟や息子たちを各地に城主として配置した。安慶名(アギナ)大川按司をはじめ幸地按司・勝連按司六代目・玉城按司・高嶺按司・瀬長按司などが、北山や南山滅亡後の新しい城主になった。
 伊覇按司の四男、安慶名大川按司の三男(系図では四男)、喜屋武按司の子が鬼大城(ウニウーグスク)と呼ばれた越来親方賢勇で、後に阿麻和利を討伐した武人である。

2013年9月 9日 (月)

北山王国をめぐる興亡、その7

北山を攻めた尚巴志

『琉球王国の真実』に戻る。
 
1416年に尚巴志(ショウハシ)は北山を攻めるため進軍し、読谷山(ユンタンザ)では読谷山按司をはじめ浦添按司・越来按司・伊覇按司などのおよそ二千の軍勢が合流した。一方、運天の寒手那(カディナ)港には、国頭按司や名護按司・羽地按司等の軍船と700余の兵士が集結していた。
 
 国頭按司と名護按司・羽地按司が先鋒を務め、総大将の尚巴志は北の平郎門から、副大将の読谷山按司護佐丸は南の志慶真門から攻め込んだ。


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 今帰仁城の守りは堅固で、3日間の戦闘で中山連合軍の戦死者は500人を越えた。尚巴志は作戦を変え、今帰仁城の侍大将の本部平良(モトブテーラー、太原とも書く)に賄賂を贈り、北山の不利を説き中山軍に寝返らせることに成功した。志慶真(シジマ)門から密かに護佐丸軍が忍び込み、建物に火をつけたので場内は大混乱になり、北山兵は敗走した。

「後北山」攀安知(ハンアジ)には、5名の王子がいたと伝えられる。

 
15歳ほどの長男北山太子(仲宗根王子)は戦死したといわれているが、実は護佐丸の手配により北山太子と乳母の2人を密かに船で渡名喜島(トナキジマ)へ逃した。1年待たずに護佐丸の使いが迎えに来て、島尻方面で妻を娶って暮らしたと伝えられる。八重瀬町富盛には北山太子の長男の後裔がいるという。

 攀安知王の次男の志慶真王子は、姉と王の弟・湧川大主に守られて南山領内に逃れた。王子の母は、南山王他留毎(タルミー)の姉で、和睦のために北山王攀安知に嫁いでいた。
 
 1429年に(尚巴志に攻められ)南山が滅んだ。20歳前後になっていた志慶真王子と湧川子(湧川大主の長男)は、南山軍に加わり中山軍と戦ったが与座山中で戦死した。
 
 志慶真王子の子孫は百次(ムンナン)門中(百次姓)で、湧川大主の子孫は名嘉・湧川門中(湧川姓)として、糸満市潮平を中心に子孫が広がっている。


 攀安知王の幼い三男外間子(フカマシ)と四男喜屋武久子(チャンクシ)の2人は母とともに捕虜となり、佐敷間切津波古で百姓として生涯を終えた。

 
五男虎寿金(トウラジュガニ)は、落城後に生まれたので、母親とともに南風原間切兼城村の内嶺按司の捕虜となった。後に、尚円王の引き立てで兼城按司の養子となった。
 
 攀安知の頭役平敷大主(ヘシキウフヌシ)は勝連半島に逃げて、現在のうるま市平敷屋集落を創った。





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 1416年、「後北山」の攀安知王を亡ぼした中山王尚巴志は、護佐丸を今帰仁城に6年間駐留させ、北山監守として戦後の北山を監視させた。護佐丸は「今北山」初代として北部沖縄の統治を任され、遠く奄美大島までその管理下に置いた。

 
 『今帰仁村史』は次のとおり記している。

彼(護佐丸)が北山城に駐とんしてからは、後北山系の与論島や沖永良部島をはじめ、遠く鬼(喜)界島や大島なども服従させた。そして、これらの島々から住民を徴用して座喜味城構築の人夫として使役させた。こういうことも北山城にあって、北山地方を監守したからできたのである。

『琉球王国の真実』に戻る。
 尚巴志は北山地方を治めるのに、「仲北山系」の人材を登用した。まず自らは伊覇按司の娘を娶り、生まれた子は成長して越来王子(後の尚泰久王)や伊覇按司三代目(養子)になった。
 
 1421年、尚思紹王が亡くなったのに伴い、尚巴志が中山王となり、次男具志頭王子尚忠が二代目北山監守になった。同時に、護佐丸は読谷山に戻り、座喜味城を築き読谷山按司と称した。尚巴志が亡くなると、北山監守の尚忠が王に即位し、弟の具志頭按司が三代目北山監守となった。

2013年9月 8日 (日)

北山王国をめぐる興亡、その6

 攀安知による強権政治

 

「後北山」では、1390年頃、怕尼芝(ハニジ)王が死んだので、世子伊江王子播(ハン)が王位に就いた。怕尼芝は羽地の当て字で兼次の北部なまり語で、播とは金の北部なまり語である。
 
