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2013年10月

2013年10月31日 (木)

秋は野球が面白い

 この秋は、野球が面白い。一つは、高校野球の秋季九州大会。来春の甲子園での選抜大会の出場がかかるこの大会。今年は沖縄で開かれた。なんと、沖縄の沖縄尚学と美里工業が勝ち抜いて、10月31日、初めて沖縄県勢で決勝をたたかった。この2チームは、県大会の決勝でたたかい、このときは美里工が勝利していた。

 九州大会では、強豪高校を倒して決勝まで両チームが残ったのは、沖縄県勢のレベルの高さを示している。決勝は、沖尚が美里を4対3で下して優勝し、明治神宮大会に出場する。決勝戦は逆転に次ぐ逆転で、両者の力量が拮抗していることを示した。

 来春も大いに期待ができるのではないか。

 

 次はアメリカのワールドシリーズ。レッドソックスとカージナルスの対戦だ。これまであまりワールドシリーズは見たことがなかった。でもお昼時にいつも終盤面白いところをやっていて、レッドソックスの田沢、上原の日本人コンビが中継ぎ、抑えで大活躍していることに刺激され、何回か見た。

 改めて思ったのは、上原の投球の見事さだ。球種は少ないが、ストレートのキレがすごい。玉が伸び上がるようだ。球速表示より早く感じるだろう。しかも、コーナーにビシッと決まる。スプリットの曲がりが鋭く、ストライクからボールになるように決まるので、恐らくバッターは、球が消えるように感じるのではないか。なにより、三球三振とか、玉数少なくどんどん追い込み、打ち取る。胸のすくような投球だ。同じ抑えでも、ヨタヨタするのとは大違い。「コージコール」が沸き起こるのもわかる。

 これまで大リーグに来ても、故障に泣かされたり、かつてレンジャーズ時代は、ワールドシリーズのメンバーから外されるなど、屈辱も味わった。だから、4勝2敗でカージナルスに勝利した時の爆発するような喜びの表情は、感動的だった。

 田沢は中継ぎというより、8回あたりの大ピンチのワンポイントの抑えとしてしばしば登板して活躍したのは立派だ。

 ワールドシリーズの見て、初めてわかったことがある。レッドソックスのヒゲモジャ選手の多さだ。数えきれないが、ラジオで聞いたところでは、12人いるらしい。なぜ、レッドソックスにヒゲが多いのか。それは、アメリカンリーグのライバル、ヤンキースが紳士的でヒゲはご法度。それならレッドソックスは逆に大いにヒゲを伸ばそう、ということからだとか。ホントかどうかはわからない。さもありなんというところだ。

 

 最後に、日本シリーズ。楽天が3勝して巨人に大手をかけた。星野監督はあまり好きではない。選手をボロくそにけなすからだ。でも最近はあまりけなす言葉を聞かない。少し変わってきたのだろうか。それに、楽天は、沖縄の久米島でキャンプをする。久米島の人たちはこぞって応援する。巨人は2次キャンプを那覇市で行っている。229

             楽天がキャンプをする久米島野球場

 シリーズでは、巨人優勢の下馬評を覆した。その要因に、巨人打線を封じるピッチングができていることだ。星野は「攻めろ。逃げたら打たれるぞ」という指示をした。島捕手も攻めのリードをし、投手もそれに応えて巨人打線に臆せず攻めていることが、功を奏しているようだ。投手陣が田中、則本の後が弱いと見られていたが、実際は違った。美馬、辛島とも実に立派な投球をした。それに、選手起用も、則本に見られるように、短期決戦のシリーズに相応しい使い方をしている。巨人の原監督は、第5戦でも、楽天に2点リードされ、6回にランナーが出て、投手の内海に打順が回ってきて、本来ならピンチヒッターだろう。だが、そのまま打たせて凡打に終わった。7回には内海を変えた。変えるなら、なぜその前に打席に送ったのか。この試合に負ければ、実質シリーズは終わるという覚悟の采配ではない。

 そんな監督の采配の違いも、勝敗に出ているのではないか。
 大震災の被害を受けた東北の人たちの期待を一身に受け、希望の灯をともす存在となっているのが、今年の楽天の活躍だ。

 楽天は、2005年に近鉄・オリックスの統合で、捨てられた選手で作ったチームだ。エースの岩隈らは、あえて理不尽な選手切り捨てに抗議の思いを込めて、勝ち馬に乗らないで、弱小楽天に入った。とても男気のある選択に感銘を受けたことを思い出す。

 第6戦は、仙台に帰る。絶対的なエース田中が登板すれば、優勝の確率は相当に高くなる。創立9年目で日本一になれば、素晴らしい快挙となる。久米島からも応援が行くのではないか。

 そんなこんなで、野球のだいご味が味わえる秋である。

追記

 第6戦では不敗のエース・田中がついに敗れた。巨人が楽天に4対2で勝利し、三勝三敗で巨人が逆王手をかけた。まあ、ヒット数が巨人12本にたいし楽天3本と点数以上にその差は大きい。さほど調子がよいと思えない菅野投手を打てなさすぎた。

 まあ予想通りになったのでは面白くない。最後まで何が起きるのかわからないところに、野球の醍醐味があるだろう。

追記

 ついに楽天が球団創立9年目に日本一になった。プロ野球史上に残る快挙である。

 6戦目に不敗のエース田中が4点を奪われ、敗れた。巨人にシリーズの流れが行きそうになったが、美馬ー則本ー田中のリレーで見事、巨人を完封して勝利した。
 とくに、美馬の投球が光った。楽天の優勝の要因には、投手陣の頑張り=島捕手のリードを含めて=があるだろう。とくに、3番手の投手、巨人の杉内が2回の途中で打たれて降板したのと対照的に、楽天の3番手、美馬は、CSや日本シリーズを含めて1点も取られていないという快投だった。この3番手の差はそのままシリーズを左右したとも言えるだろう。

 もちろん田中が、第6戦で160球を投げながら、7戦目もベンチ入りを志望し、9回には登板までする。その闘魂とでもいうのか、その姿はチームもファンも鼓舞した。田中が登板した9回表の、球場は異様な雰囲気、盛り上がりだった。

 高校野球では、優勝旗は白河の関を越えて、東北に行ったことがない。プロ野球では、東北初の球団が優勝を手にしたことは、宮城をはじめ東北全体、被災者に勇気と希望を与えるものだ。
 もちろん、沖縄のキャンプ地、久米島の人々もわがことのように喜んでいるだろう。

2013年10月30日 (水)

伊能忠敬より早かった琉球国の測量、その2

「間切島針図」を完成させる

琉球の測量術が飛躍的な発達をとげた背景に何があったのだろうか。
 
まず思い浮かぶ人物が、1719年に冊封(サッポウ)使節の徐葆光(ジョホコウ)と一緒に来琉した中国の測量官・平安だ。平安はこれまで、琉球の緯度・経度を測量したことしか知られていなかった。

 ところが、平安は、琉球に来る2年前に、康熙帝(コウキテイ)の命令でフランス人測量師と一緒に中国全土を測量して「皇輿全覧図(コウヨゼンランズ)」という近代地図を作製した測量官だったことが判明した。

 平安は、月食観測で緯度・経度を測量するために、琉球で1719年7月15日(旧暦)の未明に月食が起きることを予測して琉球に来たのであった。

 その翌月には、首里王府が、平安らの天文観測の詳細や道具の仕掛けについて調査するよう久米村方(中国から渡来した人々が住む。技術や外交など技能を持っていた)に命じている。
 
 つまり、平安から最先端の測量技術を入手するよう担当役人に指示していたのだ。
 

 これを指揮していたのが、福州で風水地理を学んだ蔡温(サイオン)だったと思われる。蔡温は、平安の来琉から16年後の羽地大川の改修工事で針竿測量を初めて実施し、そして2年後の1737年から始まった乾隆検地では、沖縄諸島に設置した約1万基の

印部石ネットワークによる測量を実施したのである。

 そして現在の市町村の基本図に相当する高精度の「間切島針図(マギリシマハリズ)」が完成した。

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               伊能忠敬の日本図

 「間切島針図」を1枚にまとまると「琉球国之図」ができあがるが、実際に「琉球国之図」が作製されたのは46年後の1796年であった。

 作製したのは、琉球の測量指南書である『量地方式集』を著した測量家の高原筑登之親雲上(タカバルチクドゥンペーチン)だった。

                           

 

 これを見ると、基本図が出来上がってから、琉球の全体図が作製されるまで半世紀近くがたっている。ということは、高原筑登之親雲上は、最初の測量にはたずさわっていないということなのか。その点は、全国を測量して回り、日本図を作製を行った伊能忠敬とは違いがある。ただ、伊能も完成は見ずに亡くなり、弟子と幕府天文方の役人が仕上げた。

