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2013年9月

2013年9月30日 (月)

島唄に歌われた山桃

 沖縄の民謡にヤマモモ(山桃)が歌われている曲がある。その代表的なのが「桃売アン小」(モモウイアングヮー)。この曲をいま練習しているところだ。

 題名は、桃売りの娘さんのことを表している。桃売りといっても、いわゆる白桃、ピーチではない。白桃は沖縄では作っていない。山桃のことだ。山桃は、別名楊梅(ヨウバイ)という。

 山桃は、私の故郷の高知県では身近にあった。田舎の自宅の裏に大きな山桃の木があり、木に登ったり、食べた記憶がある。沖縄に住んで、山桃売りがあったことを知ると、なぜか懐かしさがこみ上げる。とくに、おいしいというわけではない。果実は、ちょっと甘酸っぱい。初夏に採れた。小粒で、表面にはちっちゃな粒々がたくさんある。ジャムや果実酒にも加工されるそうだ。

 Photo 日本では、関東以南に生育し、中国でも暖かい地方にあるというから、沖縄にもあるのは当たり前だろう。

 高知県では、県の花、徳島県では県の木に指定されている。

 山桃ですぐ思い出すのは、高知県出身の宮尾登美子さんの小説「櫂」の冒頭のシーンである。私は、小説よりも映画の出だしの場面が印象に残る。
 高知の十市(トイチ)の楊梅(山桃)売りが、天秤棒を担いで現れる。ザルに盛られた山桃の赤い実が目に焼き付いている。

 

 ところで沖縄でも山桃があるといっても、移住して8年たつが一度もお目にかかったことがない。知り合いに「山桃ってあるんですか?」と尋ねると「あるよ、山桃は」と答える。だが、スーパーだけでなく、各地のJAの直売所を見ても、市場をのぞいても、見たことがない。

 昔は、山桃といえば、いまの沖縄市の山内諸見里(ヤマチムルンザト)あたりはよく採れたらしい。「祖慶漢那(スウキカンナ)節」という曲がある。沖縄各地の物産を売り歩く様相を歌った曲だ。ザルやムシロ、山桃、魚、笠などそれぞれの産地が登場する、そのなかに山桃は次のように歌われている。

 「♪山内諸見里ぬ 桃売アン小やいびしが 山桃小や 買うみそうらに」
 (山内諸見里からきた桃売り娘ですが、山桃を買ってください)
 
 歌はこのあと「あなたの山桃はまだ青くて食べられないよ」と断ると「じゃあ、白桃を買ってください」と再度、ねばるというやり取りが描かれる。

 

 戦前は、嘉手納(カデナ)から那覇、与那原、糸満まで軽便鉄道が走っていたので、鉄道に乗って、山内諸見里から那覇、首里など山桃を売りに来ていたそうである。

 戦後、鉄道はなくなった。山桃の産地だった山内諸見里のあたりは、米軍基地になってしまっているという。残念なことである。山桃の木は、基地の中でいまも残っているのだろうか。花や果実をつけているのだろうか。でも、山内諸見里は沖縄南インターの近くだから、もう木はないだろう.。いま、山桃をまったく見ないのには、こんな事情もあるのだろう。
 

 「桃売アン小」の曲については、今月のアルテ・ミュージック・ファクトリーで歌う予定なので、その際に紹介したい。

 追記

「祖慶漢那節」の歌詞について、桃売りと買い手のやり取りと解釈して書いた。だが、アルテ三線仲間の玉那覇さんによると、売り手と買い手ではなく、売り手の商人が競い合って売る様子を描いているという。だから桃売り娘が「山桃を買ってください」というと、別の売り手が「あなたの山桃は青くてまだ食べられない。私の白桃を買ってください」と売り込むという歌意になる。なるほど。

2013年9月29日 (日)

モトブリゾートでライブを楽しむ

 沖縄北部の本部(モトブ)町にあるホテルモトブリゾートに出かけた。ホテルは、名護から海洋博公園に向かい、本部大橋を渡ったらすぐ左にある。

Img_3502 あまり大きなホテルではない。なぜ行ったのかというと、ホテルの夜空の下で、食べ放題、飲み放題を楽しみながら、沖縄で唯一のGSバンド、SSカンパニーのライブを聴くためである。前日も、ミノカズバースデイライブで聴いたばかり。連夜のライブというわけだ。

 沖縄は、すぐ身近にさまざまな音楽のライブがあり、楽しめるのがスゴイところ。前夜と同じバンドであっても、今度はリゾートホテルでの宿泊付き、運転の心配もなしに飲み楽しめる。これで、一人8000円だから安い!

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 予想された雨も心配なく、野外ライブにうってつけ。本部には、熱烈なSSファン、RBCラジオ「団塊花盛り」のリスナーがいる。「はれくも」さん夫妻、「本部のルーシー」さん、「アユナ」さん、「オキザリス」さん。糸満の常連さんや金武町、読谷村などからも、お仲間たちが駆けつけた。

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「はれくも」さんとは、なぜか同じ時期に「源氏物語」を完読したという不思議な縁。

  この夜は、なんと150人ほどの参加でライブは盛り上がる。Img_3523
 もう女性や男性、年齢も関係なく踊りだす。踊れば楽しさは「倍返し」となる。それが「沖縄の法則」であるようだ。

 同じSSライブでも、前夜とはまた違った曲目を交えて演奏した。Img_3525
 いつも人間電車で踊る「佐敷幼稚園」は、ここでは「もとぶ幼稚園」となる。幼稚園といえば、ホテルには幼稚園児が集団で「お泊り」にきていた。

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 ライブの後は、カラオケ2次会で自慢のノドを披露した。SSメンバーの2人参加してくれた。Img_3529
 さすがに午前様で疲れたが、朝のホテルからの眺めは素晴らしかった。


ライブの詳しい模様は,お気に入りにある「レキオいくぼー日記」をご覧ください。

2013年9月28日 (土)

箕田和男バースデイライブ

 箕田和男といっても、沖縄のラジオリスナーでなければ知らないだろう。RBCアナウンサーだが、9月26日、60歳誕生日で定年退職した。今回は、還暦祝いのバースデイプラスがあった。

 ライブは、おもろまちのイタリアレストラン「トップノート」で開かれ、リスナー、GSファンはじめ多数が集まった。Img_3465

 ミノさんといえば、「団塊花盛り」や「ホリデーインポップス」などの番組を担当している。なかでも、かつてのグループサウンズの熱烈ファンで、沖縄唯一のGSバンド「SSカンパニー」の応援団長のような存在だ。「団塊」の番組の中の「GSコーナー」で毎週、リクエストに応えて、GSナンバーを流す。それだけなら、フツーのアナウンサー。それだけでないところが、ミノさんの真骨頂だ。

 ミノさんは、自らGSやポップスの楽曲を歌手顔負けに歌いこなす。CDも出し、カラオケにも入っている。おまけに、SSカンパニーのリーダー、真ちゃんと組んで、「ピエロの恋」ほかGS曲を作詞している。