 それから数年して伊江播王は高齢になったので、1396年に東大里按司を迎え、王位を譲り伊江島に隠居した。東大里按司は南山の保栄茂(ビン)城生まれだったので珉(ビン)王と称していたが、まもなく病気のため急死した。そのとき、伊江播王の妾・伊江播加奈志(花のモーシー)の王子攀安知(ハンアジ)が珉王の王子を退け、王位を奪った。攀安知は武勇に優れ、前王の家臣の意見も聞かず独断専行の政策を敷いた。攀安知は「ハンアンチ」と読んでいるが、本来は「播王の王子」のことなので、「播按司」(ハンアンジ)と書いた方が良いと思う。

 以上は『琉球王国の真実』による。著者は、珉王は南山の保栄茂(現豊見城市)生まれと解釈している。

068

『今帰仁村史』は、「珉は二代目の怕尼芝の長男であったと思われる」とのべ、あくまで、怕尼芝の血統であるという立場をとっている。

『古琉球三山由来記集』は、珉王の治世を次にのようにのべている。

「父怕尼芝王の薨去されたのちは、父君の志を受け継いで善政を施し、道徳を行ない、治績をあげたと推測されます。怕尼芝王から、この珉王時代は、国内は太平無事でした」

 『琉球王国の真実』に戻る。 

 
 珉王の長男の千代松若按司(13歳)と一族は島尻に逃れ、具志頭間切新城村に落ち着いた。叔父の佐敷按司に救いを求めたとの言い伝えも残っている。
 
 今帰仁城の攀安知王は双子の兄で、弟の湧川大主ともども武勇に優れ、領内の各按司を武力で制圧し強権政治を行っていた。南山とも政略結婚で姻戚を結び中山を挟み撃ちにする計画であったといわれ、南山王の長男の豊見城按司(後の他魯毎王)の嫁として湧川大主(新里屋)の妹を輿入れさせていた。他魯毎(タルミー)は北山の婿になったので、渾名(アダナ)で今帰仁按司とも呼ばれた。逆に北山王は、南山他魯毎王の姉を妃として今帰仁城に迎えていた。
 
 攀安知の恐怖政治に恐れを抱いた北山各按司は、次第に攀安知と距離を置くようになった。「仲北山」系の国頭按司・名護按司・羽地按司は中山の尚巴志に使者を送り、攀安知を成敗するように嘆願した。
 

(後北山でも、後継者をめぐり内紛があった。珉王が急死すると、王子を退けて、攀安知が王位を奪ったという。珉王が、伊江播王の子どもではなく、南山生まれの東大里按司であるとすれば、伊江播王の妾の子とはいえ、長男にあたる王子であり、武勇に優れた攀安知にとって、珉王の王子が王位を継ぐことは我慢ならないことだったのだろうか。しかし、その強権をふりかざした恐怖政治が、身を亡ぼすことにつながっていく)

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 『今帰仁村史』は、攀安知について次のようにのべている。
 
 彼は、資性はなはだ剛毅にして、武勇は絶倫であった。常に中山国を討って天下をにぎろうとの野望をいだいていたが、武力をたのんで善政をしかなかったため、一族の名護、羽地、国頭など、近隣の諸按司からきらわれ、読谷山按司護佐丸もまた、北山をつけねらっていた。

 
 護佐丸について、『今帰仁村史』は次のように書いている。

 読谷山按司は読谷山城(山田城)にあって、機会あらば、中北山の仇敵である後北山の怕尼芝を討たんものと、その準備をすすめていた。
 
 ところが、後北山はますます強大になるばかりで、どうすることもできなかった。そうしているうち、読谷山按司には後つぎがなかったので、兄弟の伊波按司の二男を迎え入れて跡(ママ)つぎにし、二代目の読谷山按司とした。この二代目の子に生まれたのが護佐丸兄弟である。
 
 護佐丸も父祖伝来のかたきである後北山をねらって、その時節到来を待った…そのころ、佐敷城の尚思紹、尚巴志父子が中山王武寧を討って、いきおい甚ださかんで、また人望が厚かった。これを知った中北山系の人たちは、首里城に尚思紹父子をたずね、事の次第をのべて、その助勢を願った。


 (後北山の
怕尼芝から明国に朝貢を始めた。怕尼芝王は7回、珉王は1回、攀安知王は11回、明に使者を派遣した=『グスク文化を考える』の名嘉正八郎著「今帰仁城跡の考察」から)

 

 

2013年9月 7日 (土)

北山王国をめぐる興亡、その5

落ち延びた今帰仁按司とその子孫

年老いた丘春は敗走し、かつて幼少のとき世話になった大北地方の読谷山(ユンタンザ)間切(マギリ、いまの町村)に逆戻りし、渡具知(トグチ)村の比謝川河口近くの鷹見崖(タカミーバンタ)の岩山に泊城を築いて再起を待った。泊城は篭城(クマイグスク、隠れ城)とも呼ばれた。対岸の魚見崖の岩山の中腹の洞窟に、今帰仁から移した父祖の墓を造った。その洞窟は、イリタケーサーガマと呼ばれている。墓の入り口は北の今帰仁城を向いていて、「仲今帰仁按司祖先之墓」と刻まれた石碑が建てられている。