2013年10月29日 (火)

伊能忠敬より早い琉球国の測量、その1

伊能忠敬より早い琉球国の測量

                           

 

 最先端のフランス流の測量術で

日本全土の測量を行ったことで有名なのは伊能忠敬だ。だが、伊能の日本図が完成した1821年より25年も前、1796年に琉球国では、沖縄島と周辺離島を測量して「琉球国之図」を完成させていたというから驚く。

 原寸大複製と拡大図が那覇市の県立武道館で11月6日から展示される。それを前に「琉球新報」10月21,22日付で、沖縄県立博物館・美術館長の安里進氏の「『琉球国之図』を読む、最先端をいく琉球の測量術」が掲載された。琉球王府の時代に、伊能より早く優れた測量術があり、地図を完成していたことは聞いていたが、改めて詳細を知ることができた。この論文と展示会案内の記事から、紹介しておきたい。

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伊能が1800年に全国測量を開始する63年前、1737年に「琉球国之図」の測量事業(乾隆検地)が着手された。王府の役人が測量担当チームを組み、大勢の住民を動員して、1750年までに、今の市町村基本図に相当する「間切島針図(マギリシマハリズ)」を作製した。

1796年には、琉球の測量指南書である『量地方式集』を著した測量家の高原筑登之親雲上(タカバルチクドゥンペーチン)が、各「間切島針図」を縮小接合して、1枚の「琉球国之図」に仕上げた。

伊能をはじめ日本の測量術はオランダ流だったのに対し、琉球の乾隆検地はフランス流だった。これは、「針竿(ハリサオ)測量」と呼ばれるもので、「針」(羅針盤)を用いた測量だが、大量に設置した印部石(シルビイシ、測量図根点)のネットワークを骨格にして測量したところに特徴がある。近代測量の三角網による測量と同じ原理だ。

 フランスでは、1733年から測量が実行されたが、琉球でもほぼ同じ時期(1737~1750年)の乾隆検地から実施していた。これが日本に導入されたのは、明治以後だった。

 では、どうして琉球で三角網による針竿測量をフランスと同時期に国土測量に応用できたのだろうか。30年前の18世紀初頭まで、琉球の測量術は十字法という低レベルの測量術だった。この間、何があって、琉球の測量術は飛躍的な発達をとげたのだろうか。

 

2013年10月28日 (月)

放浪の唄者・里国隆

 奄美諸島と沖縄を放浪した盲目の唄者・里国隆(サトクニタカ)さんのことを知ったのは、「琉球新報」2013年10月4日付けの小浜司さんの書く「島唄を歩く」だった。

 路頭で竪琴を鳴らして歌い、樟脳(ナフタリン)を売る。奄美大島の笠利町の生まれである。生後8カ月で失明し、うた、三線を習いお覚えた。12歳の頃、本土から来た物売り行商の老人が竪琴を弾きながら樟脳を売るのを見て、ついて行き、竪琴の弾き方、作り方を学んだという。Photo

 17歳で奄美諸島から沖縄へと行商と漂泊の旅を始めた。戦後は、1947年に沖縄に渡り、以後17年にわたり沖縄の島々、土地を放浪したそうだ。

 昼間は、カンカラを前に竪琴を弾き、夜は盛り場を流した。津軽三味線の高橋竹山を想起させる。

 記事に写真が掲載されている。竪琴と言えば、かつての映画「ビルマの竪琴」を思い出す。でもそんな小さな琴ではない。普通、床に置いて奏でるお琴そのもの。これを縦に立てて抱えて弾いている。「ええっ、これで琴が弾けるのか!」と驚く。どうにも想像を超える。

 実際の演奏を見てみたい。そうなれば、「ユーチューブ」で検索するしかない。検索すると、里国隆の映像のない音源を聴くことができた。でもそれは、どうみても、竪琴ではなく三線の音色だった。三線も上手だ。

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別の動画を探すと、里国隆の後継者の映像があった。国隆の竪琴の音色に魅入られ、今では、制作、販売、演奏もしている盛島貴男さんである。竪琴は、通常のお琴よりは少し短い。だが、それを左手で抱え,膝の上に置いて、右手で弦をかき鳴らす。左手で弦を押さえる弾き方ではない。琴を抱えた左手は、指が空いているので、沖縄の三板(サンバ)か、カスタネットのような打楽器を持って、それでリズムを打ち鳴らしている。

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 これでやっと、竪琴の演奏の様子がわかった。

 「哭き唄」と評された、国隆の唄は、独特の魅力がある。通常の奄美の島唄とはちょっと異なる。魂の叫びのようだ。

 奄美の音楽は、沖縄とはまた違った色合いと魅力がある。

2013年10月26日 (土)

台風去って、産業まつり

県産品を一堂に集めた第37回沖縄の産業まつりが奥武山公園で開かれた。台風27号は本島を外れたけれど、10月25日金曜日の開幕を中止し、26日土曜日の開幕となった。Img_3804 


 秋晴れのもと、たくさんの人たちが詰めかけていた。毎年恒例の物産が多いけれど、沖縄の特産品を使った新しい商品も目につく。
Img_3805 県産品で今回目立ったものの一つがお茶などの飲み物。とくに薬草系の飲み物などが実に多彩である。Img_3806 緑茶から始まって、さんぴん茶(ジャスミン茶)、グァバ茶、うっちん茶、くみすくちん茶、クワンソウ、ルイボス茶、モリンガ茶、ヨモギ茶、ゴーヤー茶などなど。

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 なかには、意味不明の看板もあった。ノニは、健康によい飲み物だというが、試飲しても、なんとマズイことか。口直しがほしくなる。でも「ヤギなノニ」ってなんだろう。Img_3809

 不思議のついでに、「眠りの駅」なるブースがあった。「眠りについてなんかお悩みはありますか」とかいって、相談にのってくれる。Img_3811 要するに、安眠用具としての枕や高反発マットレスなどの販売をしているのだ。

 こちらは、昔懐かしい石原裕次郎、小林明など映画スターの看板が並んでいる。手書き看板で知られる豊見城市高安の「大星広告」のブースである。よく通る道沿いに店がある。産業まつりの出店は初めてではないだろうか。

Img_3813 変なものついでに、ハンバーガーをくわえたジョーズ。何を売っているのかよくわからない。Img_3815
 楽器のブースもあった。ギターと三線である。三線屋はいつも出店するが、ギターは珍しいかも。Img_3810
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 まつりで買ったものは、これまでの店とは関係ない。市町村の産物が集まる「ありんくりん市」が、多様な食べ物などあって面白い。Img_3814 本部町の「誠もち店」で、なぜか美味しそうな手羽先の照り焼きを売っていた。「誠もち店」はスーパーにも出していて有名だが、ここでしか売っていない多彩なアンコが入って焼いたモチと手羽先を買った。読谷の店では、カマンベールチーズの入った天ぷらを買い、オリオンビールの工場直送ビールの販売テントで、ノンアルコールビールを飲みながら、美味しくいただいた。

 毎年来ていても、新たな県産品が作られていて、発見がある。楽しさがある。今年は「うまんちゅのこころをつなぐ県産品」がスローガンだった。

 大勢の人たちが集まる中で、三線サークルの仲間の女性から声をかけられ、アルテに集う音楽仲間を見かけて声をかけたり、出会いもある産業まつりだった。

 

  



2013年10月25日 (金)

声楽による「トゥパラーマ」を聴く

 アルテに集う音楽仲間である糸数剛、秀子夫妻が参加する声楽同好会の発表会がパレット市民劇場で開かれて聴きに行った。

 素人を自称する声楽好きが、毎月2回、アルテ・ホールに集まり、安冨祖貴子先生のピアノ伴奏にのせて独唱を楽しんでいるという。多くは定年後世代のようだ。発表会は3回目になる。

Img_3783 糸数秀子さんの「サルビア」でスタートした。今回の聴きものは、糸数剛さんが歌う八重山の名曲「トゥパラーマ」である。

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 ピアノ伴奏用に特別に編曲してもらったそうだ。オペラ歌手による「トゥパラーマ」である。民謡とは歌い方が異なるが、のびやかなテノールを場内に響き渡らせた。民謡とはまた違う、味わいと魅力があった。

 秀子さんの囃子も、とても高音が美しく出ていて、息も合っていた。

 ハプニングが起きた。2番が終わったところで、ピアノも終わる仕草が見えたので、みんないっせいに拍手した。糸数さんは、まだまだの合図をする。そのあと3番を歌いきった。
糸数さんも初めての挑戦だったそうだ。糸数さんは糸満の古くから歌われている「ハーレー歌」のコンテストにも出て優勝した実績がある。オペラから民謡、演歌まで歌いこなす。さすがである。