 この日も、最初から立て続けに、4曲ほど歌った。歌うのは、7か月振りだとか。1昨年、病気で倒れて休職したが、回復した。その後は元気で活動している。Img_3477


 RBCアナウンサーといえば、「団塊花盛り」を担当していた5人のうち、4人まで県外出身者だ。なかでも、すでに定年を迎えた小山康昭、柳卓と箕田和男は同世代だ。3人そろって退職となったが、その後も番組は担当して仕事を続けている。ただ、、柳卓さんは、6月に脳梗塞で倒れた。ようやく、回復できて、週1回番組をこなすようになったばかり。アナウンサーは激務だから、人一倍、健康に気をつけてほしい。

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 「団塊」を担当するもう一人の県外出身者、高橋勝也君はまだ若い年代。かれも、ドラムをたたくのが好きだ。この日も、2曲たたいた。なかなかの腕だ。
 ギリギリまで出席してリスナーと交流したあと、放送局に帰り、夜10時からの「団塊」を担当し、さっそく「バースデイライブ」の模様を参加者の声をまじえて紹介していた。いま紹介したアナウンサーは、いずれも歌がうまい。商売柄、声がいいということもあるかもしれない。

Img_3493 ビートのきいたGSナンバーが続くと、糸満の「風は南から」でのライブの常連のお姉さんを中心に踊りまくる。

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 オリジナル曲「佐敷幼稚園」では、参加者のほぼ全員参加の踊りの列ができた。

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 アンコールに応えてのミノさんの「ピエロの恋」、「何も言えなくて、夏」で大盛り上がりのうちに終わった。

 GS全盛期には、まともに聴く音楽とは思っていなかった。でもいまライブで聴くと、なぜか、気分が若返るような気がするから不思議だ。








2013年9月25日 (水)

「半沢直樹」の魅力

 視聴率42%を超えて(関東)圧倒的な人気で終わったテレビドラマの「半沢直樹」。遅まきながら一言いいたい。

 なぜ、そんなに人気が出たのか。その答えとして、勧善懲悪で「水戸黄門」と同類のドラマだから、という評論家がいる。でも、それは極めて浅薄な見方であり、事実としても違う。

 なぜなら、水戸黄門は江戸幕府のときの副将軍である。爺さんの恰好をしていても、最後は葵の御紋を示し、副将軍の権威で悪い役人を糺すというものだ。でも、半沢直樹は、そんな地位はない。振りかざすような葵の御紋も権威もない。

 ただ、銀行の上司、幹部の不正、悪事を暴く証拠を徹底して調べ集めて、突き付けることでしか、追及はできない。悪事の証拠を集めるために、銀行の同僚、同期入行の友人、中小企業の親方など、高い地位ではない、下積みの人々も含めて、みんなで駆け回る。力の源泉は、不正を見過ごせないという深い思いで結ばれた強いきずなである。

 水戸黄門とは真逆である。

 それに、水戸黄門が役人の悪事を懲らしめるのは、幕府の権威を保つことに究極的な目的がある。

 半沢直樹が、悪事に立ち向かう立脚点は、大手銀行が本来の銀行の姿から逸脱していることに対する憤懣である。中小企業が危機にあるとき、資金を貸さないばかりか、引き上げる。倒産させても銀行の利益を守ろうとする。雨の日に傘を貸すのではなく、逆に傘を取り上げる。そんな理不尽なやり方をしてきた者が、銀行の中で出世する。幹部になる。

 銀行に殺された半沢の親父の姿は、彼の行動の原点である。人を人とも思わない、収益だけが至上命題のような、大手銀行の論理とそのもとで出世しながら不正に手を染める幹部。そんな銀行のあり方を変えたい、というところに半沢の究極の目標がある。

 ドラマでは、しばしば銀行のあり方を鋭く問いかける場面が登場する。最終回にも、半沢の大演説が際立った。

 日ごろ、利益至上という企業の論理や、そこでの無理が通れば通りが引っ込む上意下達の企業秩序、社員を道具のように使い捨てて顧みない社員管理ーー。そんな渦の中で苦い思いをしている圧倒的多数のビジネスマン、銀行員、その家族、そして中小企業の親方など、多くの視聴者が共感し、喝さいの拍手を送る。ウナギ登りの高視聴率には、そんな背景があるのではないだろうか。

 あとひとつ、付け加えたいのは主演の堺雅人である。半沢になりきった演技力はなかなかのものである。そのほかの出演者も、みんな個性的で魅力がある。なかなかの適役ぞろいで、ドラマに厚みを与えている。
 堺雅人に注目したのは、NHK大河ドラマ「篤姫」からだ。
 もう一つの注目ドラマが、フジテレビで10月9日から始まる堺雅人主演の「リーガルハイ2」である。主役の古美門研介は、正義の御旗を嫌い半沢とは、真逆の役どころだ。だが、堺雅人の演技がドラマの面白さを支えている。秋に始まるドラマでは「リーガルハイ2」が一押しのお楽しみである。

 半沢直樹のドラマの魅力は、さまざまな角度から論じられている。これ以上、語るつもりはない。ただ水戸黄門と同じという見方にだけ、一言「それは違う」と言いたかっただけである。

 

2013年9月23日 (月)

「あやぐ節」に歌われた渡地

「あやぐ節」に歌われた渡地

「あやぐ節」のなかで、宮古島から沖縄本島に船旅する夫に「落平の水で水浴びしないように」と歌われていることを書いた。なぜ女性は、本島に出かける夫の心配をするだろうか。それは、「あやぐ節」の別の歌詞をみれば、よく分かる。

「♪宮古(ナーク)から 船出ぢゃち 渡地(ワタンヂ)ぬ 前ぬ浜に 直(シ)ぐはいくまち」

(宮古から船を出して 渡地の前の浜に すぐ走り込ませた)

 これも、文言だけではよく分からない。渡地というのは、辻、仲島とならんで有名な遊郭だった。つまり、渡地に走り込むというのは、遊女のもとに走り込むことを意味する。

 島袋盛敏、翁長俊郎著『標音評釈琉歌全集』は次のように評釈している。

 渡地に走り込んで来ると、そこには…渡地小女郎波枕(遊女)たちが待ち受けている。それで船頭衆は渡地に向かうときは元気が出て、他の方向に行くときよりも倍の力を出して、舟足を急がせるのであった。そして海の男達は手荒く小女郎たちを愛撫するのであった」

 かなれ露骨な表現で、船が渡地に急ぐ意味を評釈している。
 ただし、この渡地には「宮古蔵」と呼ばれる施設があった。下の地図で見ると、渡地遊郭のすごそばに宮古蔵がある。
 宮古蔵は「宮古、八重山の貢物をつかさどった機関」で、貢布、特産品の貢物を扱った。「王府の各機関に納入するさいの窓口業務的な性格の機関であったようだ」。また、「貢使の宿館的な機能ももっていたらしい」(『沖縄大百科事典』)。

 

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 宮古から本島に向かう船といえば、貢納物の運搬が重要な任務の一つだったはずだ。まずは宮古蔵に貢布や特産品の貢物を納入することが大切な任務である。一仕事終わってから、遊郭で遊ぶことはたしかにあるだろう。宮古蔵が宿館的な役割もあり、その宿のそばに遊郭があれば、誘惑にさらされるだろう。
 宮古からの船といえば、貢物の運搬でなくても、何らかの用務があっただろう。ただ遊びのためにくるのではないはずだ。用務はそっちのけにして、まず渡地の遊郭に走り込むというのは、少しオーバーな表現かもしれない。