 タカミーバンタの岩山には、丘春とその妃真玉津(マタマツ)および臣下の墓があり、墓の入り口は東方川向かいの仲昔今帰仁按司祖先之墓を向いている。
 今帰仁按司丘春には仲宗根若按司のほかにも名護按司・大宜味按司・先代大湾按司・先代山田按司の4名の息子がいて、「仲北山」落城後は方々に散って再起を待っていた。「仲北山」旧臣たちとも連絡を取り合っていた。060



 今帰仁按司の婿である津喜武多(チキンタ)按司は、西原間切古波津(クハチ)村に城を築いた。隣の幸地城の熱田之子(アツタヌシー)は、「仲北山」の落武者が自分の領地近くに城を構えたことを、快く思っていなかった。熱田之子は、義本王6代目の子孫であるといわれる。津喜武多按司を訪れ、名刀を見せてほしいと頼み、出してきて渡したとたん、いきなり切り殺した。

 娘婿を殺された丘春は、仇を討つため手勢を連れて幸地城に向かった。熱田之子は、間違って殺(アヤ)めたと謝罪した。丘春は歓待されて、夜道を帰る途中、闇討ちにされ、全員殺された。

 丘春の息子4人の中には戦死した仲宗根若按司の他に、初代山田按司と初代大湾按司もいたが、彼らはこの時に幸地軍に殺されたともいわれている。丘春や息子たちの死は秘密にされ、墓も隠され初代山田按司と初代大湾按司は唐旅(「あの世」)に行ったと伝えられていたのを、中国へ行ったという伝承に変わったようである。
(中国に渡るのは危険なことから、唐旅はあの世に行く代名詞となっていた)。
 その後、父を殺された丘春の4名の子の孫たちは、力をあわせて熱田之子を討ち取ったといわれる。Photo_3
 1374年、戦で深手を負った「仲北山」城主仲宗根若按司は、いったん本部間切具志堅村に隠れていた。具志堅村から名護間切屋部(ヤブ)村まで来たところで息を引き取った。
 父の遺体を葬ったあと、八男の今帰仁子は美里(ンザトゥ)間切伊覇(イハ)村に逃げた。嘉手苅(カディカル)村はずれのガマ(鍾乳洞)に隠れていた。美里大主に認められて婿となり、伊覇(伊波とも書く)城を築き初代伊覇按司となった。伊覇按司と妃・真鶴金の間には三男一女が生まれた。

 伊覇按司初代の長男は、伊覇按司二代目を継ぎ、次男山田按司は読谷山間切読谷山村(後に山田村になった)に山田城を築き、三男の大湾按司は読谷山間切大湾村に大城を築いた。「仲北山」の再興を誓い合っていた。
 伊覇按司の娘・真鍋金は尚巴志に嫁ぎ、越来王子、後の尚泰久王を生んだ。
 次男の山田按司は、長男・伊寿留(イズルン)按司、次男・読谷山按司護佐丸(ゴサマル)盛春、三男・大城掟親雲上清信を生んだ。

 『古琉球三山由来記集』は、山田按司について次のように記している。
 「伝えいう。一世山田按司は、仲今帰仁仲宗根若按司の子すなわち今帰仁の子にして、母は当今の美里間切伊波村の女なり、云々。
 かつ、この山田按司は一男一女を生む。長男は山田按司と称すが早死す。長女は真亜度金(マアトガニ)と称す。山田按司は長男若按司が早死したので伊覇按司の子を婿養子とし、跡を継がす。これ二世山田按司なり。二世山田按司の子二子あり。山田按司、越来按司これなり。三世山田按司の子四人あり。長男伊寿留按司、次男中城按司護佐丸、三男山田按司、長女乙樽金(ウトゥタルガニ)これなり」

(ここで、琉球の歴史上名高い、護佐丸が登場する。護佐丸の祖父、伊覇按司は「仲北山」で今帰仁城主だった仲宗根若按司の息子であり、その父は丘春となる。つまり、護佐丸は、英祖王系の今帰仁城主だった丘春の子孫となる。尚巴志が北山を攻めたとき、護佐丸にとって、同じ英祖王系でありながら、羽地按司によって今帰仁城を奪われた先祖の積年の恨みをはらす機会となった。
 系図のなかで、『古琉球…』は、一世山田按司の長男は早死したので、伊覇按司から婿養子をもらい跡を継がせたとなっている。伝承によって当然、異同はある。)

 

2013年9月 6日 (金)