 2部で歌われた曲で、ちょっと注目したのは「君と旅立とう」。伴奏が始まってから「おや、なんか聴いたことがある」と思った。歌い始めると、すぐわかった。「これはtime to say goodbyeじゃないか」と思った。サラ・ブライトマンとアンドレア・ボッチェリが歌い世界的に大ヒットした。

 後で調べてみると、イタリアの作曲家フランチェスコ・サルトーリが作曲し、イタリアの題名は「con te partiro」で「君と旅立とう」という意味。曲は同じで、題名が異なるだけだった。

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 糸数さんは2部ではオペラ「ボエーム」から「冷たき手」を歌った。糸数さんと双璧といえるのが、2部で最後に歌った花井玲子さんの「白銀の月よ」(オペラ「ルサルカ」から)。女性にしては声が低いが、この名曲を見事に表現して、「ブラボー」の声がひときわ高かった。

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 9人がそれぞれ、1部、2部と異なる歌を披露した。歌のレベルはバラツキがあり、中には歌詞が途切れて、もう一度やり直す人もいた。

 でも、みんな音楽を愛し、とくに声楽を愛し、日ごろの練習の成果を精一杯表現しようとしている姿はすがすがしい。

 Img_3803 1部、2部の最後には「えんどうの花」「カロ ミオ ベン」をみんなで歌った。楽しいコンサートだった。
 

 発表会に誘ってくれた糸数さんに、ツレは花束を贈った。

 

カツオ漁の町・本部町、その3

鰹節製造にかかわった高知人

 私の個人的な関心で、驚いたのはカツオ節の製造に高知人がかかわっていることだ。『本部町史』は次のようにのべている。

 漁獲場と鰹節製造場所の距離の遠近は原料の鮮度に、鮮度の良否は製品の品質に重大な影響を与える。幸い本部村の鰹漁船の漁場は遠くても伊平屋島、与論島付近で、近いところは恩納から伊江島付近であり、原料としては申し分がなかった。

 原料の鮮度が高いにもかかわらず、製品技術の拙劣、製造人の不足、製造設備の不完全、資本の欠乏などが指摘されていた。Photo_4

         カツオを持つ女性(画・屋嘉比尚武氏、『本部町史』から) 


             

 本部の鰹節は産出区域が狭小であるにもかかわらず、明治43年(1910年)ごろまでは製品の形状が揃わなかった。製品の評価を高め、販路を広げる上から形状を斉一にすることが必要であった。

 その点を改善するため明治43年9月ごろ、高知県から製造技術者を招いて煮熟時の選択、器具の改善などが行われた。

鰹節の品質の向上を図るとともに、沖縄産鰹節の銘柄化の確立を目的として、先進地の高知県から製造教師を八名雇入れ、本部村にも武田俵太郎が派遣された。慶良間島に派遣された田中峰次郎とともに武田は最良の成績の評価を得ている。このことについて木村八十八は、

 元来大阪市中に於ける節の価格中最も貴重なるは土佐節にして薩摩節是に次ぐ、而して日向節は土佐節の劣等なるものなり故に本県鰹節の改良を唱へんか土佐節による最も捷径(ショウケイ、目的を達する早道)なりとす。依て左の方法により鰹節製造教師を雇入れ県下に産出する節の改良に従事す。

1、鰹節製造家にして熟練なる者を高知県土佐国より雇入れたる。

2、鰹釣教師と同様の個所に配布し殆んど本県下全部より産出せらるる鰹節は一時に土佐型に改良せんとす。

(沖縄県水産一班・木村八十八、大正元年11月 行政史17巻)と述べている。

 明治43年から製造手とともにカツオ釣技術の向上を図るため、宮崎県から8人の漁撈手を雇入れた。
 
 漁撈手の派遣については、少なくとも大正10年まで、製造手については大正14年まで、毎年実施されてきたようである。

 大正10年にもなると、製造手については、高知県人のみではなく、沖縄県人の名もみられる。

 

沖縄の本部町と高知は、遠く離れていて、これまであまり縁があるとは思わなかった。ただ、カツオ漁が盛んなことでは、共通点があると思っていた。今回、本部のカツオ漁の歴史を学び、直接、カツオ節の製造で、高知人が技術の指導にきていたことは初めて知った。これも黒潮が結ぶ縁というのだろう。

 

 

2013年10月24日 (木)

カツオ漁の町・本部町、その2

 


本部町では、
大正3年(1914)ごろから再びカツオ漁業が盛んになり、大正6年には最高潮に達した。カツオ漁船数が明治44年に17隻まで減少していたが、大正5年34隻に漸増して、同6年にはこれまで最高の36隻に増加した。

 もっとも、一般庶民には、カツオの頭や、身をおろしたあとの中骨がせいぜいの馳走で、腹肉(ハラゴウ)は高級品、カツオ節など手が届くものではなかった。成型の際にでる削りがら(ヒジガラー)もなかなか買えなかったようだ。

 明治44年ごろの本部・渡久地(トグチ)あたりの漁村の風情がしのばれる記録がある。「鰹の本場なる当地昨今の忙しさは、実に目が廻る程なり。農作物の不作や砂糖の不景気に反し鰹の収穫の驚くべき程なり」(明治・大正新聞集成―本部町史資料編1)

 水産技師だった木村八十八氏が県内の漁村を回った報告によると、本部町は国頭村で最も漁業が盛んなところで、専業者も多かったけれど、その中には漁業が発達していた糸満から移住した者が多かったそうである。

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          カツオ漁船(『本部町史』から)

カツオはいま、マグロなどに比べると値段が安く、買い求めやすい大衆魚として食べられている。カツオ節は、沖縄では出汁用に、とてもたくさん使われる。市場に行けば、いまもカツオ節専門店があり、繁盛している。でも、明治後期ころには、庶民にとって腹肉やカツオ節は手が届かなかったとは、隔世の感がある。

 沖縄は昭和初期の恐慌で「そてつ地獄」といわれるように、県経済はどん底に陥れられた。そんななかで、本部のカツオ漁業は大正13年をピークに昭和戦前期に激減した。鰹節の単価も大正12年kg当たり2・80円をピークに昭和13年には同0・85円と3分の1以下の激安となっていった。

 県経済の不況及び県内カツオ漁業の不振から、シンガポール、フィリピン、特に当時は我が国の委任統治領であった内南洋諸島への出稼ぎカツオ漁業へ、県民の多くが進出していった。本部からも多くの人が南洋漁業へ進出した。

 沖縄戦の前触れともなった昭和19年10月10日の空襲の前後、本部では鰹節製造が盛んだった。日本軍の各部隊が連日、鰹節を受け取りきて供出に応じたので、民間に売り出す余裕はほとんどなかったという。

 当時、本部に何隻の鰹船があったか不明であるが、そのほとんど全部が、時折偵察に襲来したコンソリデッドB24や潜水艦、または10・10空襲に現れたグラマンやカーチスに銃撃され、破壊され、沈没した。

10・10空襲のさい、魚を船に積んで渡久地港に帰る途中、グラマンの猛爆撃に見舞われ、乗組員2人死亡し、重傷を負った人もいる。別の鰹船で命を失った人もいる。多くの漁師が傷を負い、命を落としたという。10・10空襲では、渡久地港の港湾施設など空襲を受けた。

2013年10月23日 (水)

カツオ漁業の町・本部町、その1

カツオ漁業の町・本部町

沖縄のカツオ漁といえば、北部の本部(モトブ)町が有名である。漁業が盛んな本部だが、なかでも沖縄本島唯一のカツオ漁の町として発展してきた。「町の魚がカツオ」。カツオの初水揚げにあわせて、「鯉のぼり」ならぬ「カツオのぼり」が町の渡久地(トグチ)港の大空を泳ぐ。

『本部町史 通史編』を読んでいると、カツオ漁の歴史が書かれていた。興味があったので、ここからかいつまんで紹介する。

 明治10年以降、沖縄の海域では鹿児島県(18年が最初)や宮崎県人が慶良間諸島を基地として、断続的にカツオ漁業を行っていた。それを見習い、手伝ったりして、漁業技術の習得及び経営への関心が高まっていった。Photo         カツオ漁が盛んな本部・渡久地(トグチ)港(『本部町史』から)