 とはいっても、この琉歌で歌われる「渡地ぬ前ぬ浜に直ぐはいくまち」という表現は、なんか喜び勇んで向かうという雰囲気がある。だから、運んできた貢物を納入するなど用務が終われば、遊べるということで、喜び勇んで渡地の浜に急いだのだろうか。
 そんなことも想像した。

追記

仲宗根幸市編著『琉球列島島うた紀行、第三集沖縄本島周辺離島那覇・南部』では、「あやぐ節」は宮古から旅してきた船乗りと遊女との問答歌だという。そうなれば、遊女のいるは渡地の前の浜に急ぐという意味も、おのずと明らかである。ただし、船乗りは、それなりの用務をもって船旅をしてきたことには変わりないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年9月22日 (日)

オリオンミュージックフェスタ

 沖縄ビールといえば、もちろん「オリオンビール」。この県産ビールは、毎年オリオンのコマーシャルソングを歌った歌手を一堂に集めた「オリオンミュージックフェスタ」を開催している。6本入りビールの空き箱のシールを張って応募し当選しないと、入場できない。なんと、今回初めて当選して、9月21日、宜野湾市の宜野湾海浜公園の野外劇場でのフェスタに行った。

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 出演は、沖縄を代表するミュージシャンたちだ。野外劇場は、3000人くらい入れるだろうか。いくら彼らの熱烈ファンだといっても入れない。「ここにいらっしゃる皆さんは抽選で選ばれた方々です」と何度も会場で強調していた。

 オリオンビールのCМといっても、大和的に考えるのとはまるで違う。いずれもその時々の沖縄でのヒットソングになって、愛されている。ミュージシャンにとっても、代表曲にもなっている。沖縄音楽の一ジャンルをなしているといってもいいかもしれない。

 午後4時スタートで、9時まで夜空に音楽が響き渡った。
 最初は、福岡出身で沖縄在住のイクマあきら。「ダイナミック琉球」(2008年)ほかを歌った。この曲なんか、いまやエイサーの定番曲となっている。なんと、彼のお母さんが車イスに乗って私のすぐ隣で観ていた。ビックリである。

 しおりさんは「ずっと君と」(2009年)ほかをキーボードの弾き語りで歌った。弟さんが作曲をするとか。一緒に出演した。

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 人気バンドのパーシャクラブは「東(アガリ)バンタ」(2007年)や「五穀豊穣」ほかで盛り上げた。新良幸人(アラユキト)は、ビールで乾杯しながら、三線を弾き鳴らす。

 manamiさんは「ベストフレンド」(2011年)など歌った。東京で活動していたが、沖縄を拠点にやっていくという。
 
 下地勇は、すべて宮古方言で歌うことにこだわっている。歌詞はまったくわからない。音楽もポップスでもない、ロックでもない、ラテンでもない。一種独特である。そんななかで「希望を注げ」(2011年)などCМソングだけは、共通語で歌われており、ようやく理解できる。

 最後のトリは、なんといってもdiamantesu。「ヘイ!二才達(ニセター)」からはじまり、「cebada amigo」までヒット曲をメドレーを含めて熱唱した。

 ラテンのリズムに会場の盛り上がりは最高潮だった。
 オリオンのCМソングといえば、私がもっとも好きなのは、beginの「オジー自慢のオリオンビール」である。沖縄社会の様相が見事に歌いこまれている。いまや県民愛唱歌の一つといえるだろう。ただ、彼らはメジャーになりすぎて、この種のフェスタにまでは来ないのが残念だ。自分たちで「うたの日コンサート」を開いている。

 会場は撮影禁止なので、ある人が撮った遠望の写真だけ使わせたもらった。

 diamanntesの素晴らしさを味わうために、ユーチューブにあった「勝利のうた」をアップする。これは、この日は歌わなかった。

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2013年9月21日 (土)

「あやぐ節」に歌われた落平

「あやぐ節」に歌われた落平(ウティンダ)

 

 沖縄民謡の「あやぐ節」は、宮古島から沖縄本島に来る様子など歌った民謡である。宮古民謡ではなく、本島で歌われる曲だと聞く。宮古民謡の「とうがにあやぐ」が元になっているともいわれるが、私は、あまり似ていないように思う。

 歌詞の中に「落平の水に浴びすな」という文言が出てくる。この「落平(ウティンダ)」がよく分からなかった。Img_3390           現在の落平の様子    

 那覇市のモノレール壺川駅前に史跡案内板があり、そこでこの附近の史跡が紹介されているなかに、落平の紹介がある。

 現在、沖縄セルラースタジアム(野球場)の南側の道路端に落平樋川(ウティンダヒージャー)がある。この湧水が歌に登場する落平だった。

 野球場のある奥武山(オウノヤマ)公園のあたりは、昔は海で、奥武山は島だった。埋め立てられた土地だ。

落平の湧水は、この付近を走るたびに、なにか拝所のような場所なので、「何を祀っているのかな」と前に見に行ったことがある。そこは、湧水であり、そこが拝所ともなっていた。その時は、水量はチョロチョロ出るくらいで多くなかった。まさか、この湧水が「あやぐ節」でうたわれる落平とは思いもしなかった。

 昔の那覇は、井戸は塩辛水で飲料水には使えなかった。そこで、対岸の落平から湧き出る水を水桶に積んだ伝馬船で那覇に運んだ。その水を飲み水として売り歩く「水売り」が見られたという。

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           落平に殺到し、順番待ちをする伝馬船


史跡案内板にある昔の写真を見ると、水桶を積んだ伝馬船が水汲みのために並んでいる。当時の雰囲気がよくわかる。

 話は「あやぐ節」の歌詞に戻る。落平は次のように歌われる。

「♪沖縄いもらば 沖縄の主 落平ぬ水に 浴みさますなよ 吾(バ)んたが香(カ)じゃぬ 美童(ミヤラビ)匂いぬ 落てぃがすゆら」

(沖縄本島に行けば 沖縄の旦那様 落平の水で水浴びしないように 私の匂い  若い女性の匂いも 落ちてしまうのではないかしら)

 琉歌の字面だけの和訳では、意味がよく分からない。島袋盛敏、翁長俊郎著『標音評釈琉歌全集』では、「あやぐ」ではなく「とうがに節」という題名で、「あやぐ節」と同じ歌詞(琉歌)が収録されている。この『琉歌全集』は、次のように評釈をしている。

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           落平の水を水桶に受ける伝馬船

 「落平の水に浴みないようにして下さい。そして私の匂、いとしい匂をいつまでも持っていて、他の人に移さないようにして下さい。お前の匂を他人に移してなるものか、いつまでも私が強く抱きしめて放さないから安心しておいで」

 夫が宮古島から本島に旅していけば、浮気をしないか心配だったのだろう。「落平の水」にかけて、「私の匂いを落とさないで、浮気しないで」と諭したのではないだろうか。

 