北山王国をめぐる興亡、その4

羽地按司が奪い取る

丘春が今帰仁(ナキジン)城を奪還して34年後の1374年、「仲北山」では丘春が隠居して、今帰仁城主を息子の仲宗根若按司に譲ったとたんに、従兄弟の羽地按司が名乗り出て、「我が父は英祖王次男湧川王子の長男湧川按司であり、本来、今帰仁城主は自分が継ぐべきである」と主張し、戦乱の末に今帰仁城を奪い取った。「後北山」時代となる。


 (これまで義本王系と英祖王系の争いだったが、今度は同じ英祖王の系統の中での支配者争いである。羽地按司というと羽地出身の者のように思いがちだ。でも、これによると、湧川王子の長男・湧川按司の息子であり、本来、今帰仁城主は次男の今帰仁按司の息子である丘春が継いだのがおかしい。自分が継ぐべきだったと主張して争った。戦乱の上、城を奪取したという。この丘春の子孫たちが、この後また北山攻めに向かうことになる)
  羽地按司は、察度王の弟三男の天久按司慎拍を娘婿に迎え、北山王に就けた。北山王怕尼芝(ハニジ)と称し、1383年、明国の冊封(サッポウ)を受けた。当時、察度王の承諾がなければ明国に進貢できなかったと考えられる。(冊封とは、中国皇帝に朝貢して皇帝から国王として認証を受けることをいう)


 湧川按司は湧川王子の長男だが、本部大主が北山城を攻略した時、親泊村から湧川村に逃げてきたのである。次男の今帰仁按司・丘春が北山城を奪還したので、今帰仁城主になれず湧川村の屋号新里を継がされていたので、家出して羽地に親川グスクを築き、田畑を開拓して勢力を広げた。開拓した田畑は羽地ターブクァ(田園)と呼ばれた。

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               今帰仁城跡にある「火の神」

『今帰仁村史』は、怕尼芝(ハニジ)について次のようにのべている。
 伯尼芝は、羽地按司として川上部落の親城から親川の羽地城に移り、羽地間切を統治し、地の利にめぐまれて豊富な産物を得たので、勘手納(カンデナ)港を貿易地として海外との貿易もさかんにしていたであろう。そして莫大な富による大勢力があって、そのいきおいをもって中北山を追い出したであろうことが考えられる。
 『村史』は、怕尼芝が北山王となったのは1322年とする。「彼が追い出した中北山の今帰仁世の主とは、いとこ同志の間柄であった。怕尼芝は分家から出て、その本家を乗取ったのである。これは一族内における一種のお家騒動ともいうべく、また、親族同志の権力争いでもあった」。

 

『琉球王国の真実』は、羽地按司が今帰仁城を奪ったのはもっと後の時代とする。「察度王の弟三男の天久按司慎拍を娘婿に迎え、北山王に就けた」とする。また、後北山時代を三代ではなく四代としている。この点は、『村史』と同じである。

 後北山は、1322年から1416年に尚巴志に亡ぼされるまで94年間とする。王代は三代と四代の二説があるが、初代の怕尼芝王の在位年数が69年とあまりにも長すぎるので、初代と二代珉王との間にさらに一代あったのではないか。初代怕尼芝が亡くなった跡目を継いだ羽地按司が、同じく怕尼芝を名乗ったと推測している。
 

2013年9月 5日 (木)

北山王国をめぐる興亡、その3

本部大主が城を乗っ取る

1322年、本部大主(ムトゥブウフヌシ)が策をめぐらし、侍大将の湧川按司を国頭の山賊の成敗に行かせて、その留守中に城を乗っ取ったのである。幼い千代松金は乳母に抱かれて、父の従兄弟の北谷大主(チャタンウフヌシ)のいる北谷城下の砂辺村に身を隠した後、名前を丘春(ウカハル)に変えて殿内屋(トゥンチャー)で育てられた。


 (湧川王子の息子)仲今帰仁按司の弟も、今帰仁城主の子孫なので、今帰仁子(ナチジンシー)と呼ばれ、兄が本部大主に滅ぼされた時、真和志(マージ、現在は那覇市)間切に逃げた。
 今帰仁子には3名の男子がいて、長男・今帰仁子は真和志間切識名(シチナ)村に住み、屋号今帰仁の祖になり、次男は同じ識名村の屋号花城(ハナグスク)の祖になり、3男安座名子(アザナシー)は東風平(コチンダ)間切に今帰仁村(後に外間村に変わる)を創設し、屋号安座名(神里姓)の祖になった。
 仲今帰仁城主の弟である喜舎場主(キシャバシュー)は、本部大主に攻め滅ぼされた時、古宇利(コーリ)島経由で久志間切平良(テーラ)村に逃げた。数年して勝連間切比嘉(ヒジャ)村(浜比嘉島か)に渡り、島の娘と男子を生み、その子孫が比嘉村の屋号平良や屋号新屋(ミーヤ)である。
 数年して喜舎場主は比嘉村を離れ、中城間切和名(ワナ)村に渡り、さらに喜舎場村に移り住んで落ち着いたという。

