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2013年10月10日 (木)

琉球に渡来した宝島人とは、その5

琉球侵攻の水先案内を務めた

紙屋敦之氏は『東アジアのなかの琉球と薩摩藩』のなかの、「七島・七島衆と東アジア海域」で、七島と琉球のかかわりについて、次のようにまとめている。すでに引用した部分もあるが、あえて紹介しておきたい。 

15世紀半ばの七島は、半ば琉球に属し半ばは日本に属する、琉球と日本(薩摩)の境界地域であった。薩摩の守護島津氏が国人に対し七島の島を知行として与えているが、それは知行=廻船で、交易権を与えるものであった。しかし、16世紀半ばに戦国大名島津氏は七島地頭を任命し、領域支配を目指したと考えられる。

 琉球側の七島支配は具体的にはわからない。薩摩藩は道之島(奄美諸島)の諸役人に琉球国王から帕(冠)すなわち位階を賜ることを禁じているが、七島にはそうしたことを命じていない。七島は琉球の政治的支配を受けていなかった。
 
 七島衆は、那覇・若狭町のトカラ小路を宿所とし、琉球と交易を行なった。また、琉球国王の冊封の際、七島人が冊封使に対面し贈答を行ったのは、評価交易に参加するためであったといえよう。

Photo_4

 中国との貿易は福建省福州が窓口だった。那覇市内にある中国式庭園「福州園」

 七島衆は「小王あり」と呼ばれた海上勢力であった。琉球と薩摩間の交易活動はいうまでもないことであるが、七島船は中国に渡航して交易を行った可能性が出てきた。1595年に七島に漂着した福建巡撫の使者史世用を送還した「琉球船」は、島津義久から旗を賜り、鹿児島五官と称する明人が同心していることからみても、琉球国王が派遣した琉球船とは考えられない。中国船が琉球船と理解したのは、七島が半ば琉球に属している地域であることを知っていたからであろう。

 秀吉の朝鮮侵略が始まると、七島衆は仕立船を造り、朝鮮に渡海したという。七島衆が東アジア海域を舞台に活動する能力を有していたことを示している。薩摩の琉球侵略の際は薩摩軍の水先案内を務め、那覇港を攻撃している。琉球の那覇に拠点を持ち、交易を続けてきた七島衆であるが、まさにそれが琉球・薩摩の政治支配から自由だった交易集団の行動といえるのではないか。

 しかし、そうした海上勢力だった七島衆も、琉球侵入後薩摩藩の直轄支配下に置かれ、徳川幕府の海禁政策が展開していく過程で、交易活動としての性格を喪失していった。

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