 座間味(ザマミ)村有志が難破漂着した船を買い求め、カツオ漁業を始めたのは明治34年(1901)のことで、それが沖縄県におけるカツオ漁業の始まりであった。

 本部町におけるカツオ漁業の始まりについては、沖縄県の水産技師だった木村八十八氏が次のように述べている。

 本部町においては明治36、7年のころ、宮崎県より入漁したのを始めとし、その入漁者のために莫大な漁利をあげていることから、時の郡長・喜入休氏、警察署長・川辺政行氏は盛んに奨励したけれど、村民の感触痴鈍にして容易に発達せず、明治37年村吏員及び有志者の出資により1隻を求め漁業に着手したけれども、釣獲法の技術拙劣なるにより一時失敗に帰したため一旦挫折した。明治40年において宮崎県よりの入漁者その他の大漁があってにわかに発展し、明治41年には漁船29隻にのぼり、産額4万7750円を出すに至った((木村八十八沖縄県水産一斑大正元年11月、沖縄県農林水産行政史第17巻、原文を意訳した)。

 本部間切(マギリ、いまの町村)において、1903年(明治36)11月に漁業組合が設立された。明治38年には、国頭(クニガミ)郡の本部、大宜味(オオギミ)、国頭間切で漁船を購入して漁猟、鰹節製造に着手し、次第に盛況に向かっていった。明治40年代における本部村のカツオ漁業は著しく盛んな時期であった。カツオ漁船の数は漸増して32隻(明治42年)に達し、漁獲数量および生産額は急激に増加した。

明治38年には既に、「渡久地の名物は、鰹料理なりとして県下に誇れる所なり」(明治・大正新聞集成―本部町史資料編1)とあるように、本部の鰹料理は県下に名を馳せていた。 

しかし、明治43~44年には10隻も減り、19隻となって浮き沈みが激しく、安定していないこともまた事実であった。

2013年10月21日 (月)

初めてのライブハウスМОD’S

 沖縄のライブハウスの代表格といえば、北谷にある「ライブハウスМОD’S」。初めて出かけた。Img_3692


 沖縄を代表するスーパーギターリスト、良明さんのバースデイライブがあるからだ。

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 ライブ名は「とことん良明」になっていた。日ごろ、ふーみと良明のフォークユニット「F&Y」でのライブを見に行っている。良明さんは、沖縄の名だたるミュージシャンをサポートしているが、今回は、F&Yをベースにしたライブになるらしい。

 Img_3706 良明さんの51歳の誕生日だ。なぜか、相方のふ-みさんは52歳と思いこみ、「良明さんの52歳のバースデイライブです」と高らかに宣言したが、本人は「51歳ですー。数えでいえば52だからいいけど」と訂正した。間違った理由は、「22歳の分かれ」という曲の歌詞を変えた「52歳の分かれ」という曲を歌うので、いつの間にか「52歳」と刷り込まれたようだ。

 前半は、いつものアコースティックなF&Yで、最初からリクエストに応えながら歌った。

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 糸満の「風は南から」で応援しているメンバーを中心に女性陣が最前列に陣取り、熱いエールを送り続けた。

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 後半は、キーボード、ドラム、ベースを加えたバンド編成で得意の曲を次々に歌う。F&Yでは、もう聴きあきるほど聴いている曲が、バンド編成の演奏で聴くと、迫力が半端ない。音響装置もさすが、「МОD’S」だけあって、音量もド迫力。日ごろ聴いている演奏とは、まるで別の曲を聴く感じがするほどだった。

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  なかでも良明さんが、大ファンだったフォークグループ「NSP」を3曲続けて演奏した。「夕焼け」「コンクリートの壁に挟まれて」など。30年来の念願だったとか。「もう思い残すことはない」と冗談を言うほどの熱の入れようだ。
 「えっ、これがフォークなの? ロックじゃないか」と思うパンチの聴いた演奏。NSPは当時、「マイナーロック」とも呼ばれたそうだ。ロックのようなギタープレイだからこそ、良明さんも魅力を感じたのだろう。プログラムのトリにふさわしいライブだった。

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 演奏が終わると、次々にバースデイプレゼントが渡された。お酒大好きな良明さんだけに、プレゼントは、ビール一ケースやワインなどほとんどアルコール類ばばかりだった。でもやっぱり嬉しそうだ。Img_3729

 アンコールに応えて、「春雷」「落葉」「夢の中へ」になると、ステージ前で総立ちになっての踊りで幕となった。

 良明さんのギタープレイに酔いしれるひと夜だった。

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 こんな極上のライブを身近で聴けるところに、沖縄のディープな魅力がある。

  

2013年10月19日 (土)

初めてのキャンプキンザーフェスタ

 米軍基地の祭りに初めて行ってみた。我が家からもっとも近い米軍基地ともいえる浦添市にあるキャンプキンザー(牧港補給基地)のフェスタが2日間開かれた。こんなときでもなければ、アメリカーのお祭り文化に触れる機会がないからだ。

 ツレの知人からこのフェスタのことを教えてもらった。「ピザとステーキが美味しい」とも。Img_3678 城間(グスクマ)のゲートから入る。身分証明書代わりに免許書を提示すると入れる。駐車場広すぎ。車とめてから祭りの場所に行くのも遠い。Img_3656 家族連れが多いので、こんな子ども用の怪獣の巨大な遊具もある。
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 お目当てのバーベキューは炭火焼で煙がもうもうと漂う。チキンとスペアリブだ。牛ステーキはない。さっそく両方を詰めたパックを買た。2000円。お店はみんなドルと円の両方で表示され、どちらでも買える。一ドル100円のレートだから、わかりやすい。

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 ちなみに、出店している店は、アメリカーと日本のテキヤと両方ある。次はピザ。Img_3652
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 ピザはすべて一種類。大きい。沖縄に移住するまでピザといえばイタリアを連想していたので、アメリカーがこんなにピザが好きだとは思わなかった。だから沖縄にはピザ屋が多い。それも宅配ではなく、お持ち帰りが普通。これも東京なんかとはまるで違うところだ。

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 食べ物はそろった。後は飲み物。生ビールがある。「ミラ」という銘柄。マイクロバスのような車体が横づけにされ、車体の横腹にビールを注ぐ蛇口のようなものがあり、ビールを注ぐ。こんな巨大生ビールのサーバー始めてみた。Img_3669
 さっそく食してみる。運転する私はソフトドリンク。ツレがゴクリと飲んでみて一言。「オリオンビールの方が美味い!」。ピザは、分厚い生地で、ソースがいまいち口に合わない。バーベキューの肉も、甘酸っぱいチリソースのようなソースをたっぷりかけてあり、肉の味がまるでしない。「うーん。こんなソースがアメリカーは好きなのか。塩コショウだけで焼いた方がいいんじゃないかなー」と思いたくなる。日本人は、塩コショウか醤油ベースのソースでよく食べるので、どうもこのソースでは美味しく感じられない。

さすがに食べきれず、残りはお持ち帰りとなった。

Img_3674_2 米軍基地のフェスタは、各基地ごとにあるようだ。このキンザーフェスタにも、他の基地の人たちも集まるのだろう。

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 祭りであっても、軍用車両などを展示していた。「MKR15」で、日本語の説明文が掲示されている。しかし、日本語になっていない悪文だ。高速道路やクロスカントリーで走行する10×10トラック。よくわからないが、とにかくでかいトラック。

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MRAP6×6」。死傷者を減らし、小さな単位の戦闘活動をサポートするとか。これも説明ではわからない。

 舞台では、なぜか沖縄のエイサーばかり続けて演舞していた。フェスタにしては、舞台は全く見ないで帰った。

                             

 

 

 

2013年10月18日 (金)

ゴーヤーが美味しい浦添の大衆食堂

 アルテ・ミュージック・ファクトリーの音楽仲間である伊波さんから、お誘いを受け、浦添市の市役所斜め向かいにある「大衆食堂寿恵味(スエミ)」で、ゴーヤーチャンプルーを食べた。これぞ、ウチナー料理の典型という味わいだった。

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 なぜ誘われたのかというと、ツレが「琉球新報」に「ゴーヤー熱愛」というエッセイを投稿した。20年以上前、沖縄でのゴーヤーとの出会いから、料理にまつわる思いを綴ったものだ。それを伊波さんが読んで、いたく感心して「家の近くにゴーヤーの美味しい店があるから一度招待したい」とお誘いがあった。

 「店の名前は?」と尋ねると「大衆食堂って言うけど、その下はなんだったかなー。安波茶(アハチャ)にあるよ。市役所の近く」という。
 大衆食堂という言い方自体が、懐かしい。ネットで検索すると「大衆食堂」の名前でいくつも出てくる。安波茶といえば、寿恵味しかない。