057

仲今帰仁城主の末子の志慶真樽金(シキマタルガニ)は久志経由で高離島に逃げ、島の北東の岬に泊城を築いた。泊城は隠れ城とも呼ばれ、川端イッパーと名を変え、北隣の伊計城のアタエ城主と反目していた。北風が強い日にアタエ城主は伊計城から上空に灰を撒き散らしたので、泊城の兵隊は目が開けられない状態になって川端イッパーは敗れた。平安座島に逃げ、その子は先川端按司と称し、孫は川端按司と称した。

 (英祖王系の湧川王子が亡くなると、家来になっていた義本王系の本部大主が、今帰仁城を奪い返したということである) 

 本部大主の乗っ取りと滅亡について、『古琉球三山由来記集』は次のような伝承も紹介している。
 本部大主が「謀反を企て夜中に1600人の兵をひきいて今帰仁城を攻めて火を放したり。そのとき今帰仁城主は、焼死されたり。妻子は畑中より逃げ出て近道を分け出て、北谷間切砂辺村の殿内屋という家内の下女となる。子は氏名を隠して丘春と称し、砂辺村の殿内屋の下男となり、馬の草刈をなしいたり。荏苒(ジンゼン、なすことなく歳月が過ぎる意味)の中に大宜味間切に旧臣の集り居るを聞きつけて、夜中に大宜味間切に行き、集る軍兵2300人をひきいて羽地間切寒汀那(カンテナ)の浜に進み至り、そこにおいて本部大主と大いに戦ってついて本部大主を殺し、旧城を取り返して城内に入り、城主となるを得たり。その後、北山は大いに治まる」

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四散していった本部大主の一族

18年後の1340年に、本部大主(ムトゥブウフヌシ)が亡くなり、今帰仁城主の後継者争いに乗じて、大宜味(オオギミ)城で湧川按司をはじめ旧臣たちが今帰仁城奪還の旗揚げをしたので、丘春は旧臣たちとともに今帰仁城を奪い返した。
 (いったん城を奪い返した義本王系の本部大主も、亡くなると再び、英祖王系の丘春ら旧臣たちが、また城を奪い取った。そのため、義本王系の一族は、本島の南部をはじめ各地に逃げ延びていった)

 本部大主の一族は四散していった。
 本部大主の長男は先代・健堅(ケンケン)大主で、敗戦後は国頭間切(マギリ)安田(アダ)村に逃げ隠れた。次男に運天(ウンテン)大主がいる。三男の東名(アガリナ)大主は、姉の息子二人を連れて、平安座島を経由して大里間切の上与那原(イーヨナバル)村に移り住んだ。
 東名大主と謝名大主(ジャナウフヌシ)の息子兄弟は、平安座島を経て上与那原村に来た。東名大主の子孫は、与那原に住み、屋号新里の祖となった。姉の息子2人のうち打ち1人は謝名大親と称し東大里按司(アジ)に仕え、屋号謝名(照屋姓)の祖となった。もう一人の息子は、与那原大屋子と呼ばれ与那原に住み、屋号照屋(ティーラ)の祖となった。与那原大屋子の子、古堅大主(フルゲンウフシュ)は、大里間切(マギリ)古堅村照屋門中(ムンチュウ)の祖となった。
 与那原役場の前の広場に東名大主を祀った拝所があり、その東側下方に謝名門中元屋(ムートゥヤ)がある。周辺は小高い丘になっていて、与那原発祥の地で、明治時代まで上与那原村と称していた。東名大主の妻は初代の与那原ヌル(神女)になった。謝名門中は福地姓・新垣姓もあり、平安座島の屋号謝名や今帰仁城を7年おきに参拝しているという。

北山王国をめぐる興亡、その2

「昔北山」のはじまり

ここから話は北山に入る。『琉球王国の真実』から紹介する。
天孫氏25世の今帰仁王子が「御先北山」の山原(ヤンバル)地方を治めていた。源為朝が1165年に伊豆の大島から琉球に来て、運天港に上陸して間もなくガソー屋の娘(後の勢理客=ジッチャク=ヌル)との間に大舜(タイシュン)が生まれたという根強い伝説がある。
 大舜が長じて「御先北山」を攻め、今帰仁按司を亡ぼし、「先北山」初代として今帰仁城主となった。「先北山」のことを「古北山」とか「昔北山」という古老もいる(別表参照)。Photo_2


『今帰仁村史』は、北山の時代区分が異なる。舜天王統の始まる前までを「前北山」(先北山)とし、1187年に「前北山」が終わったとする。それ以降、1322年、怕尼芝(ハニジ)に滅ぼされるまでの135年間を「中北山」(仲北山)時代としている。中北山が滅ぶ時期も異なっている。
 『村史』では、大舜は、舜天の兄にあたるという。天孫氏25紀に、その王統を亡ぼしたとされる権臣利勇を舜天が亡ぼして中山王になってから、今帰仁に住んでいた兄の大舜を助けて、今帰仁城の天孫氏を追い出して大舜を城主にしたと考えられる、という。また、もともと北山が天孫氏の支配下にあったのではなく、天孫氏は今帰仁から次第に中南部に広がったという見解である。