追記

 

仲宗根幸市編著『琉球列島島うた紀行、第三集沖縄本島周辺離島那覇・南部』によると、この歌詞は、夫と宮古の妻との関係ではなく、「宮古から那覇へ旅してきた船乗りと遊女の問答歌」だという。となれば、「落平の水で浴びてはいけない」と言っているのは、遊女となる。

 

2013年9月19日 (木)

怪物と恐れられたガーナー森

怪物と恐れられたガーナー森(ムイ)

真玉橋の石獅子を前にアップしたとき、一基はガーナー森に対する魔除けの意味で設けられたものであることを紹介した。毎月朔日(ツイタチ)と15日には石獅子に赤いまん頭を三つ供えて『ガーナー森(悪魔)がこの村に来たら追い払ってください』と祈願する習慣があったという。

このときは、ガーナー森がどこにあるのかよくわからなかった。アルテ三線仲間である玉那覇宗造さんから教えてもらった。那覇の古波蔵方面から那覇大橋を渡りすぐ左手にある居酒屋「能登の海」の裏側に小山がある。これがガーナー森である。

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 昔は、国場川河口(漫湖)の中にある小さな島だった。

 現在の河口付近は大半が埋め立てられてしまい、ガーナー森も地続きになっている。かつて、奥武山(オウノヤマ)からガーナー森にかけての景色は名勝地として有名だった。

 案内板があり、次のように説明していた。

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 この森にはナハキハギが群落をなして生育しています。ナハキハギは、アフリカ・オーストラリア・インド・東南アジア・太平庄諸島・中国大陸・台湾などに分布するマメ科植物です。沖縄県では、西表島、石垣島、沖縄島などの海岸に生育しています。沖縄島はナハキハギの北限地になっています。この森は、歴史的にも名勝として知られ、ナハキハギ群落のある大切な記念物です。Img_3402

              現在の漫湖。とよみ大橋を渡った左手にガーナー森がある   

 尚敬王の冊封使の徐光(ジョホコウ、1719年来琉)は、那覇港から国場川河口にかけての景色のよさを「漁舟夕照」とほめています。

 また、尚温王のときの冊封使李鼎元(リテイゲン、1800年来琉)も、二度奥武山に遊び、ガーナー森を「鶴頭山」と詠んだ詩を残しています。

 名前の由来は、ガーナーとは「たんこぶ」のことで、形が似ているからといわれる。ガーガーとうるさい鵞鳥(ガチョウ、雁の仲間)が棲んでいたからという説もある。

玉那覇宗造さんによると、伝説ではガーナー森は怪物だったという。漫湖を我が物顔で暴れ回り、したい放題、狼藉三昧を繰り返していた。漫湖に接する村々を襲い、村人を食い荒らしていた。とくに豊見城市の真玉橋、嘉数、根差部(ネサブ)の村の被害が大きかったようだ。襲ってくると、村人総出で五尺棒や鎌、鍬など農具で武器として仕える物を持ち防戦したが、怪物にはとても勝てなかった。後は、神頼みしかない。村人たちは一生懸命に神様に祈願したら、天に通じたよう。神様も「ガーナー」の悪行を天から眺め、苦々しく思っていた矢先でしたので「もういいでしょう」と3個の大岩を天から投げつけた。それが見事にガーナーの尻尾に命中した。ガーナーは暴れようとしても動けない。とうとう力尽きていつしか時が経過し、怪物は小島に変身させられた。

             

 被害の大きかった真玉橋、嘉数は漫湖に注ぐ国場川に面しており、根差部も漫湖に注ぐ饒波(ノハ)川に面している。この3村とも石獅子があり、漫湖のガーナー森に向かって設置されている。石獅子の霊力でガーナーの悪行を止めてもらいたいとの昔の人たちの切実な願いの現れと思われる。

 「ガーナーの悪行とは洪水による水害のことではなかったのか?」、真玉橋の石獅子を見学した時、ふと思ったそうだ。漫湖周辺の村々は、豪雨のたび洪水による甚大な被害を被ったと思われる、と推理している(「アルテ・ウォーバ」2013年9月号、「タマさんの沖縄話あれこれ」から)。

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                        小島だったガーナー森(史跡案内版から)

 埋め立てられる前の小島だった時代のガーナー森の写真が、那覇市壺川駅前の史跡案内板にある。これを見ると、なるほど。大きな頭と胴体があり、そこから長い尻尾が伸びている感じだ。まるでネス湖の怪獣の写真に似ている。ガーナー森は、湖に浮かぶ怪物のように見える。たびたび水害に襲われた村人たちは、水害はこの怪物が暴れるから引き起こされているのではと受け取ったということも、ありうる話だ。尻尾の先の岩は天から投げつけられたという大岩だろう。そういう伝説が生まれるのも、写真を見れば納得できる。

 埋立てによって、伝説を生んだ昔の姿が様変わりしたのは、ちょっと残念な気がする。

050           ガーナー森に向かって建つ真玉橋のイリヌ・シーサー(西の石獅子)


             

 

 

             

 

2013年9月17日 (火)

山之口貘・沖縄に思いをよせ

 

故郷・沖縄に思いをよせた詩

 

 那覇市に生まれ、上京して詩人として活動してきた山之口貘は、故郷の沖縄をテーマにした詩がたくさんある。沖縄のなつかしい風景や思い出をテーマとした詩もあるが、沖縄戦で様変わりした故郷に思いを寄せたいくつもの詩は胸をうつ。

「不沈母艦沖縄」

 

 「守礼の門のない沖縄 崇元寺のない沖縄 がじまるの木のない沖縄 梯梧の花の咲かない沖縄 那覇の港に山原船のない沖縄 在京30年のぼくのなかの沖縄とは まるで違った沖縄だという」
 
「まもなく戦禍の惨劇から立ち上り 傷だらけの肉体を引きずって どうやら沖縄が生きのびたところは 不沈母艦沖縄だ いま80万のみじめな生命達が 甲板の片隅に追いつめられていて 鉄やコンクリートの上では 米を作るてだてもなく 死を与えろと叫んでいるのだ」

 沖縄を占領した米軍によって、父祖伝来の宝の土地は強奪された。「不沈母艦」の「甲板の片隅」に追いつめられ県民。戦後沖縄の姿を見事に描き出している。「死を与えろと叫んでいる」というのも、生きる糧である土地を奪われては生きていけない。その血を吐くような叫びがここにある。

「島」

「おねすとじょん(ミサイル)だの みさいるだのが そこに寄って 宙に口を向けているのだ 極東に不安のつづいている限りを そうしているのだ とその飼い主は云うのだが 島はそれでどこもかしこも 金網の塀で区切られているのだ 人は鼻づらを金網にこすり 右に避けては 左に避け 金網に沿うて行っては 金網に沿うて帰るのだ」

 ここにも、島は金網で囲われ、住民は「金網に沿うて行き、帰る」しかない現実をえぐっている。ミサイルが宙に口を向け「極東に不安のつづいている限り」居座るというのは、現代もそのままあてはまる。「北朝鮮の脅威」や尖閣諸島をめぐり「中国の脅威」をあおり、米軍基地も海兵隊もオスプレイも沖縄に必要だと叫ぶ。「飼い主」も「飼い犬」も口をそろえて叫んでいるのではないか。

