原水爆を食うバク
原水爆をテーマとした詩
山之口貘の詩集に『鮪に鰯』がある。1964年12月に刊行された。この詩集には、原爆、水爆をテーマにした詩作が数多くある。詩集の表題からして、それがテーマである。
「鮪に鰯」
「鮪の刺身を食いたくなったと 人間みたいなことを女房が言った」「死んでもよければ勝手に食えと ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ」
「亭主も女房も互いに鮪なのであって 地球の上はみんな鮪なのだ 鮪は原爆を憎み 水爆にはまた脅かされて 腹立ちまぎれに現代を生きているいのだ」
1954年3月1日、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験で、日本の第五福竜丸をはじめ多数の漁船が死の灰を浴びるなど被災した。漁獲したマグロは放射能に汚染され、ガイガー計数器を当てると「ガーガー」と異常な音を響かせた。「マグロ汚染ショック」は日本中を騒がせた。季節風にのって放射能を含んだ雲は日本列島に到着し、放射能雨を降らせた。ビキニ事件は、国民の恐怖のどん底に突き落とした。
貘さんにも計り知れない影響を与えたことだろう。
「死んでもよければ勝手に食え」「鮪は原爆を憎み…腹立ちまぎれに現代を生きている」。獏さんらしい表現で、心底からの憤りが込められているようだ。
「雲の下」
「ストロンチウムだ ちょっと待ったと ぼくは顔などしかめて言うのだが ストロンチウムがなんですかと 女房が睨み返して言うわけなのだ 時にはまたセシウムが光っているみたいで ちょっと待ったと 顔をしかめないではいられないのだが セシウムだってなんだって 食わずにはいられるもんですか 女房が腹を立ててみせるのだ かくして食欲は待ったなしなのか 女房に叱られては 眼をつむり カタカナまじりの現代を食っているのだ」
ここにも、これまでなじみのなかった「カタカナ語」のストロンチウム、セシウムに脅かされる日々の暮らしが描かれている。汚染に食卓や健康がおびえかされる不安。だが、生きていくため、不安を感じながらも、完全に逃れることはできない現実がある。貧しい暮らしのなかで、「カタカナ語」が忍び寄っていても食べざるを得ない現実がある。
これを読むと、60年近い前の事件というだけではなく、福島の原発災害による現実とも重なってくる。大地も海も地下水まで汚染された。震災から2年半たっても、福島はじめ関東首都圏からも多数の住民が避難を余儀なくされている。食料や住環境への不安もある。そのもとでも、人々は大地に根を張り、懸命に生きて働き、暮らしていかざるを得ない。「カタカナまじりの現代を食って」「腹たちまぎれに生きている」現実は今もあるからだ。
「羊」
「食うや食わずの 荒れた生活をしているうちに 人相までも変って来たのだそうで ぼくの顔は原子爆弾か 水素爆弾みたいになったのかとおもうのだが」
「地球の上には 死んでも食いたくないものがあって それがぼくの顔みたいな 原子爆弾だの水素爆弾なのだ」。そんななかで、羊は「紙など食って やさしい眼をして 地球の上を生きているのだ」
「死んでも食いたくない」原爆や水爆。貘さんが現代に生きていれば、そのなかにきっと「原発」も加えたのだろう。
「貘」という詩は、代表的な作品である。
「悪夢はバクに食わせろと むかしも云われているが 夢を食って生きている動物として バクの名は世界に有名なのだ」で始まる。
「ところがその夜ぼくは夢を見た 飢えた大きなバクがのっそりあらわれて この世に悪夢があったとばかりに 原子爆弾をぺろっと食ってしまった 水素爆弾をぺろっと食ったかとおもうと ぱっと地球が明るくなったのだ」で終わる。
ビキニ事件への不安と怒りがきっかけとなり、日本と世界で、「原水爆をなくせ」「核実験を禁止せよ」という原水爆禁止の声と運動が大きく巻き起こった。
いま「悪夢」の最たるものと言えば原爆、水爆だった。「ぺろっと食べるバク」がいれば、すべての核兵器を食べてなくしてほしい、という貘さんの願いが込められている。なくせば地球と人類の未来が明るくなる。この願いは、21世紀の人類にとっても、切実な願望である。
ユーチューブに、佐渡山豊、高田渡らが歌う「貘」がアップされていたので紹介する。
「雲の上」
「たった一つの地球なのに いろいろな文明がひしめき合い 寄ってたかって血染めにしては つまらぬ灰などをふりまいているのだが 自然の意志に逆ってまでも 自滅を企てるのが文明なのか なにしろ数ある国なので もしも一つの地球に異議があるならば 国の数でもなくする仕組みの はだかみたいな普通の思想を発明し あめりかでもなければ それん(ソ連)でもない にっぽんでもなければどこでもなくて どこの国もが互に肌をすり寄せて 地球を抱いて生きるのだ」
かつての米ソ対立の冷戦時代、核兵器やミサイルの軍備拡張の競争により、地球破滅の瀬戸際を歩いていた愚かさを痛烈に風刺する。ソ連が崩壊し、米ソ対立が終わっても、地球上の戦火はやまない。新たな戦争、テロや民族紛争が続く。
「どこの国もが互に肌をすり寄せて 地球を抱いて生きるのだ」という「普通の思想」は実現しない。その思想は、いまだ人々の頭の中にしか存在しない。
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