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 今帰仁村歴史資料準備室編集の『なきじん研究1993vol3 今帰仁の歴史』では、特に文献に出てくる14世紀以後の今帰仁を次のように時代区分している。
①グスク時代(狭義)……山原各地にグスクが割拠していた時代(11,12世紀~13世  紀末)
②山北王時代……怕尼芝・珉・
攀安知が明国と交易をし隆盛をきわめた時代
③第一監守時代……尚忠、子弟(具志頭王子)が監守を勤めた時代(略)
 注・「先北山」「中北山」の時代は「グスク時代」として一括されている。
ここで「山北王時代」というのは、今帰仁城が築かれてそこを拠点として山原地域を統括していた時代をさしている。…山原で権力が集約され、今帰仁城を拠点として山原を支配していった時代である。対外的には、一国として交易を行い、「山北王」が文献に登場(『明実録』など)してくる時代でもある。


055

 英祖王系統が支配者に

『琉球王国の真実』に戻る。
 大舜には男子がなかったので、舜天王統の2代目、舜馬王の子を「先南山」から養子に迎え、「先北山」二代目として今帰仁按司と称した。
 今帰仁按司にも男子がなかったので、三代目は義本王(舜天王統の3代目中山王)三男の今帰仁王子が養子になった。4代目今帰仁若按司は「先南山」の養子になった。
 「先北山」二代目の時に義本王が退位したため、新しい中山王になった英祖は次男湧川王子を北山に送り込み、北山世之主と称し、「仲北山」初代とした。湧川王子は旧
「先北山」系の本部大主(ムトゥブウフヌシ)と姻戚を結び、徐々に今帰仁地方を治めていった。本部大主の父は、義本王の庶子の本部大君である。  
 (つまり、「先北山」では舜天王・義本王の系統が支配していたのに、義本王が英祖王にとって代わられ、北山も英祖王の系統で支配されることになった。ここから「仲北山」の時代に移る。同じような名前がたくさん出てくるので、頭が混乱する。それで、義本王や英祖王の系統として整理をすると理解がしやすいので、そのように説明する)

083


 
 『今帰仁村史』は、義本王を押し出し王位について英祖は、舜天に滅ぼされた天孫氏の直系であり、「英祖によって元の天孫氏が復活されたのである。いわば、天孫氏系は、その仇を討って、元の王位の座におさまったのである」とのべている。
 北山に送り込まれ「仲北山」初代となった英祖王の次男、湧川王子は、地元有力者の先代・湧川大主の嫁を娶り勢力を安定させていったが、「先北山」の家臣には服属しないものも多かった。湧川王子には、長男・湧川大主と次男・今帰仁按司がいたが、本部大主の婿となった今帰仁按司が「仲北山」2代目を継いだ。
 本部大君の息子の本部大主は、祖父王(義本王)の失脚で英祖王次男・湧川王子の家来になっていて、娘は今帰仁按司の夫人になっていた。
 中年まで子がなかった今帰仁按司は、今帰仁で一番の美人・志慶真乙樽(シキマウトゥダル)を側室に迎え、ようやく男子が生まれ千代松金と名付けて大事に育てられた。
(志慶真乙樽は絶世の美女で、王のために尽くしたとして、伝説、民話がある。今帰仁城跡には、彼女のことを詠んだ琉歌の大きな歌碑がある)
 千代松金が1歳にならないうちに王は病気で亡くなった。死ぬ前に王は重臣を集め、跡継ぎは皆で協議して決めてほしいと遺言した。

2013年9月 4日 (水)

北山王国をめぐる興亡、その1



伝承にみる北山(ホクザン)の歴史

琉球の「戦国時代」とも呼ばれる時代があった。沖縄本島では、各地に按司(アジ)と呼ばれる豪族のような支配者が勢力を争った。本島のなかで、北山、中山、南山という小国を形成した。
 15世紀の初め、尚巴志(ショウハシ)が中山を攻め、その後、北山、南山も制覇して琉球を統一した。中山が三山を統一したので、琉球国王は中山王と称していた。だから、王府の編纂した正史も、中山が軸となり描かれており、北山、南山の歴史はよく分からないことが多い。
 山原(ヤンバル)を統治していた北山の居城は、いまは世界遺産になっている今帰仁(ナキジン)城である。この城跡を見るたびに、北山は尚巴志に敗れる前には、どんな歴史があっただろうか、と思いが頭をよぎる。
 それに加え、本島各地を歩くと、「今帰仁(ナキジン)から流れてきた」という言い伝えとそれにかかわる史跡がいくつもある。今帰仁に向かい御願(ウガン)する遙拝所もある。しかも、尚巴志に敗れるより以前に、争いに敗れて落ち延びた伝承がある。