 

「沖縄よどこへ行く」

 

「蛇皮線の島 泡盛の島 詩の島 踊りの島 唐手の島 パパイヤにバナナに 九年母(クニブ)などの生る島 蘇鉄や竜舌蘭や榕樹の島 仏桑花や梯梧の真紅の花々の 焔のように燃えさかる島 いま こうして郷愁に誘われるまま 途方に暮れては また一行づつ この詩を綴るこのぼくを生んだ島 いまでは琉球とはその名ばかりのように むかしの姿はひとつとしてとめるところもなく 島には島とおなじくらいの 舗装道路が這っているという その舗装道路を歩いて 琉球よ 沖縄よ こんどはどこへ行くというのだ」 

 詩はこのあと、かつて中国に服属し薩摩に支配された琉球が、廃藩置県により琉球王国が廃され、「日本の道」に踏み出した歴史を振り返る。
 
「おかげでぼくみたいなものまでも 生活の隅々まで日本語になり めしを食うにも詩を書くにも泣いたり笑ったり怒ったりするにも 人生のすべてを日本語で生きて来たのだが 戦争なんてつまらぬことなど 日本の国はしたものだ」

 

「それにしても 蛇皮線の島 泡盛の島 沖縄よ 傷はひどく深いときいているのだが 元気になって帰って来ることだ 蛇皮線を忘れずに 泡盛を忘れずに 日本語の 日本に帰ってくることなのだ」

 日本に組み込まれた沖縄が伝統ある民俗・文化も言語も「昔の姿」を失ってきた。その沖縄は戦争と異民族の支配下によって「傷はひどく深い」。沖縄はどこへ向かうのか憂う。深い傷を負った故郷への痛切な思いと祖国復帰を願う心情にあふれている。

「弾を浴びた島」

「島の土を踏んだとたんに ガンジューイ(お元気か)とあいさつしたところ はいおかげさまで元気ですとか言って 島の人は日本語で来たのだ 郷愁はいささか戸惑いしてしまって ウチナーグチマディン ムルイクニ サッタルバスイ(沖縄方言までもすべて戦争でやられたのか) 島の人は苦笑したのだが 沖縄語は上手ですねと来たのだ」

 貘さんの詩は、共通語で書かれている。だが、ウチナーグチとそこに込められたウチナーンチュの肝心(チムグクル)をとても大切にしているのだろう。
 
 砲弾ですべてが破壊された故郷。「方言までやられたのか」という表現には、すっかり変わってしまった故郷への戸惑いとわびしさが感じられる。

 

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   高田渡が歌う「鮪と鰯」

「島からの風」

 

「そんなわけでいまとなっては 生きていることが不思議なのだと 島からの客はそう言って 戦争当時の身の上の話を結んだ ところで島はこのごろ そんなふうなのだときくと どんなふうもなにも 異民族の軍政下にある島なのだ 息を喘いでいることに変りはないのだが とにかく物資は島に溢れていて 贅沢品でも日常の必需品でも 輸入品でもないものはないのであって 花や林檎やうなぎまでが 飛行機を乗り廻し 空から来るのだと言う 客はそこでポケットに手を入れたのだが これはしかし沖縄の産だと たばこを一箱ぽんと寄越した」

 ここにも、異民族の支配下での沖縄の暮らしの様相が描かれている。

「基地日本」
 「ある国はいかにも 現実的だ 歯舞・色丹を日本に 返してもよいとは云うものの  つかんだその手はなかなか離さないのだ」
 
「ある国はまた もっと現実的なのだ 奄美大島を返しては来たのだが 要らなくなって返したまでのこと つかんだままの沖縄については プライス勧告(※)を仕掛けたりするなどが 現実的ではないとは云えないのだ 踏みにじられた 日本」
 
「あちらにもこちらにも 吹き出す吹出物 舶来の 基地それなのだ」
 
(※米軍基地の軍用地料を一括払いにして土地を接収するもの)

 

 沖縄だけでなく、吹き出物のような米軍基地が各地におかれた「基地日本」。要らなくなった奄美諸島は返しても、「つかんだままの沖縄」は絶対手放さない。そればかりか、軍用地料の一括払いで土地接収を企むアメリカに、異議の一つも言えない。「踏みにじられた日本」を鋭く風刺している。
 
 

 このブログで紹介した貘さんの詩は、戦争と原水爆、基地問題などなんか政治のテーマばかりになってしまった。これは、貘さんがこういう詩ばかり作っているということではないので、誤解のないように。貘さんの詩作のなかでは、大河のなかの一支流にすぎない。

  貘さんの詩は、難渋な言葉や観念の遊びのような表現とは無縁だ。平易な言葉で、なにか飄々としてユーモアがある。思わずニヤッと笑ってしまう。それでいて人生と社会の真実を深くすくいとっている。
「貧乏が人間を形態して僕になっている」と歌うように、貧しい日々の暮らしの現実にしっかり立ちながら、「地球の頂点」に立って眺めて、その時代と世相を風刺する。

  そんな作品群のなかで、戦争や原水爆にかかわる詩は、特異なものではなく、貘さんの詩作の重要な一分野を成していると思う。フォークシンガーの佐渡山豊、高田渡らが、その詩を歌にしているように、人々の共感を呼んだのだろう。沖縄県民だけでなく、民衆に愛され続ける詩人だと思う。

2013年9月16日 (月)

原水爆を食うバク

 

 原水爆をテーマとした詩

 

 山之口貘の詩集に『鮪に鰯』がある。1964年12月に刊行された。この詩集には、原爆、水爆をテーマにした詩作が数多くある。詩集の表題からして、それがテーマである。

 

 

「鮪に鰯」

 

「鮪の刺身を食いたくなったと 人間みたいなことを女房が言った」「死んでもよければ勝手に食えと ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ」
 
「亭主も女房も互いに鮪なのであって 地球の上はみんな鮪なのだ 鮪は原爆を憎み 水爆にはまた脅かされて 腹立ちまぎれに現代を生きているいのだ」

 

 1954年3月1日、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験で、日本の第五福竜丸をはじめ多数の漁船が死の灰を浴びるなど被災した。漁獲したマグロは放射能に汚染され、ガイガー計数器を当てると「ガーガー」と異常な音を響かせた。「マグロ汚染ショック」は日本中を騒がせた。季節風にのって放射能を含んだ雲は日本列島に到着し、放射能雨を降らせた。ビキニ事件は、国民の恐怖のどん底に突き落とした。

 貘さんにも計り知れない影響を与えたことだろう。

「死んでもよければ勝手に食え」「鮪は原爆を憎み…腹立ちまぎれに現代を生きている」。獏さんらしい表現で、心底からの憤りが込められているようだ。

 

「雲の下」

「ストロンチウムだ ちょっと待ったと ぼくは顔などしかめて言うのだが ストロンチウムがなんですかと 女房が睨み返して言うわけなのだ 時にはまたセシウムが光っているみたいで ちょっと待ったと 顔をしかめないではいられないのだが セシウムだってなんだって 食わずにはいられるもんですか 女房が腹を立ててみせるのだ かくして食欲は待ったなしなのか 女房に叱られては 眼をつむり カタカナまじりの現代を食っているのだ」