 なるほど、長年営業しているような目立たない佇まい。「大衆食堂」の名前が相応しい。店内は、座敷テーブルが3つとカウンターがあるが、それほど広くない。

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 メニューが並んでいる。伊波さんは迷わず「ゴーヤー2つ」と注文した。なぜか、メニューは「ゴーヤー炒め」になっている。伊波さんは、朝飯を食べたばかりだと「ポーク卵」を注文。これは朝飯の定番だ。メニューを見ると「ゆしどーふ」「サンマ付き」とある。大和的には、サンマはメインになるが、ここではサンマはおまけ扱い。ちなみに沖縄は、料理名だけで定食と書いていなくても、かならずご飯、みそ汁が付く。

Img_3622 店内には、サイン入り色紙がたくさん掲げられているが、眺めているとプロ野球の審判のサインが多い。というのは、浦添は近くの野球場が、ヤクルトスワローズのキャンプ地になっているからだ。

 ゆうたく(オシャベリ)するうち料理が運ばれてきた。ウチナー大衆食堂は、量が半端なく多い。 

 それに、味噌汁ではなく、沖縄そばが汁ものとして付いている。「これほど食べられるかなー」と思ったが、ゴーヤーは余り濃厚な味付けではないほどよい感じで、美味しい。ペロリとたいらげた。

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 食べ終わる頃に、店の奥さん(多分)が「これよかったらどうぞ」とミカンを6個ほど出してくれた。デザートをサービスしてくれるなんて、さすが大衆食堂だ。

 伊波さんは、アルテではいつも自作のフォークを歌う。それも、直前に作ったという作品から30年以上前の若いころ作った作品まで。ある有名歌手に楽曲を提供したこともある。短歌を作る歌人でもある。

  食後は、「近くのカラオケに行こう」と誘われ、行った先はスナック風「カラオケ・ラウンジ」。店は、落ち着いた雰囲気だ。「ここはうるさくないので、文化人がよく集まる店だよ」とのこと。「紹介したい人がいる」と一緒に招いていた人は、やっぱり俳句をたしなむ。那覇文化協会の会員で自作が掲載されている『那覇文芸』という雑誌も頂いた。

 ママさんは宮古島出身。手作りクーブイリチー(昆布炒め)でもてなしてくれた。楽しいひと時を過ごした。それにしても、大衆食堂もカラオケも伊波さんのおごりばかり。いやはや、感謝、感謝です。

  

2013年10月17日 (木)

県外から学んだ沖縄のカツオ漁

県外から学んだ沖縄のカツオ漁

トカラ列島でカツオ漁が盛んで、年貢がカツオ節だったことを書いてついでに、沖縄の事情に少しふれておきたい。沖縄では琉球王府時代は、漁業としてのカツオ漁はなかった。廃藩置県後の1885年(明治18)、鹿児島県の業者が慶良間諸島で試漁したのが始まりだ。それ以降、1894―6年に宮崎県の漁民、1898年に鹿児島県人の宮田善右衛門の船、田中長太郎の船で入漁し、座間味間切(マギリ、いまの町村)阿嘉村に根拠地をすえて始業した。いい成績をあげたのを見て、島民はこれを機会に、4―5人の漁民を便乗させ、漁船の運用ならびに釣獲(チョウカク)方法の伝習を受けた。


 
 その後も宮崎県の漁船から技術を学び、静岡県の漁船が国頭地方に漂着したのを全島民で買い求め、カツオ漁を始めた。これが、沖縄におけるカツオ釣漁業のはじめと言われている。これはまた、カツオ節製造業の始まりとなった。1906年には、9組合16隻のカツオ船をつくり、全島あげてカツオ漁業に従事することになった。

1905年には、国頭郡の大宜味・国頭・本部・羽地において、間切有志組合を設け、カツオ節製造が始められた。その後さらにカツオ漁は盛んになり、大正後期にカツオ節業は最盛期となった。カツオ節は沖縄では砂糖に次ぐ重要な製品となっていた。

以上は『沖縄の歴史第2巻近代編』(沖縄教育出版)から紹介した。132_2
           糸満の漁港の風景

れをみればわかるように、沖縄でのカツオ漁の歴史は古くない。近代になってからである。年貢にカツオ節ということもない。カツオ漁だけでなく、琉球王府の時代は、農業が重視され、漁業を専業とするものはおおむね糸満漁民などに限られていたという事情もある。
 
 「各島々の沿岸に住む人々、生活を営む途(ミチ)はおおむね農業を専業としており、漁業に従事する者はきわめてまれである。本島島尻地方兼城間切糸満村は、管下第一の漁村で、その漁業に熱心なのは驚くべきものがある」。1888年(明治21)に沖縄の水産事情を調査した西南地区中央水産調査員の報告でも、こういう実情にあった(同書)。

同じ南西諸島の島々であっても、その置かれた自然の条件や社会的歴史的な条件によって大きな違いがあることがわかる。

なお、沖縄の漁業事情について関心のある方は、このブログで「大漁唄がない沖縄の不思議」をアップしてあるので、ご覧ください。

2013年10月16日 (水)

カツオ節が年貢だったトカラの島々

カツオ節が年貢だったトカラの島々

薩摩藩のカツオ漁撈の中心地は、トカラ列島だった。屋久島と奄美大島の間の海域に連なる口之島、中之島。諏訪之瀬島、悪石島、平島、臥蛇(ガジャ)島、宝島(小宝島を含む)の七島である。
 
 鹿児島では、枕崎、山川の二つの港がカツオ漁として有名だ。でも昔は七島が名産地だった。

カツオは黒潮にのって回遊する魚である。黒潮は東シナ海を北上し、トカラ列島付近でその向きを東に変えて太平洋に流れ込む。だからトカラの海域はカツオの絶好の群れ場所であり、漁場である。

下野敏見著『南日本の民俗誌3 トカラ列島』を読んでいると、「カツオ漁史」を簡潔にまとめられていて興味深かった。同書からかいつまんでの紹介である。

トカラのカツオ漁撈の始まりは縄文時代にさかのぼるらしい。ただ、地域の歴史にあらわれるのは、16世紀になってからだ。1513年、臥蛇島からカツオ節と煎脂(センジ、カツオの煮汁に骨を加えて煎じる)を種子島氏(種子島の領主)に貢納したことが『種子島家譜』に記されている。1770年には「秀吉の朝鮮の役(16世紀末)の時、七島からカツオ節を献上した。カツオ節は勝男武士であり、至極冥加(シゴクミョウガ)であると殿様が喜んだ。以来、七島から毎年、鰹節30連(1連は10本)、塩辛2壷(1壷は3斤入り)を献上するようになった。これらの品物はトカラ(漢字)各島の郡司が持参し、各島いっしょにまとめて献上するようになった」という趣旨の記事が島津氏記録にあるという。

トカラの人々が島津氏に納める年貢はカツオ節であった。中之島では2616本を41戸で納めたから1戸当たり63本ほどになる。宝島では、カツオ節9048本納めた。これらは年1回、年貢船で上納した。

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                  カツオ節

藩政時代の平島の一戸当たり上納額はカツオ節40本であったという。それは太くても小さくても駄目で、八寸長さに規格化されたものでなければならなかった。丸に十の字の旗を立てた薩摩の御用船(9反帆)が来て積んで行った。その船を年貢船といった。

納められたカツオ節は江戸、大坂へも送られて、薩摩節、七島節といって名産の一つに数えられるにいたった。
 
 七島民の税負担はほかにもあった。宝島の例をあげると、煎脂18斤(6樽)、真綿1貫30匁など。竃税(各戸1匁ずつ)、牛税(1頭に銀2分)もあった。

ほかにも、例えば島司が麑府(ゲイフ、鹿児島)参上の時は、藩主、隠居、若殿などへ、それぞれ節300本ずつを献上し、船手、船手奉行、上書役、奉行などへも、節を50本ずつとか銭500文とか、酒いくらとかを献上するならわしだった。これらを七島全戸で割ると、一戸当たり年間25本~70本のカツオ節負担になる。

「このような税負担に苦しみながらも、トカラ(漢字)漁民たちは、川辺郷士の誇りも高く、砕け散る波頭のしぶきを浴びて、七島灘にカツオを追ったのである」(同書)

2013年10月13日 (日)

宮古島人頭税物語を歌う上地雄大

 那覇大綱挽まつりの始まった12日、奥武山公園で恒例の「オリオンビアパラダイス」が開かれた。野外ステージを楽しみながら、工場直送の生ビールをグビグビ飲めるのが嬉しい。

 出演するミュージシャンはほとんど洋楽系なのに、トップバッターだけは、宮古島出身の演歌歌手、上地雄大である。会場に着くと、すでにステージは始まっていた。

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 歌っていたのは「島の夜明け~宮古島人頭税物語」。宮古出身の彼は、島民を苦しめた人頭税(ニントウゼイ)廃止運動にすごく見識がある。明治後期まで続いた天下の悪税を廃止させた農民のたたかいに共感と誇りをもっている。