 しかし、通常の歴史書では、伝承は史実とは認められないので、北山が明国に朝貢し『明実録』にその記述がある「後北山」という時代以降の歴史を記した著書が多い。
 いったい今帰仁城をめぐり、北山ではどんな興亡があったのだろうか。まとまった著書を読んだことがない。もっと詳しく知りたいという思いがあった。そんなとき、たまたま読んだのが伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山時代の謎を解く』である。
 著者が沖縄各地を歩いて、その土地に伝わる膨大な伝承を収集して、琉球三山時代の歴史を詳述している。北山、中山、南山それぞれに詳細に記述されているので、とても興味深い。054
 先行する研究として、東江長太郎著『通俗琉球三山由来記』(1935年出版)とこれを編集した『古琉球三山由来記集』(1989年)がある。東江氏は明治期から沖縄の津々浦々をかけめぐって集めた野史、口碑、伝承をもとに、『通俗』はガリ版刷りで発行した。
 もちろん、学問としての歴史は、文字に書かれた史料、発掘された出土品など、裏付け資料がなければ史実とは認めない。しかし、琉球の古い時代の歴史は、文字に記されていないことが多い。あっても戦災で失われたものも数多い。それに、各地を歩くと、さまざまなお墓、拝所、史跡などがある。それぞれに古い時代を伝える伝承、野史、民話、歌謡などがたくさんある。それらは、当然史実とはいえないけれど、その中には、貴重な史実が含まれているだろう。

 伊敷氏は、正史といわれる歴史書だけ見ても本当の歴史はわからない、そればかりか「真実を歪曲し、為政者のために編集されている」ことがある。だから、「伝承がすべて真実の歴史を伝えている」と言うつもりはないが、「野史や口碑の中には真実に近い事跡が多く含まれていることは事実である」と強調している。
 そんなことで、本書の中から、北山の歴史について、私流に興味のある部分を抽出してみた。著書を勝手に利用させていただいたが、私の個人的な読書ノートである。文章を抄録したり、文章のつながりなどのため、多少の手を入れたところもある。興味のある方は、直接、本書をお読みいただきたい。
 なお、『古琉球三山由来記集』『今帰仁村史』からも、折に触れ紹介させていただいた。ここまでは前置きである。

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神話時代の天孫王統

                             

 北山に入る前に、琉球は神話時代の天孫氏の王統があり、その25世、思金松兼(ウミカニマチガニ)王天孫氏がいた。しかし、「徳おとろえて武威がふるわず」、権臣の利勇(リユウ)が君を殺し、みずから国君と称した。「このため四方騒乱し、兵乱が大いに起こって、按司、酋長は各々兵権によって雄を争うようになり、そのため人民は塗炭の苦しみを受けるようになりました」
 逆臣利勇を討ったのが、源為朝の子で、浦添按司だった尊敦(ソントン)、のちの舜天王である。(『古琉球三山由来記集』)。
 

2013年9月 3日 (火)

ジョン万次郎の子孫、今永一成氏が講演

万次郎の子孫、今永一成氏講演

  9月29日沖縄ジョン万次郎会講演

 第8回沖縄ジョン万次郎会講演会が9月29日(日)午後4時から、豊見城市社会福祉協議会の2階ホールで開かれる。今回は、万次郎の玄孫(ヤシャゴ)にあたる今永一成氏が講演する。入場は無料。
 
 万次郎はアメリカから帰る時、現在の糸満市大渡浜海岸に上陸し、豊見城市翁長(オナガ)に半年間滞在した。沖縄ジョン万次郎会は、日本開国の先駆者である万次郎を後世に語り継ぎ、青少年育成に役立てることを目的に1991年に結成し、多彩な活動を続けてきた。今年で結成、22年となる。Img023

 2010年には万次郎ゆかりの地である翁長にジョン万次郎記念碑を建立した。2005年から毎年、講演会も開いてきた。

 第8回となる今年は、医学博士で福岡大学名誉教授の今永一成氏を招いて「ジョン万次郎から学ぶものー強い信念にもとづくパイオニア精神」と題して講演することになった。

 今永氏は、母方の祖母が万次郎の長男、中濱東一郎の長女で万次郎の初孫であり、今永氏は玄孫(ヤシャゴ)となる。
 
 万次郎会の会員ら関係者は、今永氏の講演に強い期待を寄せている。より多くの県民に万次郎のことをいっそう知ってもらおうと、広く参加を呼び掛けている。

 アトラクションとして、南亭こったいさんの落語「そば清」も予定されている。

 私も参加したいのはやまやまだが、ちょうど28,29日と山原方面に泊まりがけで出かける予定をしている。どうも参加が無理かもしれないので、事前に紹介しておきたい。

 

万次郎について、このブログで「沖縄で愛される中浜万次郎」ほかいくつかアップしてあるので、関心のある方は見たいただきたい。

2013年9月 2日 (月)