 

 ここにも、これまでなじみのなかった「カタカナ語」のストロンチウム、セシウムに脅かされる日々の暮らしが描かれている。汚染に食卓や健康がおびえかされる不安。だが、生きていくため、不安を感じながらも、完全に逃れることはできない現実がある。貧しい暮らしのなかで、「カタカナ語」が忍び寄っていても食べざるを得ない現実がある。

 これを読むと、60年近い前の事件というだけではなく、福島の原発災害による現実とも重なってくる。大地も海も地下水まで汚染された。震災から2年半たっても、福島はじめ関東首都圏からも多数の住民が避難を余儀なくされている。食料や住環境への不安もある。そのもとでも、人々は大地に根を張り、懸命に生きて働き、暮らしていかざるを得ない。「カタカナまじりの現代を食って」「腹たちまぎれに生きている」現実は今もあるからだ。
 
 

 

 「羊」

「食うや食わずの 荒れた生活をしているうちに 人相までも変って来たのだそうで ぼくの顔は原子爆弾か 水素爆弾みたいになったのかとおもうのだが」
 
「地球の上には  死んでも食いたくないものがあって それがぼくの顔みたいな 原子爆弾だの水素爆弾なのだ」。そんななかで、羊は「紙など食って やさしい眼をして 地球の上を生きているのだ」

 「死んでも食いたくない」原爆や水爆。貘さんが現代に生きていれば、そのなかにきっと「原発」も加えたのだろう。

 

 

「貘」という詩は、代表的な作品である。

「悪夢はバクに食わせろと むかしも云われているが 夢を食って生きている動物として バクの名は世界に有名なのだ」で始まる。

 「ところがその夜ぼくは夢を見た 飢えた大きなバクがのっそりあらわれて この世に悪夢があったとばかりに 原子爆弾をぺろっと食ってしまった 水素爆弾をぺろっと食ったかとおもうと ぱっと地球が明るくなったのだ」で終わる。

 ビキニ事件への不安と怒りがきっかけとなり、日本と世界で、「原水爆をなくせ」「核実験を禁止せよ」という原水爆禁止の声と運動が大きく巻き起こった。
 
 いま「悪夢」の最たるものと言えば原爆、水爆だった。「ぺろっと食べるバク」がいれば、すべての核兵器を食べてなくしてほしい、という貘さんの願いが込められている。なくせば地球と人類の未来が明るくなる。この願いは、21世紀の人類にとっても、切実な願望である。

 ユーチューブに、佐渡山豊、高田渡らが歌う「貘」がアップされていたので紹介する。

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「雲の上」

「たった一つの地球なのに いろいろな文明がひしめき合い 寄ってたかって血染めにしては つまらぬ灰などをふりまいているのだが 自然の意志に逆ってまでも 自滅を企てるのが文明なのか なにしろ数ある国なので もしも一つの地球に異議があるならば 国の数でもなくする仕組みの はだかみたいな普通の思想を発明し あめりかでもなければ それん(ソ連)でもない にっぽんでもなければどこでもなくて どこの国もが互に肌をすり寄せて 地球を抱いて生きるのだ」 

 かつての米ソ対立の冷戦時代、核兵器やミサイルの軍備拡張の競争により、地球破滅の瀬戸際を歩いていた愚かさを痛烈に風刺する。ソ連が崩壊し、米ソ対立が終わっても、地球上の戦火はやまない。新たな戦争、テロや民族紛争が続く。
 
「どこの国もが互に肌をすり寄せて 地球を抱いて生きるのだ」という「普通の思想」は実現しない。その思想は、いまだ人々の頭の中にしか存在しない。

2013年9月15日 (日)

アルテで「伊良部トーガニ」を歌う

 恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーの9月のテーマは「行」。今回は、エントリーが16組と少なかった。少し寂しい。とくに三線のエントリーは、私以外にはない。

 Img_3355


 糸数秀子さんのソプラノ「私のお父さん」で始まった。夫の剛さんがいつもギターで伴奏する。夫婦デュオとしてデビューしたそうだ。剛さんは「昴」を歌った。テノールで歌いあげ、喝さいを受けた。

 「伊良部トーガニ」は宮古民謡の名曲だ。想いを寄せる彼女が伊良部島にいて、宮古島から逢うために通って行く情景を歌っており、テーマに合うと思った。
 歌詞は、伊良部島は遠いので、島に渡る瀬があればいいのに、途中で休める瀬があればいいのに。夕方になり、愛しい彼女の家に忍び込むのに、開けると板戸の音が高いので、親に知られる。鳴らない戸、ムシロの戸を下げて待っててください。こんな歌意である。

Img_3360 歌い始めると、肝心の高音を伸ばすところで声が出ない。なんだこれは! 昼間練習した時は、「今日はかなれ声が出ているな」と思った。本番まで6時間ほどたち、声出しをしていなかったら、なんということか。
 一番を歌ったところで、「もう一度初めからやり直します」と出直した。それでも、あまり変わらない。なんとか歌いきったが、予想外の事態に慌てた。もう2年近くアルテに出ているのに初めてのことだ。そのうちもう一度、挑戦したい。

Img_3364_5 ギター演奏では、ベテランによるギターカルテット「ふぇーぬかじ(南風)」が、「ラ・クンパルシータ」など3曲演奏した。プロフェッショナルな演奏で聴きごたえがった。

 ツレは、新田君と組んで、「奇跡の地球(ホシ)」を歌った。桑田圭佑とミスターチルドレンが組んで歌った曲だ。声もよく出て、新田君とのハモリもよくあっていた。何回も練習した成果が出ていた。カッコいい演奏だった。Img_3375
 このところ恒例になった、あにたまきこと、南亭こったいの「アルテ寄席」。今回は、エントリーの演奏が終わったあとになった。「死神」を披露して、拍手喝さいを受けた。Img_3381
 この落語は、どうオチをつけるのかと思い聞いていたら、さすが有名な演目だけあって、面白かった。

 エントリーしたみなさん。ご苦労様でした。

2013年9月14日 (土)

山之口貘の詩碑を再訪する

山之口貘の詩碑が那覇市内の与儀公園にある。公演のど真ん中にある。すぐ近くでよく三線の練習をサークル仲間のおじいらとやった。貘さんの詩碑であることは知っていたが、詩集を読んだので改めて訪ねた。Img_3350 詩碑は40年近く前に建てられているが、見過ごす人も多いので、詩碑の案内標注が建てられている。
 詩碑が建立された経過と山之口貘の人と作品を紹介する案内板も碑の前に建てられた。

Img_3354 案内文は次のように紹介している。


 1975年7月、貘の13回忌に合わせ、山之口貘歌碑建立期成会(代表宮里栄輝)により建てられて詩碑。碑文には、1935年に発表された「座布団」が刻まれている。

 

 