 これまで、新潟県出身で宮古に来て廃止運動の先導役ともなった中村十作をテーマにした『中村十作と駆けるー宮古島人頭税廃止の指揮官』の著作を出している。
 彼のCDオリジナル全集のなかで、「中村十作」を発表している。

 宮古島の旧上野村の出身である上地雄大は、「宮古の人のために力を尽くした中村十作の偉業を風化させないためにも、多くの人たちに聴いてほしい。一生かかっても次の世代に引き継ぎたい」(「宮古新報」2010年3月5日)と述べていた。

 「宮古島人頭税廃止110周年記念盤」として新たに発表したのが「島の夜明け~宮古島人頭税物語」である。「川満亀吉編」「上原戸那編」。作詞は上地雄大、作曲は、前者が橋田みつのり、後者が竹村次郎である。歌唱と台詞からなっているけれど、まだ詳しい内容がわからない。
 
 宮古島の人頭税廃止といえば、国会請願のため上京した農民代表の西里蒲、平良真牛、それに島外出身の中村十作、城間正安が有名だ。でも今回は、それ以外の運動家に光を当てた。

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 川満亀吉も上原戸那も、人頭税に苦しむ農民のために立ち上がった人物。このうち、上原は、新城村総代であり、国会請願に上京して宮古でのリーダーが不在の間、民意を掌握し、弾圧を跳ねつけたいわば留守居役だという。生まれた所に、「新城村総代上原戸那生誕之碑」が建てられている。
 Photo 川満亀吉については、よくわからない。宮古島の旧城辺(グスクベ)町教育委員会の作成した「人頭税廃止100周年人頭税資料展」冊子に、「農民総代会で代表4人を選出」という絵がある。その中で、左端に描かれている人物が「川満亀吉」と説明されている。4人を送り出す側では、川満だけ名前が書かれているので、それだけ運動の先頭に立った人だったのだろう。

 上地雄大は、熱血漢で人頭税廃止のたたかいをより多くの人々に広げていきたいと情熱をもって曲作りをしている。しかも、彼は自分の発売するCDを売りさばくために、沖縄だけでなく、首都圏、関西、福岡など各地を回り、それも夜の盛り場の飲み屋を一軒一軒訪ね歩くという活動を何年も続けている人だ。熱情なしにはできない。彼の演歌が好きというわけではないが、人頭税廃止の歴史に思いを寄せるその心情には、大きな拍手を送りたい。

 ビアパラダイスの会場は、上地雄大が歌った頃は、聴衆も少なかったが、力を込めて歌っていた。そこには、宮古の「アララガマ精神」がみなぎっていた。「アララガマ」とは、「なにくそ!」と頑張る宮古人の肝心を表している。人頭税廃止もその精神が実ったものだ。

 

 ビアパラダイスは、このあと若いミュージシャンのラップやロック、首里出身のしおりの歌声と続いた。Img_3570

 この日のメインは、ディアマンテスのライブだ。 ラテンのリズムに酔いしれる。Img_3580
 アンコールは、「シェリトリンド」。「最後は踊っていいでしょう」という呼びかけに、それまでガマンガマンだった人たちも総立ちで踊りまくった。

Img_3583 最後は花火が夜空に咲いた。花火の右に光っているのは、ちょうど上ってきた半月である。

2013年10月11日 (金)

琉球に渡来した宝島人とは、その6

「上り口説」で歌われる七島灘

薩摩に支配された琉球は、ことあるごとに日本・薩摩に行かなければならない。幕府の将軍誕生など祝う慶賀使、琉球での国王就任に感謝する謝恩使、薩摩への年頭使など派遣された。大和への「上国使者」は、約1000回を数えるという(深瀬公一郎「近世日琉関係における鹿児島琉球館」、紙屋敦之著『東アジアのなかの琉球と薩摩藩』から)。「大和旅」と呼ばれた。

 

 

 


Img_3397             昔の三重城の姿。壺川駅前の史跡案内版から


 

「大和旅」の情景を歌った沖縄民謡に「上り口説」(ヌブイクドゥチ)がある。

 首里城出発して、首里観音堂を拝み、弓矢八幡、崇元寺の前を通り、親子兄弟と別れて船に乗り出発する。船は三重城、残波岬(ザンパミサキ)を後にして、伊平屋島灘の荒波をこえ、東シナ海を北上し、奄美諸島を見ながら、海の難所、七島灘をこえる。そして、佐田岬、煙を噴き上げる桜島に迎えられ薩摩に到着する。

7番目の歌詞に、七島が登場する。

「伊平屋渡立つ波 押し添いてぃ 道ぬ島々 見渡しば 七島渡中ん なだやしく」

(伊平屋灘の荒波も風のごとくに 奄美諸島の島々を見渡してみれば 七島の荒波も楽々と)

奄美大島と屋久島の間、トカラ列島付近の海域は、古くから「魔の海域」として恐れられてきた。東シナ海を北上した黒潮が、海のなかの大河のように激しい勢いで太平洋に流れ込むからだ。古くから海難事故が多発した。

七島灘の難所を通過して薩摩に至る船旅は、とても危険がともなう。だから、航海安全はなによりの願いだった。この曲では、そんな海の難所も「なだやしく」といって、荒波をらくらくと越えられるようにという願いが込められているようだ

トカラ列島と七島灘の海の難所のことを知れば、この歌詞の意味がよくわかる。次からは、そんな意味や歴史をかみしめながら歌いたい。

 

2013年10月10日 (木)

琉球に渡来した宝島人とは、その5

琉球侵攻の水先案内を務めた

紙屋敦之氏は『東アジアのなかの琉球と薩摩藩』のなかの、「七島・七島衆と東アジア海域」で、七島と琉球のかかわりについて、次のようにまとめている。すでに引用した部分もあるが、あえて紹介しておきたい。 

15世紀半ばの七島は、半ば琉球に属し半ばは日本に属する、琉球と日本(薩摩)の境界地域であった。薩摩の守護島津氏が国人に対し七島の島を知行として与えているが、それは知行=廻船で、交易権を与えるものであった。しかし、16世紀半ばに戦国大名島津氏は七島地頭を任命し、領域支配を目指したと考えられる。

 琉球側の七島支配は具体的にはわからない。薩摩藩は道之島(奄美諸島)の諸役人に琉球国王から帕(冠)すなわち位階を賜ることを禁じているが、七島にはそうしたことを命じていない。七島は琉球の政治的支配を受けていなかった。
 
 七島衆は、那覇・若狭町のトカラ小路を宿所とし、琉球と交易を行なった。また、琉球国王の冊封の際、七島人が冊封使に対面し贈答を行ったのは、評価交易に参加するためであったといえよう。

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 中国との貿易は福建省福州が窓口だった。那覇市内にある中国式庭園「福州園」

 七島衆は「小王あり」と呼ばれた海上勢力であった。琉球と薩摩間の交易活動はいうまでもないことであるが、七島船は中国に渡航して交易を行った可能性が出てきた。1595年に七島に漂着した福建巡撫の使者史世用を送還した「琉球船」は、島津義久から旗を賜り、鹿児島五官と称する明人が同心していることからみても、琉球国王が派遣した琉球船とは考えられない。中国船が琉球船と理解したのは、七島が半ば琉球に属している地域であることを知っていたからであろう。

 秀吉の朝鮮侵略が始まると、七島衆は仕立船を造り、朝鮮に渡海したという。七島衆が東アジア海域を舞台に活動する能力を有していたことを示している。薩摩の琉球侵略の際は薩摩軍の水先案内を務め、那覇港を攻撃している。琉球の那覇に拠点を持ち、交易を続けてきた七島衆であるが、まさにそれが琉球・薩摩の政治支配から自由だった交易集団の行動といえるのではないか。

 しかし、そうした海上勢力だった七島衆も、琉球侵入後薩摩藩の直轄支配下に置かれ、徳川幕府の海禁政策が展開していく過程で、交易活動としての性格を喪失していった。

2013年10月 9日 (水)

琉球に渡来した宝島人とは、その4

薩摩支配を隠ぺいするために使われた「宝島」

琉球は、中国に朝貢し、中国皇帝から国王として認証を受ける冊封(サッポウ)体制にあった。1609年に薩摩により侵略され、その支配下にありながら、日本・薩摩との関係を出来る限り隠ぺいする政策をとった。冊封使が渡来した際は、薩摩の役人らは那覇を離れ城間(グスクマ)村=今の浦添市=に隠れた。唐人には決して薩摩の支配を受けていることは話さないことを徹底していた。

