伊能忠敬より早かった琉球国の測量、その2
「間切島針図」を完成させる
琉球の測量術が飛躍的な発達をとげた背景に何があったのだろうか。
まず思い浮かぶ人物が、1719年に冊封(サッポウ)使節の徐葆光(ジョホコウ)と一緒に来琉した中国の測量官・平安だ。平安はこれまで、琉球の緯度・経度を測量したことしか知られていなかった。
ところが、平安は、琉球に来る2年前に、康熙帝(コウキテイ)の命令でフランス人測量師と一緒に中国全土を測量して「皇輿全覧図(コウヨゼンランズ)」という近代地図を作製した測量官だったことが判明した。
平安は、月食観測で緯度・経度を測量するために、琉球で1719年7月15日(旧暦)の未明に月食が起きることを予測して琉球に来たのであった。
その翌月には、首里王府が、平安らの天文観測の詳細や道具の仕掛けについて調査するよう久米村方(中国から渡来した人々が住む。技術や外交など技能を持っていた)に命じている。
つまり、平安から最先端の測量技術を入手するよう担当役人に指示していたのだ。
これを指揮していたのが、福州で風水地理を学んだ蔡温(サイオン)だったと思われる。蔡温は、平安の来琉から16年後の羽地大川の改修工事で針竿測量を初めて実施し、そして2年後の1737年から始まった乾隆検地では、沖縄諸島に設置した約1万基の
印部石ネットワークによる測量を実施したのである。
そして現在の市町村の基本図に相当する高精度の「間切島針図(マギリシマハリズ)」が完成した。
伊能忠敬の日本図
「間切島針図」を1枚にまとまると「琉球国之図」ができあがるが、実際に「琉球国之図」が作製されたのは46年後の1796年であった。
作製したのは、琉球の測量指南書である『量地方式集』を著した測量家の高原筑登之親雲上(タカバルチクドゥンペーチン)だった。
これを見ると、基本図が出来上がってから、琉球の全体図が作製されるまで半世紀近くがたっている。ということは、高原筑登之親雲上は、最初の測量にはたずさわっていないということなのか。その点は、全国を測量して回り、日本図を作製を行った伊能忠敬とは違いがある。ただ、伊能も完成は見ずに亡くなり、弟子と幕府天文方の役人が仕上げた。
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