 Img_3353


 山之口貘は、本名を山口重三郎といい、父重珍、母カマドの三男(四男三女の第五子)として1903年9月11日、那覇市東町(当時)に生まれた。沖縄県立第一中学校(首里高等学校の前身)在学中から新聞などに詩を投稿。その後、山城正忠、国吉真哲等とともに「琉球歌人連盟」の結成に参加し、この頃から「山之口貘」のペンネームを使用した。1925年2度目の上京を果たし、職を転々としながらも文学者佐藤春夫や金子光晴等の支援を受け詩を発表した。

 
 処女詩集『思辨の苑』(1938年)、『山之口貘詩集』(1940年)、太平洋戦争後には、『定本山之口貘詩集』(1958年)を発表した(第二回高村光太郎賞受賞)。1958年11月、34年振りに帰郷し、親族・友人等の歓迎を受け、2カ月近く滞在した。

 

 Img_3352
          詩碑には「座布団」が刻まれている

1963年7月19日、胃ガンのため死去、享年59歳。千葉県松戸市の八柱霊園に葬られた。死後4冊目の詩集『鮪に鰯』(1964年)が発表され、金子光晴はその本の中で、「貘さんは第一級の詩人でその詩は従って第一級の詩である」と称賛した。

 未発表作品を含む直筆元号約7500点余りは、遺族により沖縄県立図書館へ寄贈され、2010年11月「山之口貘文庫」として開設された。Img_3351


2013年9月13日 (金)

詩人・山之口貘の「紙の上」

山之口貘「紙の上」

 

 

 

 沖縄を代表する詩人、山之口貘(1903年9月11日―1963年7月19日)の生誕110年の今年、さまざまな企画がある。9月7日には、琉球新報社主催「貘さんありがとう」も催しがあった。

 

 すでに死後半世紀がたつ。「人々の心に生き続ける貘」「平易な言葉で地球を呼吸した詩人」(「琉球新報」10日付)と評され、愛されている。

 

 この催しでは、フォークシンガーの佐渡山豊が、貘の詩「紙の上」をギターを弾きながら歌った。これまで、ほとんど貘の詩を読んでいなかったので、改めてかれの全集の第1巻「詩集」を読んでみた。佐渡山が歌った「紙の上」を紹介する。

 

 

 紙の上

 

戦争が起きあがると

 

 飛び立つ鳥のやうに

 

 日の丸の翅(ハネ)をおしひろげそこからみんな飛び立つた

 

 

 

 一匹の詩人が紙の上にゐて
 
 群れ飛ぶ日の丸を見あげては

 

 だだ

 

 だだ と叫んでゐる

 

 発育不全の短い足 へこんだ腹 持ち上がらないでつかい頭

 

 さえづる兵器の群れをながめては

 

 だだ

 

 だだ と叫んでゐる

 

 だだ

 

 だだ と叫んでゐるが

 

 いつになつたら「戦争」が言へるのか

 

 不便な肉体

 

 どもる思想

 

 まるで砂漠にゐるやうだ

 

 インクに乾いたのどをかきむしり熱砂の上にすねかへる

 

 その一匹の大きな舌足らず

 

 だだ

 

 だだ と叫んでは

 

 飛び立つ兵器の群れをうちながめ

 

 群れ飛ぶ日の丸を見あげては

 

 だだ

 

 だだ と叫んでゐる。

 

 この詩は、1940年12月20日、刊行された『山之口詩集』の中の一篇である。日本が軍国一色に染め上げられ、戦争へこぞってなびいて行く時代である。「飛び立つ兵器の群れをうちながめ」ながら、「だだ、だだ」と叫び、あがらう詩人の精神が感じられる。

 

 佐渡山豊が旋律をつけた歌が、ユーチューブにあったので、アップしておきたい。

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2013年9月12日 (木)

チャーリーレストランでランチする

「チャーリーレストラン」の名前を聞いたのは、もう4年ほど前だった。民謡サークルで一緒のHおじいが言った。「親戚の新年の集まりは、チャーリーレストランでやったよ」「えっ、チャーリーってどこですか?」「あの玉城に行くところにあるだろう」。大雑把な説明だ。でも、湧水で名高い垣花樋川(カキノハナヒージャー)やニライカナイ橋方面に行く際、道路わきにかなれ大きなレストランがあるのを思い出した。それが「チャーリー」だった。名前から、アメリカっぽい。

Img_3328 急に行くことになったのは、フォークユニットの「F&Y」ライブに一緒に行ったOさんから「垣花樋川の近くにパイが美味しいレストランがあるのよ。米軍基地内で料理を作っていた人が、経営している店。私たちはアメリカーの味で育っているから、アメリカー味の料理を食べたくなるといつも行くのよ」とツレに話してくれたからだ。

Img_3330
 場所は、南城市玉城字親慶原(オヤケバラ)の交差点を過ぎて少し行くと県道86号線沿いにある。店内に入ると、すぐパイがたくさんなら並んでいる。アップルパイ、チェリーアップルパイ、ブルーベリーパイの三種類。

 なぜ、都市部でもない、米軍基地も今はないこの場所に大きなレストランがあるのだろうか。戦後、1946年から1949年ごろ、米軍政府がこの親慶原の地に移転してきて、沖縄民政府もこの付近に移転してきた。それで、親慶原のある知念半島は、戦後の一時期、沖縄の政治の中心だったそうだ。

 いまは近くに琉球ゴルフ倶楽部、ユインチホテルがある。3月には日本女子ゴルフ「ダイキンオーキッド」がここで開幕する。航空自衛隊知念分屯基地も近い。

 そんなことで少し興味もあった。チャーリーでアメリカー的な味といえば、やっぱりチャーリーステーキでしょう。迷わず注文した。Img_3338
 けっこうなボリュームだ。ソースはアメリカーといえばAIソース。ウチナーンチュはみんなこの味が好みだそうだ。でも食べ慣れてないナイチャーにとってはなじめない。Img_3335
 お手製のステーキソースをかけて食した。ただこれが、なんというか焼肉のタレそっくりの味。だから、ステーキを食べても、なんか焼肉を食べている感じになってしまう。良くも悪くも。牛肉は食べやすく切り込みを入れているが、肉質はそれほどジョートーとは思えない。でも、ペロッと食べてしまった。満腹感はいっぱい。Img_3337_2

 ツレはサンドウィッチにスープと軽めだった。スープも当然、アメリカー味だが、しょっぱいと半分も飲めなかった。

Img_3343 デザートはやっぱりパイを食べてみないことには、ここに来た甲斐がない。私はチェリーアップルパイ、ツレはアップルパイを食べたが、チェリーもたくさん入っていて、評判通りの美味しさだった。お土産にも買った。
 沖縄は、けっこうパイをよく売っているし、みんなよく食べる。これも、アメリカーの影響なのだろう。

 この日は、デイサービスのお年寄りがバスで大挙店に押し寄せていた。観光客の走る通りなので、そんな親子連れ客もいる。地元のおじい、おばばのグループもいる。

 なにしろ、アメリカー的料理だけではなく、沖縄料理もたくさんあり、メニューはバラエティーに富んでいる。幅広い年代層が来るようだ。ただし、誰かが言った。「いかにも昭和のレストラン。進化は止まっている感じだ」と。それはそれで、またファンがいるのだろう。