『東アジアのなかの琉球と薩摩藩』によると、1683年に尚貞王が冊封された年に、琉球は薩摩藩の役人と船頭を宝島人(これは今のトカラ列島、昔の七島を総称して宝島と呼んでいた)と偽って、那覇で冊封使と対面させていた。1719年に尚敬王が冊封された年に、薩摩藩は宝島人と冊封使との対面を中止させた。

琉球王府は、薩摩侵入後、日本・薩摩との関係を隠ぺいするために、日本と通交しているのではなく、日本の属島トカラの商船が来航して交易を行っているという、「トカラとの通交」という立場をとった。

「タカラとの通交」という論理は、薩摩支配を隠ぺいする方策としてしばしば使われた。

中国へ使いに行った琉球人、あるいは漂着という形で中国へ着いた琉球人が、琉球と日本との関係を問われたとき、宝島人(七島)と商売している、琉球にやってきているのは宝島の商船である、と答え、日本(薩摩)との関係を隠ぺいする政策をとっていた(1753年、59年の「旅行心得之条々」「同追加」、紙屋敦之著『東アジアのなかの琉球と薩摩藩』から)。

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        道之島と呼ばれた奄美諸島      

 道之島(奄美諸島)人がヤマト船に乗って唐(中国)へ漂着した際の返答の心得をのべた史料がある。それによると、道之島は琉球の属島として中国へは知らせてあるので、そのつもりで返答せよ、という。たとえば、琉球は36島あって、3,4年に1度島々を巡見するのであるが、自分たちはこのたび徳之島を巡見して、舟がないのでヤマト船(タカラ島船)を雇って那覇へ帰る途中、唐(中国)へ漂着した、と答えよ、と指示している。(金城正篤著「冊封体制と奄美」『琉球史学』12号)

中国から琉球に冊封使を乗せた冠船が来る途中に道之島(奄美諸島)に漂着した場合の応対の心得をのべた史料もある。その中に、「もしもヤマト船が係留中ならば、砂糖・芭蕉・苧(カラムシ)・米等の買入れのために来ている『宝島』の者の船だと答えろ」と指示している(同書)

これらは、薩摩との関係を隠ぺいするため、「宝島」=七島が都合よく使われたことを示している。それだけ、七島の商船が奄美諸島や琉球に買入れのためによく来ていたことの証左でもある。

 

2013年10月 8日 (火)

連続台風通過し、夕空に三日月

 台風23号、24号が連続して沖縄地方を通過した。沖縄気象台によれば、今回のように相次いで通過するのは、2005年以来で、復帰後でまだ2回目というから珍しいことだ。

 24号は速度が速かったので台風一過、朝から晴れた。夕方には、南西の空に三日月と金星が並んで光っていた。

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 今回は台風のタイプがまるで違った。23号は、速度がゆっくり。宮古島の方に進み、沖縄本島は直撃を免れた。でも、台風の目の東側にあたったため、9日の土曜は午後から風雨が強まるだろうと思っていたら、朝から風雨が強まり、一日中止まなかった。宮古島、石垣では相当停電になった。

 24号は、瞬間最大風速70mが予想され、身構えていた。速度が速いので、急に風雨が強まることを警戒した。ところが、これが奇妙な台風だった。

 7日月曜日の昼ごろ、暴風雨域に入ったというのに、「台風ってどこ!」という感じ。ほとんど風も雨もなし。台風進路図で確認すると、本島の東側を通過している。完全に那覇市内も暴風域に入っているのに、風雨ともたいしたことがない。速度が速いから、そのあと本島北部と与論島の間を通過しているのに、少し風が吹くくらい。「これはもう吹き返しの風かな」という感じだった。

 与論島では最大53.5mの暴風が吹いたので、猛烈な台風だった。沖縄本島で停電6000戸、303人が避難したほどだ。

 それだけの非常に強い台風なのに、本島中南部は、台風の目の左側だったのが幸いしたのか、台風らしい雨風には見舞われずに終わった。

 台風に直撃された地方のみなさんにはお見舞いを申し上げたい。沖縄本島、それも南部は台風が左に右にそれぞれコースが外れたため、事なきを得た。

 今年は台風の当たり年。太平洋の海面の温度が高いから、発生件数が多い。。幸い、日照り続きだったのが、台風の接近でかなれ雨も降った。サンゴの白化現象も、台風が海水をかき混ぜてくれると、海水温度が下がり、回復するという。台風も来なければ困る面もある。でも、今年はもう結構です。これがいまの心境である。

2013年10月 7日 (月)

アルテで「桃売アン小」を歌う

 毎月恒例の「アルテ・ミュージック・ファクトリー」で、今回は「桃売アン小」(モモウイアングヮー)を歌った。題名は、「桃売り娘」という意味である。沖縄芝居で作られた歌だと聞く。男女掛け合いの歌である。
 ファクトリーの今回のテーマ「響」。「とよむ」とも読ませていた。なぜ、この曲にしたのかというと、男女掛け合いで歌うので、歌が響きあう。それに互いに思いあう男女で、愛情が響きあうという意味も兼ねて、この曲を歌いたいと思った。

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 ファクトリーは、今回も「南亭こったい」の落語「火焔太鼓」ではじまった。「こったい」さんは、今月大阪で開かれる社会人落語選手権に予選を突破して出場する。頑張ってほしい。

 今月初めてエントリーしたなかで、なんと私と氏名の下の名前が同じ人がいた。伊禮昭洋さん。ハーモニカを3本もって「出船」など見事な演奏を披露した。Img_3537 生まれも、1944年(昭和19)で私と同年の生まれだ。太平洋戦争のただなかだ。海軍記念日の生まれだから、親がこの名前にしたとか。名前にも。時代が刻まれている。

 「桃売アン小」は、桃と行っても山桃のこと。かつて、今の沖縄市の山内・諸見里は有名な山桃産地で、那覇市にも売りに来たと言う。アルテの三線仲間のHさんは、山内の出身だとか。かつて山内の里山には桃山があった。でもいまは里山もなくなり、住宅地などになって、山桃はとれないそうだ。

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 「桃売アン小」の歌詞を紹介する。
女、桃売やい我んね サユン布買うてえくとぅ くりし着物縫やーい かなしアヒ小に
  我ね 着しゆん

女、くりし着物縫やーい 着りぬ余ゆくとぅ 我身ぬ着物ぬ袖に 付きてぃ我ね着ゆん
  よーわんねー

男、着物どぅ洗ゆるい 布どぅ晒するい 水や我が汲むさ 疲てぃや居らに
 イェー 無蔵よ

女、くりし着物縫やーい アヒ小に着いゆくとぅ 今から後や 他所とぅ毛遊び 
 すな ようやー

男、誠真実ぬ 形見どぅんやりば 今からぬ後や 他所とぅ毛遊び
 我ね すんなあ

女、云ちゃんどうやーイェー アヒ小
男、変わるなよ 互に
男女、親に云ち二人や 夫婦にならな 我っ達 二人

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 歌詞の意訳は次の通り。
女、桃を売って私は、織ったこの布を買ってあるから、それで着物を縫って、愛しい彼氏に着せさせる

女、布で着物を縫っても切れ端が残るので、私の着物の袖に付けて着るわよ、私は

男、着物を洗っているか、布を晒しているか、水汲みは私がするから、疲れていないかい、彼女よ

女、これで着物を縫ってあなたに着せるから、今から後は他所の人と夜遊びはしないでちょうだい

男、心からの愛情を込めた形見であれば、今から後は他所の人と夜遊びを、私はしないよ

女、言ったよねえあなた

男、心変わりするなよ、お互いに

男女、親に話して二人は夫婦になろうね、私たち二人は

 歌ってみると、またもや高音が出なかった。 「いい歌ですね。説明があったので、歌っている時の歌詞も理解できました」とのl声がよせられた。

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 ツレは、ピアノで「ある愛の詩」を弾き、越智さんがトランペットを奏でてくれた。落ち着いてメリハリも聴かせた演奏だった。「とても初めて1年半の演奏とは思えない」との感想が聞かれた。

 台風23号が接近したので、予定していた10月5日(土曜日)を6日(日曜日)に順延しての開催だった。日曜日だとこれない人もいてちょっとさびいいファクトリーだったが、初めての出演もあり楽しめた。

 

2013年10月 6日 (日)

琉球に渡来した宝島人とは、その3

トラブルもあった交易活動

中国から琉球に国王の認証のためにやってくる冊封使(サッポウシ)一行は、たくさんの中国物産を持ち込む。それを琉球王府がそれを買い取る。大事な交易の機会である。

しかし、持ち込む唐物の買い取りをめぐって、しばしばトラブルが発生した。有名なのは、一七一九年の尚敬王の冊封の時だ。冊封使は、正使が海宝、副使は徐葆光(ジョホコウ)だった。この当時、持ち込まれた品物は確かな史料がある一〇七人分だけで一〇〇七件にのぼる。一行の総勢六〇〇人以上だと、品物の総数は、六〇〇〇件以上と推測される。