古波蔵馬場跡を訪ねる、その2

 古波蔵馬場は、幅10㍍前後、長さ200㍍ほどあったという。「勝負には宮古馬を使い、早足(足組す/デシクマスン)で競っていました」と書かれている。
 
 「早足(足組す)」とは、『那覇市史』によれば<競馬といっても馬をとばすのではなく『脚組す』といって早足(一方の脚は常に地につく走法)で勝負させた>と記されている(『消えた琉球競馬』から)。やはり、中間速で、走りの美しさを競ったようだ。

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 明治45年(1912)に沖縄初の衆議院選挙で当選した2人の当選祝賀競馬が古波蔵馬場で行われたそうだ。1000人も見物客が押し寄せた。総勢100頭が出場したという。
 
 当時の「琉球新報」は、内地の競馬はアレという間に終わるが、本県の競馬は普通ダク(中間速)で乗る勝負であり、少しでも駆けさせたら先に行っても負けになる。「内地の競馬より本県の競馬の方が面白い」と解説している。

梅崎晴光さんは、この速さを競うのではなく、走りの美しさを競う世界でも類をみない琉球競馬を「非武の文化」と解釈されている。これは、琉球・沖縄の歴史と伝統、文化にも詳しい著者の見識だと思う。以上、梅崎晴光著『消えた琉球競馬』から紹介させていただいた。
 琉球王府の時代、腰に刀を差していた大和の武士と違い、琉球の士族は武器は持たず丸腰だった。床の間には刀ではなく三線を飾ったといわれる。走りの美を競う競馬を生み出した背景には、そんな「非武の文化」があるだろう。
 なお、このブログに「『武器を持たない国』琉球王国の実像」をアップしてあるので、関心のある方はそちらを見てください。

 

 
 

 

 琉球競馬は、戦前その姿を消して、いまはまったくない。古波蔵馬場跡を見て、当時のことをしのぶしかない。それにしても、この馬の像は実物大という。いま通常見る馬に比べると、在来馬はかなれ小柄だったようだ。

「ンマハラセー」は今年、沖縄市の「こどもの国」で2度にわたり再現された。その模様はテレビで見た。一度、実際のンマハラセーを見てみたいものだ。

「ユーチューブ」に動画がアップされていたので、それを紹介する。

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2013年9月 1日 (日)

古波蔵馬場跡を訪ねる、その1

古波蔵馬場跡

 

わが家からも近い市内城岳小学校の前に、かつて「古波蔵馬場」があったという。この通りはもう何百回も通っているが、馬場跡だというのは知らなかった。前にブログで紹介した「琉球競馬(ンマハラセー)」のことを書いた梅崎春光著『消えた琉球競馬』を読んでいると、「古波蔵馬場」が紹介されていたので、見に行った。Img_3256

ここは、那覇市内でも有数のガジュマルの見事な大木がある。その前に馬の塑像がある。前からこの馬の像は見ていたが、その意味がやっとわかった。馬の足元に「古波蔵馬場(クハングヮンマウィー)」の説明板があった。次のように紹介している。

「この地は、かつて古波蔵馬場と呼ばれ、古波蔵村が近隣の国場村や与儀村と馬摸合を組織して月に一度、馬勝負(ンマスーブ)をしていた場所です。勝った馬は、島尻郡の大会や那覇の潟原(カタバル、干潟のこと)で年に一回行われた全県大会に出場していました。

 馬場(ンマウィー)は幅10㍍前後、長さ200㍍ほどで、両側には大人3人でもかかえきれないほど大きな松の並木があり、壮観だったそうです。勝負には宮古馬を使い、早足(足組す/デシクマスン)で競っていました。この馬のオブジェは、当時の写真を元に実物大で造られています。 

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 また、歩道の大きなガジュマルは、この場所で数十年という長い年月にわたって地域の人達に愛され育てられてきたものなので、那覇市の景観資源として保全されています」

 馬摸合とは、はじめて聞く言葉だ。「摸合(モアイ)」は、大和でいえば「頼母子講」

のこと。何人かで毎月集まり、お金を出し合い、順番に取っていく相互扶助の組織。いまも沖縄では摸合が盛んだ。同級生や職場、地域、出身郷里、共通の趣味などの単位で行い、一人で4,5つの摸合に加わる人もいる。

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    古波蔵馬場跡は松並木もあり、「城岳馬場通り」と呼ばれている

 馬摸合は「月何回か定められた日に必ず馬に乗って馬場に集まり、調教を行う。その後料亭などに場所を移して摸合へ。集まった金は新たに競走馬を購入した馬主が優先的に受け取る決まり」だったという(『消えた琉球競馬』)。

 「馬勝負」とは、文字通り馬の競争だ。ただし、沖縄の競馬は、大和のようにスピードを競うのではない。小柄な沖縄在来馬が足並みの美しさを競った。馬具に華麗な装飾を施し、それも加点の対象だった。世界でも類を見ない美技を競う独自のスタイルだった。琉球王朝の時代から戦前まで300年にわたり、受け継がれていた。馬場の数は県内で150を超えていた。『消えた琉球競馬』に詳しく書かれている。

 

 

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