 

2013年9月 3日 (火)

ジョン万次郎の子孫、今永一成氏が講演

万次郎の子孫、今永一成氏講演

  9月29日沖縄ジョン万次郎会講演

 第8回沖縄ジョン万次郎会講演会が9月29日(日)午後4時から、豊見城市社会福祉協議会の2階ホールで開かれる。今回は、万次郎の玄孫(ヤシャゴ)にあたる今永一成氏が講演する。入場は無料。
 
 万次郎はアメリカから帰る時、現在の糸満市大渡浜海岸に上陸し、豊見城市翁長(オナガ)に半年間滞在した。沖縄ジョン万次郎会は、日本開国の先駆者である万次郎を後世に語り継ぎ、青少年育成に役立てることを目的に1991年に結成し、多彩な活動を続けてきた。今年で結成、22年となる。Img023

 2010年には万次郎ゆかりの地である翁長にジョン万次郎記念碑を建立した。2005年から毎年、講演会も開いてきた。

 第8回となる今年は、医学博士で福岡大学名誉教授の今永一成氏を招いて「ジョン万次郎から学ぶものー強い信念にもとづくパイオニア精神」と題して講演することになった。

 今永氏は、母方の祖母が万次郎の長男、中濱東一郎の長女で万次郎の初孫であり、今永氏は玄孫(ヤシャゴ)となる。
 
 万次郎会の会員ら関係者は、今永氏の講演に強い期待を寄せている。より多くの県民に万次郎のことをいっそう知ってもらおうと、広く参加を呼び掛けている。

 アトラクションとして、南亭こったいさんの落語「そば清」も予定されている。

 私も参加したいのはやまやまだが、ちょうど28,29日と山原方面に泊まりがけで出かける予定をしている。どうも参加が無理かもしれないので、事前に紹介しておきたい。

 

万次郎について、このブログで「沖縄で愛される中浜万次郎」ほかいくつかアップしてあるので、関心のある方は見たいただきたい。

2013年9月 2日 (月)

古波蔵馬場跡を訪ねる、その2

 古波蔵馬場は、幅10㍍前後、長さ200㍍ほどあったという。「勝負には宮古馬を使い、早足(足組す/デシクマスン)で競っていました」と書かれている。
 
 「早足(足組す)」とは、『那覇市史』によれば<競馬といっても馬をとばすのではなく『脚組す』といって早足(一方の脚は常に地につく走法)で勝負させた>と記されている(『消えた琉球競馬』から)。やはり、中間速で、走りの美しさを競ったようだ。

Img_3259

 明治45年(1912)に沖縄初の衆議院選挙で当選した2人の当選祝賀競馬が古波蔵馬場で行われたそうだ。1000人も見物客が押し寄せた。総勢100頭が出場したという。
 
 当時の「琉球新報」は、内地の競馬はアレという間に終わるが、本県の競馬は普通ダク(中間速)で乗る勝負であり、少しでも駆けさせたら先に行っても負けになる。「内地の競馬より本県の競馬の方が面白い」と解説している。

梅崎晴光さんは、この速さを競うのではなく、走りの美しさを競う世界でも類をみない琉球競馬を「非武の文化」と解釈されている。これは、琉球・沖縄の歴史と伝統、文化にも詳しい著者の見識だと思う。以上、梅崎晴光著『消えた琉球競馬』から紹介させていただいた。
 琉球王府の時代、腰に刀を差していた大和の武士と違い、琉球の士族は武器は持たず丸腰だった。床の間には刀ではなく三線を飾ったといわれる。走りの美を競う競馬を生み出した背景には、そんな「非武の文化」があるだろう。
 なお、このブログに「『武器を持たない国』琉球王国の実像」をアップしてあるので、関心のある方はそちらを見てください。

 

 
 

 

 琉球競馬は、戦前その姿を消して、いまはまったくない。古波蔵馬場跡を見て、当時のことをしのぶしかない。それにしても、この馬の像は実物大という。いま通常見る馬に比べると、在来馬はかなれ小柄だったようだ。

「ンマハラセー」は今年、沖縄市の「こどもの国」で2度にわたり再現された。その模様はテレビで見た。一度、実際のンマハラセーを見てみたいものだ。

「ユーチューブ」に動画がアップされていたので、それを紹介する。

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2013年9月 1日 (日)

古波蔵馬場跡を訪ねる、その1

古波蔵馬場跡

 

わが家からも近い市内城岳小学校の前に、かつて「古波蔵馬場」があったという。この通りはもう何百回も通っているが、馬場跡だというのは知らなかった。前にブログで紹介した「琉球競馬(ンマハラセー)」のことを書いた梅崎春光著『消えた琉球競馬』を読んでいると、「古波蔵馬場」が紹介されていたので、見に行った。Img_3256

ここは、那覇市内でも有数のガジュマルの見事な大木がある。その前に馬の塑像がある。前からこの馬の像は見ていたが、その意味がやっとわかった。馬の足元に「古波蔵馬場(クハングヮンマウィー)」の説明板があった。次のように紹介している。

「この地は、かつて古波蔵馬場と呼ばれ、古波蔵村が近隣の国場村や与儀村と馬摸合を組織して月に一度、馬勝負(ンマスーブ)をしていた場所です。勝った馬は、島尻郡の大会や那覇の潟原(カタバル、干潟のこと)で年に一回行われた全県大会に出場していました。

 馬場(ンマウィー)は幅10㍍前後、長さ200㍍ほどで、両側には大人3人でもかかえきれないほど大きな松の並木があり、壮観だったそうです。勝負には宮古馬を使い、早足(足組す/デシクマスン)で競っていました。この馬のオブジェは、当時の写真を元に実物大で造られています。 

Img_3254

 また、歩道の大きなガジュマルは、この場所で数十年という長い年月にわたって地域の人達に愛され育てられてきたものなので、那覇市の景観資源として保全されています」

 馬摸合とは、はじめて聞く言葉だ。「摸合(モアイ)」は、大和でいえば「頼母子講」

のこと。何人かで毎月集まり、お金を出し合い、順番に取っていく相互扶助の組織。いまも沖縄では摸合が盛んだ。同級生や職場、地域、出身郷里、共通の趣味などの単位で行い、一人で4,5つの摸合に加わる人もいる。

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    古波蔵馬場跡は松並木もあり、「城岳馬場通り」と呼ばれている

 馬摸合は「月何回か定められた日に必ず馬に乗って馬場に集まり、調教を行う。その後料亭などに場所を移して摸合へ。集まった金は新たに競走馬を購入した馬主が優先的に受け取る決まり」だったという(『消えた琉球競馬』)。

 「馬勝負」とは、文字通り馬の競争だ。ただし、沖縄の競馬は、大和のようにスピードを競うのではない。小柄な沖縄在来馬が足並みの美しさを競った。馬具に華麗な装飾を施し、それも加点の対象だった。世界でも類を見ない美技を競う独自のスタイルだった。琉球王朝の時代から戦前まで300年にわたり、受け継がれていた。馬場の数は県内で150を超えていた。『消えた琉球競馬』に詳しく書かれている。

 

 

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