伊能忠敬より早い琉球国の測量、その1
伊能忠敬より早い琉球国の測量
最先端のフランス流の測量術で
日本全土の測量を行ったことで有名なのは伊能忠敬だ。だが、伊能の日本図が完成した1821年より25年も前、1796年に琉球国では、沖縄島と周辺離島を測量して「琉球国之図」を完成させていたというから驚く。
原寸大複製と拡大図が那覇市の県立武道館で11月6日から展示される。それを前に「琉球新報」10月21,22日付で、沖縄県立博物館・美術館長の安里進氏の「『琉球国之図』を読む、最先端をいく琉球の測量術」が掲載された。琉球王府の時代に、伊能より早く優れた測量術があり、地図を完成していたことは聞いていたが、改めて詳細を知ることができた。この論文と展示会案内の記事から、紹介しておきたい。
伊能が1800年に全国測量を開始する63年前、1737年に「琉球国之図」の測量事業(乾隆検地)が着手された。王府の役人が測量担当チームを組み、大勢の住民を動員して、1750年までに、今の市町村基本図に相当する「間切島針図(マギリシマハリズ)」を作製した。
1796年には、琉球の測量指南書である『量地方式集』を著した測量家の高原筑登之親雲上(タカバルチクドゥンペーチン)が、各「間切島針図」を縮小接合して、1枚の「琉球国之図」に仕上げた。
伊能をはじめ日本の測量術はオランダ流だったのに対し、琉球の乾隆検地はフランス流だった。これは、「針竿(ハリサオ)測量」と呼ばれるもので、「針」(羅針盤)を用いた測量だが、大量に設置した印部石(シルビイシ、測量図根点)のネットワークを骨格にして測量したところに特徴がある。近代測量の三角網による測量と同じ原理だ。
フランスでは、1733年から測量が実行されたが、琉球でもほぼ同じ時期(1737~1750年)の乾隆検地から実施していた。これが日本に導入されたのは、明治以後だった。
では、どうして琉球で三角網による針竿測量をフランスと同時期に国土測量に応用できたのだろうか。30年前の18世紀初頭まで、琉球の測量術は十字法という低レベルの測量術だった。この間、何があって、琉球の測量術は飛躍的な発達をとげたのだろうか。
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