琉球に渡来した宝島人とは、その2
唐物を買い付けに来た宝島人
七島衆は、15世紀以降、薩摩から琉球まで往来する交易集団として活動していた。
屋久島と奄美大島の間のトカラ列島の海域は、東シナ海を北上した黒潮が、その向きを北東に変えて太平洋に流れ込むところである。七島灘と呼ばれる海の難所だった。
「古代・中世の航海は、黒潮の流れに左右されながら、島伝い航路をとって展開され、そして黒潮の特性を踏まえつつ、広くアジア各地との交流を実現していったが、そこで注目されるのは航路に沿って点在する島々の役割である」(市村高男著「中世日本の西の境界領域と黒潮トライアングル研究」)。
七島衆は、島伝いの海路を熟知し、琉球・薩摩間の交易の一角を担っていた。
紙屋敦之氏は、次のようにのべている。
首里王府が1712年に編纂した『琉球国由来記』の「那覇由来記」に、若狭町小名 トカラ小路(往昔、トカラノ島、当国ノ御手内内之時、彼辺ニ宿シタルトナリ。故ニカク云トゾ)
と、若狭町のトカラ小路は、トカラの島(七島)が琉球の御手内、すなわち半ば琉球に属していた時代に、七島衆が宿泊した場所である。古琉球の那覇には久米・若狭・東・西の四町があった。
琉球は2年に1回北京に朝貢した。中国との朝貢貿易でもたらされる唐物を入手するために、日本船が琉球に来航した。そのなかに七島衆も混じっていた(『東アジアのなかの琉球と薩摩藩』)。
中山王察度の命を受け中国へ渡り、交流の道を開いた泰期(タイキ)の銅像(残波岬に建つ)
那覇港には、唐土(中国)、異国、日本の商人、薩摩の坊之津・山川・七島などの商船が集まり、商売を行っていたという。
琉球は、中国皇帝に貢物を献上し、琉球の国王が交代する際は、皇帝の勅使である冊封使(サッポウシ)が琉球に来て、国王として認証していた。この冊封体制のもとで、琉球は中国との貿易を許されて、朝貢貿易を行っていた。冊封使の一行も、琉球に来るときは唐物をたくさん持ち込んできて、交易の場となっていた。
琉球王府は中国や東南アジア、朝鮮、日本をめぐる、中継貿易を活発に行い、貿易は国家の一大事業だった。15,16世紀は、とくに交易で栄えていた。中国や異国の産物が集まる琉球に、七島の廻船商人たちも、買い付けのため訪れていたのだ。
琉球に明の冊封使が渡来したとき、七島人が那覇に赴き、冊封使と対面し、たがいに贈答を行ったこともある。
「琉球冠船之節、唐按司へ、七島郡司名代、七島者四人罷下候、船領(頭カ)三人相加リ、都合七人罷出、進上物並返シ品等有之候段、享保3年戌閏10月、七島郡司申出候」(同書から)
七島郡司は、七島の各島に置かれた役人のこと。かつて琉球が薩摩に侵略される前、七島が半ば琉球に属していた時代に、冊封使が来航したさい、七島人の7人が冊封使と会って、進上物を贈ったことなど述べている。これは1606年6月の尚寧冊封以前のことだと見られる。
「冊封の際、冊封使一行が琉球に持ち込む唐物を琉球側が買い取る、「評価」(ハンガー)と呼ばれる交易が行われた。七島衆が冊封使と対面・贈答を行ったのは、評価交易に参加するためだったと考えられる」(同書)
中国との交易では、銀が必要だったが、琉球では銀は産出しないので、日本で調達することになる。日本は、石見銀山の開発に成功して銀産出国となった。日本銀の琉球への運び手はだれだったのか。「その一人として七島衆が浮かんでくる」(同書)。
七島衆は、唐物の買い付けだけでなく、琉球が中国と交易するうえで、不可欠の国際通貨である銀の運び手としても重要な役割を果たしていたことがうかがえる。
なお、「琉球と中国の長い交流の歴史」について、このブログでアップしてあるので、関心のある方はそちらもご覧ください。
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