品物の代銀は二〇〇〇貫余ある。琉球が用意した買取代銀は五〇〇貫目しかなかった。中国側が立腹して騒ぎになった。なんとか一〇〇貫追加して、銀六〇〇貫を用意したが、結局半分以上の品物は売れ残り、中国側は持ち帰ることになった。

なぜ、この時に大きなトラブルが起きたのか。それは、前回の冊封の時(三六年前)は、冠船の入港のニュースを聞いて、琉球の近隣の鹿児島、トカラ七島などから船が中国物産の買い物に集まってきた。中国から持ち込んだ品物はよく売れたそうだ。この時のことが、福州では語り草になっており、「今度も売れるだろう」とあてこんで、乗組員たちが多量の品物を持ち込んだようだ。
 だが、平和が長く続き、琉球も毎年、福州で貿易し、外国にも中国の商品が豊富に出回るなど、もはや事情は一変していた。だから、中国から冠船が来ても、琉球外から買い物の船はまったくやって来なかったという。七島・薩摩からも買い付けに来なかった。まったく当てが外れたわけである。

Photo  中国に渡航した唐船は、こんな船だった(読谷村の「ゆんた市場」)

2013年10月 5日 (土)

琉球に渡来した宝島人とは、その2

唐物を買い付けに来た宝島人

 

七島衆は、15世紀以降、薩摩から琉球まで往来する交易集団として活動していた。

屋久島と奄美大島の間のトカラ列島の海域は、東シナ海を北上した黒潮が、その向きを北東に変えて太平洋に流れ込むところである。七島灘と呼ばれる海の難所だった。
 
 「古代・中世の航海は、黒潮の流れに左右されながら、島伝い航路をとって展開され、そして黒潮の特性を踏まえつつ、広くアジア各地との交流を実現していったが、そこで注目されるのは航路に沿って点在する島々の役割である」(市村高男著「中世日本の西の境界領域と黒潮トライアングル研究」)。

七島衆は、島伝いの海路を熟知し、琉球・薩摩間の交易の一角を担っていた。

紙屋敦之氏は、次のようにのべている。
 
首里王府が1712年に編纂した『琉球国由来記』の「那覇由来記」に、若狭町小名  トカラ小路(往昔、トカラノ島、当国ノ御手内内之時、彼辺ニ宿シタルトナリ。故ニカク云トゾ)

と、若狭町のトカラ小路は、トカラの島(七島)が琉球の御手内、すなわち半ば琉球に属していた時代に、七島衆が宿泊した場所である。古琉球の那覇には久米・若狭・東・西の四町があった。

 琉球は2年に1回北京に朝貢した。中国との朝貢貿易でもたらされる唐物を入手するために、日本船が琉球に来航した。そのなかに七島衆も混じっていた(『東アジアのなかの琉球と薩摩藩』)。

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   中山王察度の命を受け中国へ渡り、交流の道を開いた泰期(タイキ)の銅像(残波岬に建つ)

 那覇港には、唐土(中国)、異国、日本の商人、薩摩の坊之津・山川・七島などの商船が集まり、商売を行っていたという。

琉球は、中国皇帝に貢物を献上し、琉球の国王が交代する際は、皇帝の勅使である冊封使(サッポウシ)が琉球に来て、国王として認証していた。この冊封体制のもとで、琉球は中国との貿易を許されて、朝貢貿易を行っていた。冊封使の一行も、琉球に来るときは唐物をたくさん持ち込んできて、交易の場となっていた。

琉球王府は中国や東南アジア、朝鮮、日本をめぐる、中継貿易を活発に行い、貿易は国家の一大事業だった。15,16世紀は、とくに交易で栄えていた。中国や異国の産物が集まる琉球に、七島の廻船商人たちも、買い付けのため訪れていたのだ。

琉球に明の冊封使が渡来したとき、七島人が那覇に赴き、冊封使と対面し、たがいに贈答を行ったこともある。

「琉球冠船之節、唐按司へ、七島郡司名代、七島者四人罷下候、船領(頭カ)三人相加リ、都合七人罷出、進上物並返シ品等有之候段、享保3年戌閏10月、七島郡司申出候」(同書から)

七島郡司は、七島の各島に置かれた役人のこと。かつて琉球が薩摩に侵略される前、七島が半ば琉球に属していた時代に、冊封使が来航したさい、七島人の7人が冊封使と会って、進上物を贈ったことなど述べている。これは1606年6月の尚寧冊封以前のことだと見られる。

「冊封の際、冊封使一行が琉球に持ち込む唐物を琉球側が買い取る、「評価」(ハンガー)と呼ばれる交易が行われた。七島衆が冊封使と対面・贈答を行ったのは、評価交易に参加するためだったと考えられる」(同書)

中国との交易では、銀が必要だったが、琉球では銀は産出しないので、日本で調達することになる。日本は、石見銀山の開発に成功して銀産出国となった。日本銀の琉球への運び手はだれだったのか。「その一人として七島衆が浮かんでくる」(同書)。

七島衆は、唐物の買い付けだけでなく、琉球が中国と交易するうえで、不可欠の国際通貨である銀の運び手としても重要な役割を果たしていたことがうかがえる。

なお、「琉球と中国の長い交流の歴史」について、このブログでアップしてあるので、関心のある方はそちらもご覧ください。

2013年10月 4日 (金)

琉球に渡来した宝島人とは、その1

琉球に渡来した宝島人とは

 

 交易集団としてその名を馳せていた

 

琉球と中国の交流の歴史を学んでいたとき、琉球に「宝島」と呼ばれる地方から、商人が物産の買い付けに来ていたことを知った。この「宝島」とは、どこなのか。「宝島とは架空の島のこと」と説明する人もいた。でも、そうではない。奄美大島と屋久島の間に浮かぶトカラ列島、昔の七島を総称して宝島と呼んでいた。

 

トカラ列島といっても、あまりなじみがない。鹿児島の南、種子島から与那国島にかけて弧を描く南西諸島のなかで、屋久島と奄美大島の間の海域に連なる島々である。口之島、中之島。諏訪之瀬島、悪石島、平島、臥蛇(ガジャ)島、宝島(小宝島を含む)の七島がある。

 

口之島や平島など平家の落人が流れてきた伝説がある。宝島は、スティーブンスンの小説「宝島」のモデルになったとか。悪石島は、沖縄戦のさい沖縄から本土への疎開船「対馬丸」が、島の北西10キロで米軍の魚雷によって撃沈され、1400人以上の学童らが犠牲になった悲劇の歴史がある。島には慰霊碑が建っているという。

Photo     地図は紙屋敦之著『東アジアのなかの琉球と薩摩藩』から


 トカラ列島は、行政的には十島村である。テレビの九州地方の天気予報を見ると、必ず「十島地方」が出てくる。沖縄に住んだ当初は、「十島」もなじみがなくて「それってどこなの」という感じだった。

 

トカラ列島の七島と屋久島より北にある硫黄島など三島を合わせて、かつて十島村をつくっていた。でも太平洋戦争後、三島は日本へ、七島は米軍統治へと分断された。その後三島は三島村となり、七島は日本復帰とともに十島村となった。ここにも、戦争が影を落としている。
 
  このトカラ列島が、琉球と重要なかかわりをもっていた。

 

「十島村史略年表」を見ると、今から600年近くも前に、1429年から1440年ころ、トカラ列島から琉球に初めて船で買い付けに来たという。

 

「宝島の平田権二郎定宗が琉球へ渡り、布や酒を購入して鹿児島の藩主へ献上し、以後、琉球の案内約(役)を務める」

 

トカラ列島はいずれも小さな島々なので、古くから船を操り航海するのは得意だったのだろう。宝島は七島のなかでも、もっとも南に位置する。奄美大島、さらに琉球には近かった。七島人は、七島から琉球を結ぶ道之島の海路を熟知していた。
 
 それだけでなく、当時の七島は、半ば琉球に属し、半ば薩摩に属していた。七島には、七島海域を支配する領主は存在しなかった。

 

1450年には、臥蛇島に漂着した朝鮮人4人は、同島が薩摩と琉球の中間にあるという理由で、4人のうち2人は薩摩へ、2人は琉球へ送られた。
 
 半ば琉球と半ば薩摩に属していた当時の事情がうかがえる逸話だ。

 

七島衆は交易集団としてその名を馳せていた。「七島船が琉球と薩摩のあいだを人・物・情報を運んだ」といわれる(紙屋敦之著『東アジアのなかの琉球と薩摩藩』)。

 

 

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