カツオ漁の町・本部町、その3
鰹節製造にかかわった高知人
私の個人的な関心で、驚いたのはカツオ節の製造に高知人がかかわっていることだ。『本部町史』は次のようにのべている。
漁獲場と鰹節製造場所の距離の遠近は原料の鮮度に、鮮度の良否は製品の品質に重大な影響を与える。幸い本部村の鰹漁船の漁場は遠くても伊平屋島、与論島付近で、近いところは恩納から伊江島付近であり、原料としては申し分がなかった。
原料の鮮度が高いにもかかわらず、製品技術の拙劣、製造人の不足、製造設備の不完全、資本の欠乏などが指摘されていた。
カツオを持つ女性(画・屋嘉比尚武氏、『本部町史』から)
本部の鰹節は産出区域が狭小であるにもかかわらず、明治43年(1910年)ごろまでは製品の形状が揃わなかった。製品の評価を高め、販路を広げる上から形状を斉一にすることが必要であった。
その点を改善するため明治43年9月ごろ、高知県から製造技術者を招いて煮熟時の選択、器具の改善などが行われた。
鰹節の品質の向上を図るとともに、沖縄産鰹節の銘柄化の確立を目的として、先進地の高知県から製造教師を八名雇入れ、本部村にも武田俵太郎が派遣された。慶良間島に派遣された田中峰次郎とともに武田は最良の成績の評価を得ている。このことについて木村八十八は、
元来大阪市中に於ける節の価格中最も貴重なるは土佐節にして薩摩節是に次ぐ、而して日向節は土佐節の劣等なるものなり故に本県鰹節の改良を唱へんか土佐節による最も捷径(ショウケイ、目的を達する早道)なりとす。依て左の方法により鰹節製造教師を雇入れ県下に産出する節の改良に従事す。
1、鰹節製造家にして熟練なる者を高知県土佐国より雇入れたる。
2、鰹釣教師と同様の個所に配布し殆んど本県下全部より産出せらるる鰹節は一時に土佐型に改良せんとす。
(沖縄県水産一班・木村八十八、大正元年11月 行政史17巻)と述べている。
明治43年から製造手とともにカツオ釣技術の向上を図るため、宮崎県から8人の漁撈手を雇入れた。
漁撈手の派遣については、少なくとも大正10年まで、製造手については大正14年まで、毎年実施されてきたようである。
大正10年にもなると、製造手については、高知県人のみではなく、沖縄県人の名もみられる。
沖縄の本部町と高知は、遠く離れていて、これまであまり縁があるとは思わなかった。ただ、カツオ漁が盛んなことでは、共通点があると思っていた。今回、本部のカツオ漁の歴史を学び、直接、カツオ節の製造で、高知人が技術の指導にきていたことは初めて知った。これも黒潮が結ぶ縁というのだろう。
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